説教題: 『地の塩・世の光』
聖書箇所: 旧約聖書 箴言4:18-19
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書5:13-16
説教日: 2024年9月29日・聖霊降臨節第20主日
説教: 大石 茉莉 伝道師
■はじめに
主イエスはこの5章から7章でたくさんの教えを語られました。前回まで3回に分けて聴きました幸いの教え、そして今日の「地の塩・世の光」を続けてお語りになりました。誰に語ったのかといえば、弟子たち、そして主イエスに従ってきた群衆たちに向けてでありました。この「地の塩・世の光」という御言葉はとても有名な聖書の言葉でありましょう。多くのキリスト教主義の学校の校長室とか、生徒が集まるホールなどには、筆で書かれた聖書の御言葉が掲げられていることがありますが、その中でもベスト3に入るぐらい多く選ばれている聖書箇所であろうと思います。私の通っておりました学校にもあったように思います。「地の塩・世の光」の意味するところをこれから聞いてまいりたいと思います。
■すでにそうである
主イエスは「あなたがたは地の塩である。」こう言われました。「あなたがたは世の光である。」と続けて言われました。「地の塩になりなさい。」ではなく、〜である。という宣言です。すでにそうである、と言われているのです。皆様方お一人お一人に、あなた方は「地の塩なんだよ、世の光なんだよ」と言われているわけですが、それをお聞きになってどう思われるでしょうか?むしろ「地の塩になりなさい、世の光になりなさい」と言われる方が、なんか頑張れば、少しはできる気がする・・・というように思われるかもしれません。しかし、主イエスは「あなたがたは地の塩、世の光である」と私たちに告げておられるのです。
さて、そもそも塩とはなんでしょうか。光とはなんでしょうか?どのような働きをしているものでしょうか。まず、塩は昔から、食べ物を腐らせないため、また料理の味付けに使われてきました。塩を入れないと味気ない料理となります。また、入れすぎるとしょっぱいというものであります。わずかな量の塩が全体を調和させ、素材の味を引き出し、美味しいものにします。そのようにして塩そのものは自己主張しない隠し味として使われてきました。また食べ物を腐らせないために、保存する際にも使われてきました。日本人にとってなくてはならないお漬物、糠漬けに塩は必需品であります。実は私は少し前から塩麹を作っています。作ると言ってもとても簡単で、麹に水と塩を混ぜるだけ、というこんなに簡単で良いの?と思うぐらいなのですが、10日ほどは毎日かき混ぜて麹の発酵を促す必要があります。最初、麹と水と塩を合わせたときは当然ながら、しょっぱい塩水としか言いようのないものですが、それが麹と合わさって数日経ちますと、麹が発酵してきて甘い良い香りがしてきます。そしてさらに混ぜ合わせること数日、麹がふっくらとしてきて、全体がトロッとしてきて完成、となるわけですが、その頃になりますと、塩麹は塩辛いというよりも、むしろ甘さを感じるものになります。肉や魚、野菜を焼いたり、蒸したりする際に使いますが、ほんの少しだけで他に味付けは不要というくらい味わい深いものになります。これは塩というよりも麹あってこそではありますけれども、ただ塩が麹の持てる力を引き出しているとも言えるわけです。
旧約聖書レビ記2:13には、「穀物の献げ物には全て塩をかける。」と書かれていますし、列王記下2:19には、「水が悪く、土地が不毛である」という町の人の訴えに、エリシャは水の源に塩を投げ込み、そして水が清くなった。と記されています。日本でも古事記に由来して穢れを祓うと言われてきました。実際に塩は人間が生きていく上で欠かせない成分が多く含まれているといいます。暑かった夏にも大活躍しました。熱中症対策としてスポーツドリンクや塩飴、塩分チャージタブレットなど、水だけでなく塩分の大切さが言われてきました。塩は私たちの生命を維持するのにとても重要なものなのです。このように旧約の時代から、今の私たちに至るまで塩は身近であり、そしてなくてはならないものであると言えるわけです。
旧約聖書に「塩」は多くの記載があります。創世記19:24-26では、ソドムとゴモラに硫黄の火を降らせ、滅ぼされましたが、決して振り返ってはならないと言われたロトの妻は振り返ってしまったために塩の柱になったことが記されています。今でも死海沿岸にこの塩の柱とされる石柱があり、死海は地球上で最も塩分濃度が高いところでありますから、その岸辺は塩が堆積した土地となっているということです。それ以外にも列王記下14:7には「塩の谷」という場所の名としても使われておりますから、塩が身近にあったことがわかります。
■地の・・・
さて、主イエスは「あなたがたは塩である」とは言われませんでした。「あなたがたは地の塩」であると言われました。この「地」、これがポイントであります。これはこの後の「世の光」の「世」と同じ意味を持ちます。また、今日の最後の16節に「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。」とありますように、「人々」のことと一緒であると考えることができます。つまり、この世界、また、この時代、とも言えるでありましょう。この私たちが人々と共に生きる世界にあって、それらの人々の中であなたがたはなくてはならない塩であるのだと主イエスは言われたわけです。ただ塩として存在するということでなく、人々の間にあっての塩、人々の間にあってこそ、なくてはならない存在である、と言われたということです。
「塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」と13節には書かれていますが、今現在の私たちが知っている、使っている塩を思い浮かべますと何となく違和感があります。塩は塩であって、塩気がなくなるということの実感が湧かないからでありましょう。私たちの使っている塩というのは、通常、精製塩と呼ばれるものでありますが、当時の塩は精製された白い塩ではなく不純物の入った岩塩でありました。塩は「海の塩、海塩」か、「岩塩」の2種類です。海の塩、海塩は海水を原料として作られた塩で、岩塩は地の下に閉じ込められた海水が数億年前の地殻変動で海底が隆起して、長い年月をかけて結晶化したものだと言われています。この時代、塩といえば、この岩塩のことを指しています。イスラエルの死海に沿った断崖でこの岩塩が取れるそうです。ただし、その岩塩は風化したり、湿気を帯びたりすると、塩としての役割がなくなる、つまり、塩なのに塩気がなくなるのです。当時の人々の生活を思い浮かべますと、私たちの台所での塩の入った入れ物の代わりに、お皿に乗った岩塩が置いてあって、それを崩して不純物、つまりざらざらした砂や石ころを取り除いて、塩を使ったのです。しかし、それが湿気などによって、どこを崩しても塩味のしない砂地の塊になってしまったとき、それは役に立たないものとして、ただの塊として捨てられるということなのです。そのような当時の情況を描きつつ、この箇所を読みますと、キリスト者は塩としての役割を果たす存在であり続けることの重みが伝わってきます。塩味を失わずに、この世にあって、この世を腐敗させず、神が造られたこの世を浄化する存在、なくてはならない存在としているのだ、ということです。
■世の光
続いて主イエスは「あなたがたは世の光である」と言われました。光というのは、どのように用いられるかといえば、普通は暗いところを明るくするため、暗闇を照らすために使われます。塩は控え目に、自己主張せず、をよしとするということでありましたが、光は違います、こちらははっきりとそこに光があることがわからなくてはなりません。主イエスは私たちに世を照らす役割を与えておられるということです。なぜならば、この世には闇があるからです。その暗い部分を照らし明るくしなさいというのです。今、私たちの現代社会では光のない世界というのは想像ができませんが、昔は電気のない時代もありました。また、最近は停電というものがほとんどなくなりましたが、私が子供の頃は、よく停電がありました。また、暮らしていましたインドネシアではしょっちゅう電気が突然に消えるということがありました。日中であれば、何の問題もありませんが、夜になってからの闇は、恐れを感じるものであり、その時にろうそくの火が灯ってほっとしたという経験は誰もがお持ちだと思います。
主イエスがお語りになった当時のパレスチナの家は小さな窓があるだけで、家の中は日中でも暗かったようです。夜のみならず、日中でも家の中ではともし火が必要でした。灯りによって暗闇では見えなかったものが見えるようになります。単純に言いまして、暗いところではゴミもよく見えないのです。光に照らし出されることによって、物はあるべき場所に置かれ、家の清潔さも保たれたことでしょう。
悪というのは暗闇の世界で行われます。時に白昼堂々と、と悪事が行われることが表現されるように、明るい光のもとで行われることは稀なのです。ヨハネ3:20「悪を行うものは皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない。」と書かれているとおりです。
■光に来る者
続く21節にはこう書かれています。「しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」
パウロがというより、サウロが主イエスに出会うときに目が見えなくなった出来事が使徒言行録22章6節以下に書かれております。「ダマスコに近づいた時のこと、突然、天から強い光がわたしの周りを照らし、『サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか』という声を聞いた。そして11節、わたしはその光の輝きのために目が見えなくなってしまいました。」主イエスが「強い光である」と記されています。パウロ、サウロは光に照らされて目が見えなくなりましたが、実は全ての人は目が見えていないと言えるのではないでしょうか。正しく見えているわけではないのです。こうして天からの光に照らされて、初めて自分が闇の中にいたことがわかり、そして新たに目が開かれるのです。ヨハネ8:12にはこうあります。「主イエスは再び言われた。『わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。』」主イエスが光の源であります。月は自分自身では光を発することができず、太陽の光に照らされて、私たちの元に明るい光を届けてくれるように、私たち自身も発光体を持っているわけではありません。しかし、主イエスと共にある時、主イエスの真の光に照らされて、私たちも光の中に置かれているのです。
■結び
今日の箇所は短い4節のみことばでありましたが、その4節の中に4回も「あなたがたは」という呼びかけ、表現がなされていて、それは強調された形の言葉になっています。この「あなたがた」とは幸いの教えを主イエスの周りで聞いた者たちであり、そして今の時代に至るまで聖書を通じて、主イエスの御言葉を聞いた者たちであります。ですから、「あなたがたは幸いである。」と語られたその後に、そのあなたがたは地の塩である、世の光である、と言われたのであります。私たちが何かを頑張る努力目標ではなく、ただ私たちは塩であり続け、光であり続ける。私たちという塩を使って料理をなさるのはキリストご自身であります。キリストご自身の光が私たちに投影されて、あちらこちらを照らすことができるのです。私たちは神の思い、神の御心をこの地上に映し出す器として、ただ恵みによって選ばれたのであります。私たちは神の恵みをいただき、すでに幸とされている者たちであります。私たちは地の塩、世の光とされている、このことは恵みとしてすでに私たちのうちに満ち溢れております。そのことに心から感謝し、主に用いていただくことを喜びとしたいと祈り願います。
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