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『古くて新しい愛の戒め』 2023年7月9日

説教題: 『古くて新しい愛の戒め』 聖書箇所: マルコによる福音書 12章28~34節 説教日: 2023年7月9日・聖霊降臨節第七主日 説教: 大石 茉莉 伝道師

■はじめに

主イエスが十字架にお架かりになる前の最後の数日間の出来事が続いております。場所はエルサレムの神殿です。祭司長、律法学者、長老たち、ファリサイ派、ヘロデ派、そしてサドカイ派が次々とやってきまして、主イエスに議論を挑んできました。それは主イエスを試し、陥れるためでありましたが、今日の御言葉に登場いたします律法学者の態度はそれとは異なるものでありました。この人は主イエスとサドカイ派の人々との議論を聞いておりました。復活に関する問答で主イエスが旧約聖書に示されている神は生きておられる者の神である、と死者の復活についてお語りになるのを聞いたのです。その言葉に心動かされたのでしょう、主イエスの前に進み出ました。主イエスが「立派に」お答えになってのを見て、と28節にあります。この「立派に」と訳されている言葉は元々は「美しい」という意味です。主イエスのお答えが美しかった、その美しさは神でなければ持ちえない豊かさを伴うものであり、この人はそれに気づき、質問せずにはいられなかったのでありましょう。思わず、進み出て質問したのであります。


■第一の掟

この人の質問は、「あらゆる掟の中で、どれが第一でしょうか。」というものでありました。当時のユダヤの掟には、しなければならないという戒めが248、してはならないという戒めが365、合計で613の戒めがあったと言われています。彼らはこの613の掟をすべて暗記していたと言われていますが、それを一般の人々に実生活においてかみ砕いて、律法に適う生活ができるかを教えておりましたから、この「どれが第一でしょうか」という質問は律法の要を問うているわけです。ここだけは外せないというその要をおさえておくことは、人々の指導のために大切だ、と思ったのでありましょう。この律法学者はそのような真面目で真剣な思いで主イエスに問いかけたのです。さて、そのような問いに主イエスもストレートにお答えになります。29、30節です。それは申命記6章4節、5節であります。申命記をお読みします。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」この最初の言葉、「聞け」はヘブライ語で「シェマー」であることから、「シェマーの祈り」と言われています。ユダヤ人は紀元前2世紀以来、朝夕唱えていたものの一部です。主イエスはこのユダヤ人ならだれでも知っている主の命令を、あらゆる掟の中で第一とされました。


■唯一の神を愛する

この内容は、神は唯一の神であり、他に神がない、という宣言であります。これはユダヤ教の唯一神信仰の基礎であります。主イエスはユダヤ的伝統を否定するのではなく、むしろ、肯定する者として、ここで唯一神を証言されておられます。申命記では「我らの主」マルコでの引用では、「わたしたちの神である主」という言葉がそれをよく表しています。そしてこの申命記6章4節「我らの神、主は唯一の主である。」は出エジプト記20章3節、十戒の第一戒「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」という命令と深く結びついています。他の神の否定であり、唯一なる神なのです。私たちが信じ、礼拝する神はただおひとりであり、その唯一の神との交わりの中に生きることが命じられています。そしてその神との交わりが神との愛の関係であると示されています。


■心、精神、思い、力を尽くして

この神を愛することにおいて、主イエスは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの主なる神を愛しなさい。」と続けられました。原文を見ますと、「あなたの心の全てから、あなたの精神の全てから、あなたの思いの全てから、あなたの力の全てから」となります。全部のことばに「あなたの」という言葉が繰り返されています。つまり、あなたの全存在をもって、ということです。そして申命記では、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、」と三つのことがあげられていましたが、主イエスは四つ「心、精神、思い、力」をあげておられます。精神は申命記における「魂」にあたりますので、主イエスは「思いを尽くして」という言葉を加えておられることになります。「思い」という言葉は、理性と結びついている言葉であり、物事を理解した上で、自分のものとなる、それが思いでありましょう。律法学者の使いました「知恵」というのも、「思い」とほぼ同じと考えてよいと思います。元々の申命記と主イエスのお言葉で共通していますのは、「心」と「力」です。「心」は愛の根ざすところともいえるものです。愛が生まれるところなのです。この神を愛せよと言われる時、それは、あの奴隷の地エジプトからイスラエルの民を導き出し、約束の地カナンをお与えになった神、この神のイスラエルの民に対する愛があり、その神に対する応答として求められているもの、私たちから出る神への愛なのです。そしてその愛が隣人へと向けられるように、というものが第二の掟として主イエスがお話になったことです。


■第二の掟

「隣人を自分のように愛しなさい。」これはレビ記19章18節の引用であります。この二つの戒めは切り離されて考えるものではなく、二つの戒めが一つに結び合わされて律法の全体を完成させる、と主イエスは考えておられるのです。神がモーセを通してお与えになった十戒は出エジプト記20章に記されておりますけれども、このレビ記19章を見ますと、十戒の後半部分に示されている人との関係の部分を丁寧に書き記してくれているように思えます。たとえば9節・10節を見てみますと、「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかなければならない。わたしはあなたたちの神、主である。」とあります。自分の畑、自分のぶどう畑は全部自分の物として刈り尽くす、摘み尽くすのではなく、見えない、知らない誰かのために残しておく。貧しい人たちがとる事を許す、むしろそれを勧める。ここに隣人を愛する具体的な形が示されています。そして、最後に記されております言葉、「わたしはあなたたちの神、主である。」つまり、このように隣人への愛を示すことは、あなたたちの神、主を愛することなのだ、と示しておられるのです。神を愛することと隣人を愛することはひとつになります。神を愛することと、自分を愛すること、隣人を愛することは別なことではないのです。ヨハネの手紙Ⅰ4章12節にはこうあります。「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」

さて、それではこの二つの掟を私たちは守り、従うことができるのでしょうか。ハイデルベルク信仰問答の問4・問5に主イエスの言われたこの2つの掟のことが出てまいります。

「問4 神の律法は、わたしたちに何を求めていますか?」という問いに対して、第一の掟、第二の掟を示し、律法はこの二つの掟に基づいているのだと言います。そして、「問5 あなたはこれらすべての事を完全に行うことができますか」という問いに対して、「答え、できません。なぜなら、わたしは神と自分の隣人を憎む方へと、生まれつき心が傾いているからです。」と言うのです。ハイデルベルク信仰問答では、この「神と隣人を憎む方へ生まれつき心が傾いている」このことが人間の悲惨な姿である、と言います。本来、神は御自分の姿に似せて私たちをお造りになった。それは神を愛し、人を愛する存在として造られたということであります。それなら、どうして愛せないか。それは、根源的に神に対して罪を犯しているからであります。そのことに気付くことは、キリストに結ばれ、神の子として生きるために知らなければならない第一のことなのです。自分がどれだけ貧しい姿をしているか、それを知る人々は幸いなのです。救いはそこからきます。ローマの信徒への手紙10章13節にありますように、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。


■自分を愛するように

さて、私たちは自分を愛しているでしょうか。もしかしたら、自分を嫌いで仕方がない、私は自分を愛してはいないと思われている方もあるかもしれません。自分の欠点であったり、自分の醜さであったり、それらを好きになれないと思うことはあるでしょう。しかしどんな人でも自分の命を本能的に守るように、自分は自分が大事であり、このような「自分のために」という自己愛は誰でもが持っている部分であります。そして大人になってそれが過度に大きく表現されると、自己中心的な人、と言われたりするわけです。そのような自分を愛する、というのは、生まれつき持っているものでありますから、それと同じように隣人を愛する、ということは意識して頑張らないとできない、いえ、頑張ってもできない、それが先ほどお話しいたしましたハイデルベルク信仰問答の問5であります。ですから、そこには神が間に入ってくださらないとできないのです。自分と隣人をつなぐには、間に神さまが介在してくださって、自分と隣人という横の水平の関係でなく、まず、神さまと自分という垂直の関係が成立しなければならないのです。


■焼き尽くす献げ物

律法学者は主イエスに言いました。「ほかに神はない。」そして「『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」ここで律法学者が引用したのは、ホセア書6章6節です。「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない。」律法の規定によれば、神の怒りをなだめるためには焼き尽くす捧げ物が必要である、と定められていました。レビ記の1章から7章までに記されています。牛、または羊、無傷の雄でなければなりません。そしてそれを献げる時には、犠牲の動物が殺される前に、その動物の頭に手を置きます。その人の身代わりであるというしるしです。つまり、焼き尽くす献げ物はその人のすべてを献げる、という意味を持っています。神に対する全き献身、全き服従を意味しているのです。焼き尽くす献げ物は煙となって、それが神をなだめる香りである、とレビ記は記しています。神が献げる者の信仰の姿を御覧になり、喜ばれるのです。律法学者はこの律法の定めによる献げ物よりも、神との愛の交わりの中に生きることが大切であるということを理解し、ホセア書の引用を持って、主イエスに答えたのでありました。主イエスはこの律法学者に対して、「あなたは神の国から遠くない」と言われました。いい線まで行っているのだけれど、ということであります。この答えが適切であることは認められましたが、「あなたは神の国にいる」とはおっしゃいませんでした。10章に自らの行いの積み上げによって救いが得られると考えていた金持ちの男が登場いたしました。この律法学者も金持ちの男と同じように、救いを得るための要をおさえたい、という気持ちからの問いであり、求めであったからです。


■結び

主イエスはこのわずか数日後に、いけにえとして献げられました。もはや焼き尽くすいけにえや犠牲は神の求めるものではなくなりました。真の献げ物はこのようにして神様の側からわたしたちの歴史に介入して、あのゴルゴタの丘で終わったのです。「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。」とローマの信徒への手紙3章25節にあります。主イエスは神を愛し、隣人である私たちをとことん愛し抜いてくださいました。この「唯一の神を愛する、そして隣人を愛する」という二つの戒めは主イエスによって完全に行われました。律法はたしかに命のために与えられましたが、それにはまずキリストによる解放が必要なのです。そうして初めて命を目指す律法の本来の意図が力を発揮し始めるのであります。主イエスの十字架は私たちにそのことも教えてくださいます。

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