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『同じ舟に乗って』 2022年9月11日

説教題: 『同じ舟に乗って』 聖書箇所: マルコによる福音書 4章35節~41節 説教日: 2022年9月11日・聖霊降臨節第十五主日 説教: 大石 茉莉 伝道師

■はじめに

「その日の夕方になって」と今日の御言葉は始まります。「その日」は長い一日でした。「その日」にはどういう日であったのかと言えば、4章のはじめに記されています。1節からです。「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まってきた。そこでイエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。」主イエスが譬えを用いて、神の国についての教えを群衆になさいました。一日中、神の国について語り続けられたのです。主イエスは群衆から距離をとるために、舟に乗っておられ、舟の上から群衆にお話になっていたのです。そして夕方になりました。主イエスは弟子たちに向かって言われました。「向こう岸に渡ろう。」弟子たちは群衆を残して、舟を漕ぎだしました。ガリラヤ湖の向こう岸、主イエスはどこへ行こうと思われたのでしょうか。その向こう岸がどこかということについては、次の5章の始まりに記されています。ゲラサ人の地方と聖書は記しています。おそらくはガリラヤ湖の北側のカファルナウムから東側へと渡られたのでしょう。ゲラサ人の地というところは異邦人の住む場所でありました。つまりユダヤ人とは異なる信仰をもち、汚れた地方とされていたところです。主イエスはここでもまた、異邦人のところへと赴かれようと舟を出されました。


■ガリラヤ湖の異変

以前もお話しいたしましたが、ガリラヤ湖は山手線よりも一回りも二回りも大きな湖です。そして良い漁場でありました。そしてガリラヤ湖は海抜よりも低いそうです。そしてぐるっと数百メートルの山々が取り囲んでいます。風光明媚なところで、そしてまた季節ごとに違う美しさを見せてくれる湖のようです。数々の花々が咲き誇り、写真で見る限りでは穏やかな湖に見えますが、実はこのガリラヤ湖は日没後に突然に突風に襲われ、様変わりする湖なのです。それはこのガリラヤ湖の地理的な環境によるものです。日中の強い直射日光を受けて、湖面の水温はあがり、それによりその上の空気が希薄になります。しかし、日没とともに気温が急に下がると、東側の崖の上空の空気が急に冷えて、山々の切れ目から突風となって湖面に吹き付けてくるというのです。マルコは「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水浸しになった」と記します。ルカは「突風が湖に吹き降ろしてきて」と書いています。マタイでは、「湖に激しい嵐が起こり」と、いずれも急激な天候の変化を告げています。ガリラヤ湖の漁師たちはこの突風を非常に恐れていました。彼らは当然、突風に先立つしるしも知っていました。どの角度から吹いて来るか、そして何が危険であるかを熟知していました。


■眠る主イエス

主イエスの弟子たちのシモン・ペトロ、兄弟のアンデレ、また、ゼベダイの子ヤコブと兄弟ヨハネはこのガリラヤ湖の漁師でありました。ですからこのガリラヤ湖を襲う急激な天候の変化のことは当然、知っていましたし、また、それに対処する方法も熟知していました。ですから恐らくはじめのうちは、この激しい突風は自分たちで何とか出来ると思っていたに違いありません。ガリラヤ湖は彼らにとって日常の働き場所です。今まで何度もこのような突風にあいながらも切り抜けてきて、難関を乗り越えるだけの経験と技を持っていたのです。しかし、舟は波をかぶり続け、そして舟の中にどんどん水が入ってきました。このままでは沈没してしまうのではないか、自分たちの力ではどうにもできないほどのことが起こっていると思ったのでしょう。時もすでに出発した夕方から、夜になり、真っ暗です。彼らは不安を通り越して、恐怖を感じるほどになりました。そのような中、主イエスはどうされていたかと言いますと、「艫の方で枕をして眠って」おられました。舟の艫というのは舟の船尾、舟の後方にあります。少し高くなっており、それゆえにあまり水はかからないところです。この日は長い一日だったのです。主イエスは群衆に向かって、長時間お話をされました。ですから、お疲れになっていたことはまちがいありません。舟が岸を離れると、枕をしてぐっすりと眠ってしまわれたのです。はじめにお話ししました通り、主イエスは向こう岸、異邦人の地に行くおつもりでありました。異邦人の地に赴く理由は、そこで伝道活動をされるためです。ですからそれまでの間、休憩をとるおつもりで横になられたのです。


■「黙れ。静まれ」

弟子たちは、とうとう主イエスを起こします。「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか。」と申しました。ここで「溺れる」と訳されている言葉は、「滅ぼされる」「殺される」という意味を持つ言葉で、「おぼれてもかまわないのですか」という訳よりもずっと強い意味を持った言葉です。漁師であった弟子たちは「滅び」、「死」を意識していたのです。ここで明らかになることは、この時の彼らの言葉には、主イエスを非難する、責めるような気持ちがあります。怒りさえ感じられます。「向こう岸へ行こう」と言われたのは、先生、あなたではないですか。自分たちはあなたについてきただけなのです、こんなにも私たちが大変な時に、よく眠っていられますね、といったニュアンスです。

そんな弟子たちの声に主イエスは起き上がり、そして風を叱り、湖に「黙れ。静まれ。」と言われました。主イエスがこのように命令形をお使いになる時は、それは神の子として権威をお示しになる時です。

天地創造の始まりの時、神は「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」と海と陸に分けるよう命じられました。そして出エジプトの時、神は紅海の水を二つに分けて乾いた道をお造りになり、そしてイスラエルの民をその先へと導かれました。神はそのように混沌から水を分け、そして水と地を支配する、そのような権威をお持ちであることが示されています。主イエスのお言葉も神と同じ御力と権威によって湖や風を支配しておられることが示されているのです。

すでに読んできましたマルコ福音書の1章25節、男に取りついた悪霊に向かっても、主イエスは同じように「黙れ。」そして悪霊に「出ていけ」と言われました。この箇所で使われているのも同じ言葉です。この湖の異変にも人々の命を狙うような悪霊の力が働いていたと言えるでしょう。主イエスの権威あるお言葉によって鎮められるのです。主イエスのお言葉によって、風と湖はすっかり凪になりました。穏やかな静けさが戻ってきたのです。主イエスが、神と同じ権威を持つこと、主イエスが湖や風を支配しておられる神の御子であることがこの物語にも証明されているのです。


■「なぜ怖がるのか」

主イエスは弟子たちをお叱りになります。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」別の聖書では、「どうしてそんなに怖がるのですか。信仰がないのはどうしたことです。」とも訳されています。主イエスは弟子たちが嵐を恐れ、慌てふためき、恐怖におののいて不安と絶望に陥ったそのことを「信仰がない」と言われました。「信仰」とは何でしょうか。主イエスを信じ、主イエスがそこにおられることがわかっていたのだから、そのように慌てふためき不安になることはないはずだ、と主イエスは言われるのです。主イエスを信頼して、不安や心配の全てを神さまにお委ねする、それが「信仰がある」と言われているのです。主イエスが眠っておられたのは、何故でしょうか。それはこの嵐は滅びの力ではないと知っておられたからです。この主イエスのお姿を見ているにもかかわらず、そのお姿を信頼することができず、何でのんきに寝ているんですか、と主イエスを咎めるようになる、そのこと自体がすでに滅びの力に支配されており、そうして不信仰が始まり、信仰が小さくなるのです。主イエスはそのことをお叱りになりました。

私たちの人生を弟子たちのこの舟と嵐の状況に譬えることはわかりやすいことでしょう。暖かい日差しを浴びてまるで舟の上であることを忘れてしまうほどに穏やかな時もあれば、沈没しそうなほどに水をかぶり、不安の中を進んでいかなくてはならないこともあります。そのような悪条件の時に、私たちは主イエスのお姿を見ることはできるでしょうか。そのような時も信頼することはできるでしょうか。この弟子たちと同じように、慌てふためく姿が重なります。平穏な時には、私たちは自分の力で進んでいるかのように振る舞います。嵐が来て、大変な状況になってはじめて、主を呼ぶのです。


■「この方はどなたなのだろう」

そして、今日の御言葉の最後にも目を留めたいと思います。主イエスが嵐を静めて凪になりました。その様子に弟子たちは「非常に恐れて」と41節は記し、そして『「この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。』と続けています。弟子たちは主イエスによって危機を救っていただきました。ですから、本来であれば、「ああ、よかった、よかった」と言って、笑顔に、穏やかな顔になってもよかったのです。しかし、彼らは「恐れ」に満たされています。ここで「互いに言った」と訳されている言葉は、正確に訳しますと「言い始め、言い続けた」となります。弟子たちはこれ以降、「主イエスとはいったいどなたなのか」と言う問いをずっと持ち続けたのです。弟子たちのこの問いに、主イエスは何もお答えになりませんでした。主イエスはこの後、ご自分の歩まれる道をはっきりとしたお言葉でお語りになるようになります。そして主イエスは十字架へと歩まれ、それが自分たちのイメージと異なるものであった弟子たちは、主イエスにつまずき、ついには主イエスを見捨てることとなりました。十字架で死なれた主イエスは、死から呼び起こされます。舟で眠っておられた主イエスが、起き上がったように、主イエスが死の眠りから起き上がって甦りの姿を示された時、弟子たちは「主イエスとは誰なのか」を語り続ける者へと変えられたのです。主イエスは今、ここに共におられる、と証し続ける者となりました。弟子たちは後に、迫害にも耐え、そして殉教をも恐れない者たちとして歩むことになるのです。この嵐の出来事は主イエスが万物を支配されるお方であることを弟子たちに知らせ、弟子たちの信仰を強靭なものに養うためであったのです。



■結び

ガリラヤ湖の「嵐を静める」物語はとても簡潔なものですが、代々の教会で読み継がれてきました。多くの画家がこの物語を描き、多くの牧師が説教をしてきました。教会の人々は、教会を舟に譬え、そして自分の人生にもたとえて、この物語を自分のこととして読み続けてきたのです。

私たちは試練の中にある時こそ、主イエスのお姿をしっかりと見なければなりません。私たちを不信仰から引き離し、神様の元へ立ち帰らせてくださるのです。嵐の時、心を開いて、ただひたすらに神様に一切の悩みを打ち明けるものでありたいと思います。試練の中で、神様が目に見える救いや支えをお与えくださることもあるでしょう、また、なぜですか、と問い続けなければならない長い時間もあるでしょう。神様、私が溺れてもかまわないのですか、と思わず嘆くこともあるでしょう。しかし、神様は決して私たちをお見捨てになったわけではないのです。なぜならば、私の舟には主イエスが共に乗っていてくださるからです。そのことを忘れがちな私たちです。主イエスは私たちの舟に乗っておられ、そして眠っておられます。そして私たちの情けない不信仰な叫びに主イエスは起き上がって、嵐を静めてくださることでしょう。私たちの舟は主イエスが共に乗っておられるのです。ですからもう沈みません。それ故に私たちは、主イエスの眠るところで共に眠ることができます。これが「主にある平安」です。主によって与えられる平安は何よりの慰めです。「平安があるように」という祝福を常に与えられているのです。その恵みに心から感謝し、主のみ心がなりますようにと祈り願う者でありたいと思います。


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