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『喜びを持って』2025年1月1日・元旦礼拝

  • NEDU Church
  • 1月2日
  • 読了時間: 9分

説教題: 『喜びを持って』

聖書箇所: 旧約聖書 詩編96:1-13

聖書箇所: 新約聖書 フィリピの信徒への手紙1:1-11

説教日: 2025年1月1日・元旦礼拝

説教: 大石 茉莉 牧師

 

はじめに

主の年2025年が始まりました。皆様、おめでとうございます。昔から、一年の計は元旦にありと言いますように、この新たな年の始まりを主の御前に出でて、御言葉によって始めることができるということはとても感謝であります。この一年の計、の計はいうまでもなく、計画ということであり、今年はどのような年にしたいか、という計画を立てること、と理解されておりますけれども、私たちは自分の思いや自分の計画ではなく、神様のご計画を尋ね求めるのです。それは主の日毎に教会で、日々の祈りの中で、そうであるわけですが、とりわけ、新しい年の第一日目に礼拝を持って神様のご計画を問い、その恵みの中を歩み出すことができるのは大いなる幸いであると思います。

 

■喜び、祝え

今日の旧約聖書は詩編96編が与えられました。「新しい歌を主に向かって歌え。」で始まるこの喜びの詩編、まさに新しい年の始まりにふさわしい詩編と言えるでしょう。さらに7節からは「諸国の民よ、こぞって主に帰せよ/栄光と力を主に帰せよ。/御名の栄光を主に帰せよ。供え物を携えて神の庭に入り/聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。全地よ、御前におののけ。」とあります。主なる神の前に出てひれ伏し、栄光と力を主に帰せよ。」と呼びかけるこの言葉は、主に礼拝を捧げよという勧めです。民はその栄光と力にふさわしく、神に賛美を捧げて、供え物を携えて礼拝するという極めて具体的で、そして基本的なことが求められています。ここで繰り返される「主に帰せよ」という呼びかけは、続く9節にある、「ひれ伏せ、おののけ」という言葉と合わせて、今の私たちが礼拝において、神に向かうにあたってごく自然で当たり前なことが言われています。かつての旧約の民もこうして神を讃えたのです。こうして神を讃える、それは神が天と地をお造りになり、人間を造られ、造り主である神との関係に生きるようにと言われたその始まりの時から、本来のあるべき姿として、求められていることなのです。その造り主であられるお方がこの地における王であられる、まことの王であられる。だからこそ、世界はかたく据えられて、決して揺らぐことはない、と10節において、この詩編の詠い手は皆に告げます。すべてのもの、天も、地も、海も、野も、喜べと。そこにいるすべてのものよ、喜べ、祝え、踊れ、というのです。新しい歌を歌い、栄光を主に帰せよ、主こそ王であると人々に告げよ、共に喜びましょう、と。ここで語られていること、呼びかけられていることは、私たちはなぜ礼拝をお捧げするのか、なぜ日々、主を讃えるのか、ということの答えに他なりません。そしてそれは日曜日に教会で礼拝すること、それだけが私たちの礼拝になっていないかという問いも投げかけられていると言えるのではないでしょうか。日々の祈り、日々の神との対話の中で、主を讃え、主にある喜びを噛みしめる、私たちはそのように生きるようにと神からの恵みを日々いただいているのです。2025年、日々、主を讃え、主にあって喜ぶ、そのことを心に留めた生活を送っていきたいと思うのであります。

 

■パウロの喜び

さて、今日、この喜びの詩編と共に与えられましたのが、フィリピの信徒への手紙の1章1節から11節です。このフィリピの信徒への手紙はパウロの獄中書簡と言われる手紙です。つまり、この手紙をパウロがフィリピの教会へと書き送ったその時、パウロは逮捕されて投獄されていました。しかしながら、この手紙は別名、喜びの手紙と言われています。4章4節には有名な、「主において喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」という御言葉がありますし、今日の箇所においても、3節の始まりのところから、「あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びを持って、祈っています。」と感謝、祈り、喜び、という言葉が溢れています。このローマの植民都市であったフィリピにパウロは数日間滞在し、その時にキリストを信じる者が数名与えられました。しかし、そのことで騒動が起こり、パウロは逮捕されます。牢からは出ることが許されたものの、伝道を続けることはできずに、町から出て行かざるを得なくなったのです。このとき、パウロの導きによってキリストを信じた人たちにとって、自分たちに教えてくれたその人が逮捕されてしまった、となれば、その教えは間違いだったのではないか、と思っても不思議ではありません。キリストの福音から離れてしまったとしても仕方のないような出来事でありました。しかし、彼らはパウロが5節で述べているように、「最初の日から今日まで、福音に与っている」と言っています。彼らは福音から離れずにいるというのです。パウロは獄中にあって、そのことを知り、このフィリピに教会が作られた時から現在に至るまで、人々が教会を守り、福音に基づく生活をしていることを、まず神に感謝を捧げ、信仰を守る生活を送っていることを、喜びを持って祈っています。パウロの環境、堅牢、かつ狭い独房に閉じ込められていても、パウロは喜びを持って祈ります。それは彼を取り巻くものがいかに厳しく、悲惨なものであったとしても、パウロは自分が決して一人ではないことを知っているのです。有名な詩編23編4節「死の影の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。」と確信を持って言い表すことができるのです。パウロ自身が、ローマの信徒への手紙8章28節で、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」と力強く語る通りです。パウロの喜びの源は神が共にいてくださること、今も、つねに生きて働いておられる神が、歴史を支配されている主であることを信じているゆえに喜びを持って祈ることができるのです。そしてパウロがそのように信じているということを共有しているのが、このフィリピの人々であるとパウロは今、この手紙で告げています。「最初の日から今日まで。福音に与っている」それが神が共にいてくださることを日々、体験し、そして神の働きを信じている、ということを表すのが「福音に与る」という表現です。

 

■福音に与る

パウロはあちらこちらで伝道を続け、そしてそれらの地にキリストを信じる共同体ででき、やがて教会ができました。パウロは指導者とずっといるわけではありませんから、彼らの信仰の養いは、日々の生活の中での彼ら自身の祈りと学びによるところが大きかったのです。ガラテヤの教会が問題になったように、さまざまなことを吹き込む偽教師たちも各地の教会に現れました。そのような教えを聞いて、それに靡いてしまう人々も多かったのです。福音とは良き知らせ、Good News、聞くことに始まるわけですが、それにとどまり続ける、それがこの「福音に与る」ということです。この言葉をもっと正確に訳しますと、「共に分け前を受ける」という言葉です。ギリシア語ではコイノニアという言葉ですが、共に受ける、互いに交わりを持つ、同じものを共有する、仲間として関わる、互いに助け合う、というようにも訳せる言葉です。教会内ではコイノニアというのは比較的聞かれる言葉で、教会の月報誌の名称などにも使われたりしているので、聞いたことがある方もおられることでしょう。今、いくつかの訳語をあげましたけれども、「共に分け前に与る」という基本的な言葉を取り上げてみてもわかりますように、分け前に与るということは、元々の分配する大元があるということです。その大元とは、いうまでもなく神であります。神が注ぎ、与え続けてくださるから、その分け前に与る、仲間うちで分配し続けることができる、ということです。ですから、福音に与る、というのは、継続的なことを意味していて、神の愛を絶える事なく、共に同じものを受け続け、共に分け合いつつ、共に関わり続ける、という事です。私たちがよく使う言葉としては、「主にある交わり」ということでもあります。福音は聞くことに始まり、そしてその関係性は交わり続ける、それが福音に与るということです。共に与るという意味でありますけれども、それは人間同士のことではなく常に神からそれぞれの人に対しての働きかけであり、神の恵みに対する応答としての関係性であります。

 

■過去・現在・未来

パウロはこのフィリピの人々への手紙の冒頭で、過去、現在、未来、という時間軸で語っています。つまり、3節から5節においては、キリストの福音を知らなかった過去の日があることを語ります。誰もがはじめは神を知りませんでした。しかし、キリストを通して神を知ったその時から、新たな生き方が始まるのです。過去は過去としてありつつも、キリストを知ったその日から、福音に与る生き方へと変えられていること、これがまず大きな喜びであり、神に感謝すると言うのです。そして6節から8節では現在から未来へと目を映しています。つまり、来るべき「キリスト・イエスの日」、主イエスの再臨の時、これは決して恐れるべき事柄ではなく、キリスト者にとっては待望するべき出来事なのです。ですから、この肉の体がどこにあるかなどと言うことは、神の恵みに共に与っていると言う確信においては問題とならないと言うことです。パウロはそれゆえに獄中にあっても喜びの心を持って祈り続けているのです。そして9節以下は、来るべき未来のために、神を知る力が増し加わること、もっと神と共にあることを実感できるように、そしてキリストの義の大きな実りを受けて、神の栄光と誉れを讃えることができますように、と祈るのであります。

 

■結び

私たちもその始まりはキリストを知らず、キリストの福音を聞いて、そしてその福音を信じ、信仰を養う、つまり福音に与る、というその豊かさの中に置かれてきました。それはキリストを知らなかった過去から、キリストを知った現在、福音に与り続けて生きております。それは自らがなすことではなく、神からの一方的な恵みにより、私たちに与えられています。教会というこの群れはとても流動的なものであります。確かにこの根津の地に1919年に建てられてから今年で106年、ずっとここに建ち続けています。しかし、教会はキリストの体、と言われるように、キリストの言葉が、キリストの福音がここで語られ、それを聴き、それによって養われ、その信仰が継承されている、それが福音に与り続けるということなのです。そしてそれは、さらなる未来へと続くものであり、まさに教会はエフェソ書にあるように、キリストの体として成長し、造り上げられていくのです。

私たちは少し前に主のご降誕をお祝いするクリスマスを迎えました。主イエスの人としてのご生涯は何のためであったか、それは十字架におかかりになり、死を迎える。そして父なる神によって復活させられ、生き続けられる。そしてその十字架の死によって、罪のないお方の贖いによって、私たちの罪が赦されている。それらの全てを聖霊によって私たちに示される。私たちはその聖霊に導かれ、支えられて主が再び来たりたもう日を待ち望む。キリストの日に備えて、福音に与り続ける。それがキリスト者の生活であり、それが信仰の養いでありましょう。ですから私たちも、喜びを持って、主に仕え、喜びを持って主を讃える。私たち自身の思いや頑張りは全く関係ありません、必要ありません。獄中にあるパウロが喜びを持って祈り続けたように、この2025年、さまざまなことが私たちを襲おうとも、常に福音が、恵みが神から分配し続けられている、このことを忘れずに喜びのうちに祈り続ける者でありたいと願うのであります。

 
 
 

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