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『喜びの歌』 2022年12月11日

説教題: 『喜びの歌』 聖書箇所: ルカによる福音書 1章39~56節 説教日: 2022年12月11日・待降節第三主日 説教: 大石茉莉伝道師


■はじめに

待降節、アドヴェントの第3週目を迎えました。3本目のろうそくに火が灯されました。こうして毎週毎週1本1本、ろうそくに火が灯されて、ご降誕の時を待ち望むというこのアドヴェントの季節はそれぞれ一人静かに主が、自分のためにこの世に来て下さったということを深く味わう時であるように思います。そしてまた、自分の罪の深さにも思いが及ぶ時、なおさらに主イエスが私たち一人一人を愛しておられること、神の計り知れない恵みがこの私につねに注がれていることに心からの感謝をお捧げしたいと思うのです。


さて、このアドヴェントの時に共に御言葉に聴いておりますのはルカによる福音書です。

アドヴェント1週目にはザカリアと妻のエリザベト、そしてそこにヨハネが与えられるという天使ガブリエルによる神からのお告げでありました。そして先週アドヴェント2週目にはマリアに、主イエスが与えられるという神のご計画が示されました。エリザベトにとっても、マリアにとっても、そのような子供が与えられることは想像もしていなかったことであります。神のご計画に戸惑いながらも、マリアは神の告げられるお言葉はすべて実現する、という、そのことを信じ、そしてその結果起こるすべての事を受け入れたのです。そしてそのお告げを聞いたマリアは、エリザベトに会いに行くのです。今日の御言葉は、39節「そのころ」と始まっていますが、それは、マリアがお告げを受けたころ、そしてそれはエリザベトが洗礼者ヨハネをみごもって六か月目、という頃のことです。そしてマリアは「急いで」山里に向かい、ユダの町へ入った。つまり、エリザベトのもとに急いだのです。このユダの町というのがどこなのか、正確にはわかりません。しかし、ザカリアはエルサレム神殿の祭司でありますから、エルサレムに近いところにいたのでしょう。マリアのおりましたガリラヤのナザレから、エルサレムの近くまでというのはかなりな距離です。聖書巻末の地図を見ていただければわかります。マリアのおりましたナザレはガリラヤ湖の西、そこからヨルダン川をひたすらに南にくだっていきますと死海があります。エルサレムはその西側でありますから、ざっと直線距離でみましても100kmほどあるのではないでしょうか。マリアはまだ14歳ぐらいの若い女性です。そして当時の旅はちょっと行ってくるというような簡単なものではありません。多くの危険が伴っていたことでしょう。それでもマリアは「急いで」エリザベトのもとに向かったのです。それはマリアに告げられたエリザベトの妊娠。聖霊によって神の子を身ごもるということは、特別すぎることであり、到底人間の常識では理解できません。「あなたの親戚エリザベトも、年を取っているが、男の子をみごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。」エリザベトも神のご計画によって子供を与えられている、そのことを告げられたマリアは、分かち合える人はエリザベト、そのように思い、居ても立ってもいられない気持ちで「急いで」エリザベトの元に向かったのです。ここで「ユダの町に行った」と記されている「行った」という動詞にルカは特別な意味を込めています。「行く」というのは、動作を表わす一般的な動詞です。ギリシア語には「行く」という意味をもつ単語がいくつかあり、そして、ルカはこの「行く」という言葉を使う時、きちんと使い分けをしており、「神のご計画に従って歩む」という意味が込められている時には、ここで使われている単語を使っているのです。マリアがエリザベトのところへ行く、それは単にマリアの思いで「行く」のではなく、その行為は神のご計画である、ということを示しているのです。他の箇所で象徴的に示されているところは、ルカ19章28節です。「イエスはこのように話してから、先に立って、エルサレムに上って行かれた。」主イエスのエルサレム入城は4つの福音書すべてがもちろん記しておりますけれども、ルカだけがこの神のご計画によって歩みゆくという特別な意味を持つ動詞を使っているのです。

マリア自身が神様のご計画に従ってという意識を明確に持っていたわけではありませんが、神様の救いのご計画はこのようにして前進します。私達も同じです。神様に用いられる時、決して神様のご計画が分かっているわけではないでしょう。しかし、神様はわたしたちを用い、神様の御業に加えてくださるのです。


■ヨハネとイエスの出会い

そうしてマリアはエリザベトの元に行きました。ザカリアの家にたどり着き、家に入るとエリザベトに挨拶をいたします。すると、「マリアの挨拶をエリザベトが聞いた時、その胎内の子がおどった。」41節に記されています。「あなたの挨拶のお声をわたしが耳にした時、胎内の子は喜んで踊りました。」とエリザベト自身の言葉も記されています。そして、エリザベトはマリアへの祝福の言葉を述べます。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来て下さるとは、どういうわけでしょう。」と申しました。エリザベトはマリアが聖霊によって、神の子を宿したことを知っているのです。エリザベトはマリアの挨拶を聞いた時に、マリアが自分と同じく神によって選ばれ、子供を産むことになっている、と聖霊の力によって示されたのです。「わたしの主のお母さまがわたしのところに来て下さるとは、どういうわけでしょう。」単純に考えまして、エリザベトはマリアよりも年配の女性です。年長者に対して敬意を払うということが普通でしょうに、ここではエリザベトが年下のマリアに対して、「あなたは女の中で祝福された方」と賛美して、そして「わたしの主のお母さま」と呼んで敬意を払うのです。エリザベトの胎内の子ヨハネは「わが主」に先立って歩み、救い主の到来の備えをする者です。エリザベトは自分の胎内の子どもと、マリアの胎内の子どもの関係もすでに理解しているのです。マリアの胎内の子は「わが主」であると彼女は知っているのです。そしてヨハネはエリザベトの胎内で、わが主イエスとこの時すでに出会い、そして胎内で喜び踊ったのです。


■「幸いな者」

さて、前回お読みした37節に書かれております「神にできないことは何一つない」このみ言葉について再びお話しいたします。「神にできないことは何一つない。」神は全能であります。その通りです。しかし、この言葉は正確には、「神の言葉はすべて実現する。神が語られた御言葉は必ず実現する」であります。マリアはその言葉を受けて、「神が自分に告げてくださったこと、その喜びは必ず自分に与えられるのだ。」と信じ、神に委ねる道を歩き始めました。そしてまた、今日の45節でエリザベトが言うのです。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう。」主がお語りになったことは必ず成就すると信じる、そのエリザベトの信仰がここで示されています。マリア、エリザベト、共に神の大いなる祝福を受けた「幸いな者」であるのです。


■マリアの賛歌

47節からマリアは「マリアの賛歌」言われる自らの幸いを歌います。それは45節のエリザベトの「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう。」という言葉を受けて、「はい、そうです、私は幸いな者です。」と歌うのです。

「わたしの魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。」と歌い始めます。「あがめます」という言葉で始まります。「あがめる」、主をあがめるとはどういうことかといえば、主を大きくする、という意味です。そして自分を小さくするという意味です。音楽の世界ではバッハのマニフィカト、マグニフィカト「わが魂は主をあがめ」として合唱で歌われます。バッハによるマニフィカトは12曲によって構成されており、はじめに「わが魂は主をあがめ」というこの一言が何度も繰り返されて、全ての人々が主をあがめることを強調することに始まるのです。そして身分の卑しい自分に主が目をかけてくださったことの感謝が歌われ、力ある方が大いなることをしてくださったこと、そして主の憐れみが代々とこしえに続くことなどが歌われていくのです。

さて、このマリアの賛歌はサムエル記上2章のハンナの祈りを下敷きとして書かれたと言われています。ハンナは長く子供が与えられませんでしたが、深く祈りを捧げ、そして主は彼女の祈りを聞き届けて下さり、そしてサムエルが与えられました。ハンナは与えられたその子が深く捧げたその祈りによるものであることに感謝し、そして主を讃える祈りを捧げます。それが「ハンナの祈り」と言われるものです。ハンナも主をあがめ、主を讃えます。そしてエリザベトも主をあがめ、主を讃えます。そしてマリアが大いに主を讃えるのです。

この47節から55節までの賛歌は大きく二つに分けられます。前半47節から50節、そして51節から55節が後半です。前半ではマリア自身の賛美です。はじめの47節には、わたしの魂、わたしの霊、と歌われていることからもわかります。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」とはじまりにおいて高らかに宣言する賛美の言葉が歌われるのです。さらに、「わたしを幸いな者と言うでしょう。」「わたしに偉大なことをなさいました。」とマリアの賛美は続きます。そしてそのようなマリア個人の賛美からイスラエルの民へ、共同体としての賛美が後半では歌われているのです。主の救いの御業とはどういうものか、そのことが51節から語られます。主はどのようなお方であるか、それは力をふるって思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げて、飢えた人を良いもので満たしてくださる、そのようなお方であると言います。しかし、マリアが生きていた現実においては、決してそうではありませんでした。ローマの支配の続く中で、権力ある者は力をふるい、貧しい者を虐げ、思い上がる者たちがはびこっていました。しかしマリアは、主はそのような救いの御業を成し遂げられるお方である、必ずそのような平和が成し遂げられると信じたのです。マリアは主の救いは必ず実現すると信じたのです。

私たちにもこのマリアの賛歌を喜びともに賛美する時がきました。今年も感染症が私たちを縛りました。様々な不安に取り囲まれた日々を過ごしました。緊張を強いられ、したいと思ってもあきらめたこともたくさんありました。実際に感染症に罹って痛み、苦しみを覚えた方々もたくさんおられました。そのような生活は今年だけでなく、すでにもうすぐ3年になろうとしています。いつもそのことを気にかけながら過ごしているのです。決して自由とは言えない生活です。どちらかといえば不便さや不快さをもって過ごすことが多かったでしょう。しかし、私たちは「主のご計画は必ず実現する」と信じる者たちではなかったでしょうか。私たちは今、主のご降誕を喜び祝うための時を過ごしています。神はその独り子であるイエス様を、私たちのためにこの世に人として送ってくださり、そしてその罪の贖いのために十字架の道をお定めになり、そして私たちの永遠の命の約束のために主イエスを復活させてくださいました。神の約束、神が言われたこと、神が計画されたことは必ず、実現するのです。そのことを今一度想い起こして、マリアの賛歌を共に賛美したいと思うのです。


■結び

神様の憐れみは、私たちの罪に対する同情ではありません。神様の約束なのです。その憐れみの約束のために、イエス・キリストを遣わして下さり、その約束の実現のためにマリアは選ばれ、そして用いられました。私たちも神の御心の実現のために用いられます。私たちも「幸いな者たち」であります。マリアの歌った主を讃える歌を、喜びをもって歌おうではありませんか。

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