『境界線を超えて』 2026年2月1日
- NEDU Church
- 12 分前
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説教題: 『境界線を超えて』
聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書56:1-8
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書15:21-28
説教日: 2026年2月1日・降誕節第6主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
今日の始まりのところには、「イエスはそこをたち」とあります。「そこ」というのは、主イエスが伝道の拠点とされていたガリラヤ湖ほとりの街、カファルナウムです。そしてそこから「ティルスとシドンの地方に退かれた」とあります。ティルスやシドンというのは聖書巻末の地図を見ていただくとわかりますように、地図の一番上のフェニキアと記されている中の地中海に面したところです。ここはユダヤ人の地ではなく、異邦人の地です。主イエスはなぜ離れた異邦人の地に行かれたのでしょうか。主イエスはイスラエルの人々に神の国の福音を宣べ伝え、そのしるしとして癒しの御業を行ってこられました。弟子たちにもその派遣に際して、異邦人のところではなく、イスラエルの家の失われた羊のところに行け、と10章5節で語っておられます。まずはイスラエルの民に向けて福音が語られるというのが基本なのです。ですから、主イエスがティルスやシドンに行かれたのは、伝道のためではないでありましょう。聖書はその理由を示していませんけれども、「退かれた」という言葉がその意味を示しているように思います。この「退く」という言葉は、人目を避けるとか、恐怖などから他の場所を探す、という意味がある言葉です。主イエスは神の御心であるイスラエルの人々に福音を告げておられましたけれども、その神の選びの民は福音を受け入れるどころか、むしろ拒絶反応を示しました。神の民の代表であるファリサイ派は、主イエスを殺してしまおうとさえしていたのです。その彼らからの批判が前回の15章の始まりに示され、主イエスはそれに正面から対決なさいました。主イエスは、本来、神の民を率いるはずのあなたがたがなぜ、わたしを拒むのか。父なる神を拒むのか、という思いがあったのではないでしょうか。主イエスがイスラエルの人々、群衆に望んでおられたのは、主イエスが誰であるのかを知って欲しいということでした。それなのに群衆は主イエスが自分のために何をしてくれるのか、そのことばかりを願っていました。そのような苛立ちの中で、神の御心を問い直すために、一旦、ユダヤ人たちから離れ、伝道の地を離れられたのではないかと思うのです。
■内と外
そのようにして主イエスはわざわざ異邦の地へ行かれ、静かな時を過ごしておられました。そうしたところ、この地に生まれたカナンの女が主イエスのもとに参りました。イスラエルの民は明確に自らを神の選びの内側にいる民として意識してきました。その一方で異邦の地、そしてそこに生きる者たちを選びの外、救いの外にいる者たちとして意識してきました。カナン人というのは古くからパレスチナ地方に住んでいた住民ですが、バアルの神を信じる異教徒でした。申命記20章17・18節にはこのようにあります。「ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさねばならない。それは、彼らがその神々に行ってきた、あらゆるいとうべき行為をあなたたちに教えてそれを行わせ、あなたたちがあなたたちの神、主に罪を犯すことのないためである。」実際にイスラエルの民は士師記などに記されるように、カナンの民の偶像崇拝に影響されて、神から離れることが度々あったのです。そのように長きにわたって相容れることのない異邦人、敵対者、救いの外にある者として記憶されてきた存在であるカナンの女性が主イエスのもとに来たのでありました。今日の旧約聖書イザヤ書56章の小見出しには「異邦人の救い」と書かれておりますように、これまで主の共同体から切り離されてきた人々、すなわち外国人、異邦人、宦官が神の救いの中に招かれるという驚くべき預言が語られています。今日与えられた御言葉から、私たちは神の民とは誰なのか、神の救いはどこまで及ぶのか、神の救いの広がり、信仰の力について共に聴いてまいりたいと思います。
■カナンの女の信仰
カナンの女は主イエスが来ておられることを伝え聞いたのでしょう、救いを求めてわざわざやってきたのです。そしてこう叫んだのでした。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」これまでどのような医者も祈祷師も悪霊に苦しめられていた彼女の娘を治すことはできなかったのです。彼女は自分の娘を救ってくださるようにと、主イエスに懇願いたします。彼女は「主よ、ダビデの子よ」と申しました。これはイスラエルの民の救い主を意味する言葉です。本来であれば、イスラエルの民、その指導者であるファリサイ派が口にすべき言葉でありましたけれども、彼らは主イエスのことを救い主と思っていないのです、ダビデの子であるとも思っていないのです。それが異邦人の女性の口から発せられるというのはとても皮肉なことでもあります。しかし、主イエスはこの異邦人の女性の叫びに何もお答えになりませんでした。弟子たちも追い払ってください、と彼女を拒絶いたします。主イエスご自身も続けて、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」、自分が遣わされたのは、イスラエルの民のためであり、異邦人のためではない、と神の救いの順序を示すお言葉を告げます。しかし、彼女は引き下がらないのです。主イエスの前に来てひれ伏して、「主よ、どうかお助けください。」と願い続けました。「ひれ伏して」というのは、「礼拝して」という意味です。彼女は主イエスを礼拝しつつ願ったのです。それに対して主イエスはこう言われました。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」子供たちとはイスラエルの民、子供たちのパン、それはイスラエルに与えられる神の救いの恵みのことです。それを小犬、つまり異邦人にやるわけにはいかない、と大変冷たく聞こえる主イエスのお言葉が響きました。主イエスはこの女性の願いを拒絶なさいました。ここに示される主イエスのお姿、私たちの知る主イエスのお姿からは不可解に思えます。聖書に記されている主イエスのお姿は弱き者、救いを求める者に寄り添ってくださるお方です。なぜ、主イエスは彼女を無視されたでしょうか。ここに示される主イエスのお姿はとても差別的に見えますし、読む私たちを戸惑わせます。しかし、これらのやり取りが弟子たちの前で行われているということに注目すべきであります。当時のユダヤ社会に明確に根付いていた選ばれた民と異邦人、神の選びの内側と外側、という境界線を主イエスはあえて言葉にして示しておられるということです。主イエスはこの後、その境界線を壊されます、境界線を越えられるのです。そのことを弟子たちに示すためには、その隔たりの事実を明らかにする必要があります。
■大きな信仰
カナンの女性は言います。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」彼女は自分の立場をよく知っています。異邦人であること、神の救いの外側にあるとされている者であること、それらを現実として受け止めているのです。しかし、彼女は同時に神の憐れみの大きさ、豊かさを信じています。パン屑で十分であるというほどに、神の恵みが溢れ出るものであるということを信じているのです。この彼女の言葉を聞いた主イエスは言われました。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」主イエスが見ておられるのは、血筋や所属ではありません。その人の一人一人の信仰を見ておられるのです。信仰とは自分の正しさを主張することではなく、神の憐れみを信じ、その豊かさを信じることなのです。主イエスは弟子たちにも告げたように、まずはイスラエルの失われた羊のところにいき、神の救いを宣べ伝えること、それが神の救いのご計画の順序であるということは承知しておられます。しかし、同時に旧約聖書は一貫して、イスラエルを通して全ての民が祝福されることを語ってきました。神の壮大なご計画は、主イエスは世界全体のあがないの主であり、ユダヤ人も異邦人も同じようにあがなう主であるという、そのことがここで示されているのです。パウロはローマの信徒への手紙11章で異邦人の救いについて述べていますが、イスラエルの民のことをオリーブの木、異邦人である私たちは、そのオリーブの木に接ぎ木された者たちであると言っています。あくまでも元々の木がしっかりと育ち、そしてそこに接ぎ木された別の木が新たな実を実らせていくようになるというのが基本なのです。また、主イエスの昇天後、聖霊が降り、弟子たちが力を得てユダヤとサマリアの全土、地の果てに至るまで主イエスの福音、神の救いが告げられていということが使徒言行録の1章8節に記されているわけですが、主イエスご自身によって、イスラエルの失われた羊から、私たちのように地の果て、異国の異邦人たちにとっても主イエスは救い主であられるということが、異邦人の女性の謙虚な信仰を通して示されているのです。主イエスはこの異邦人女性を信仰の模範として賞賛されました。弟子たちでも、宗教指導者たちでもなく、名もない異邦人の女性が深い信仰を示したのです。そしてその結果、娘は癒されました。民族の違いも、距離も、境界も、性別も、どんな違いも神の救いを妨げることはできないのです。
■全ての民の祈りの家に
イザヤ書56章に目を向けますと、この御言葉はバビロン捕囚後のイスラエルに語られた言葉です。神の共同体から退けられてきた人々への希望が語られています。捕囚から帰還した人々は自分たちのアイデンティティーを取り戻し、それを守るために排他的になっていました。しかし、神は言われるのです。神殿に近づくことが許されていなかった宦官や異邦人が主を愛し、主に仕え、主の僕となるならば、喜びの祝いに連なることを許し、記念の名を城壁に刻むと神は言われます。私の家は全ての民の祈りの家と呼ばれる、と言うのです。これは、血筋、民族の境界線が取り払われ、そして排除されてきた人々が神の恵みによって居場所を与えられるという神の宣言です。そもそも神は全てのものを創造された神なのです。神の造られたもの、それは全てが良かったのです、そこには境界線はありませんでした。しかし、人間が自分たちのために、自分たちを守るために境界線を作っていきました。神はそんな私たち人間が引く境界線の向こうからの叫び声を聞いて、その境界線を壊してしまわれました。
■結び
主イエスは言われました「あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」
「立派だ」と訳されている言葉は、ギリシア語ではメガス。日本語でも「メガ級」と言うような使い方で、桁違いに大きいものを指す時などに使われています。「あなたの信仰は大きい」と言われたのです。信仰が大きいとはどう言うことであるのかといえば、この女性が示したように、自分が主イエスの救いに価しないものでありながらも、求め続け、そして神の憐れみの御心によって救いの恵みを与えてくださると信じていることです。逆にこのマタイ書では何度か、反対の「小さい信仰」も示されてきました。「薄い信仰」と言う表現です。6章30節「信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。」、8章23節以下で波にのまれそうになって「溺れそうです」と慌てふためく弟子たちに「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」と言われました。そして14章22節以下で主イエスを信じて波の上を歩くペトロが風を見て怖くなって溺れかけた時に「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。いずれも主イエスを信じ切ることができずに、疑いと恐れに陥っていく時に、主イエスは「小さい信仰」と言われました。拒絶されているような厳しい現実の中でも、主イエスの恵みに与る希望を見出していくこと、それが「大きな信仰」なのです。神の恵みに境界線はありません。すでに主イエスによってこの地の果て、異邦人にまで救いは及んでいることを私たちは知らされているのです。全くもってふさわしくない私たちをも、主イエスの恵みによって豊かに養われています。その恵みを疑うことなく、信じて求め続ける者たちでありたいと願います。

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