説教題: 『十字架による救い』
聖書箇所: マルコによる福音書 15章16~32節
説教日: 2023年11月5日・降誕前第八主日(召天者記念礼拝)
説教: 大石 茉莉 伝道師
■はじめに
私たちはこの1年半以上、このマルコによる福音書から共に聴いてまいりました。「神の子イエス・キリストの福音の初め」ということばではじまりますこのマルコ福音書は、主イエスが人としてこの世に来て下さったことを伝えておりますけれども、それは何のためであったか、といいませば、それは今日共に聴きます、この十字架にお架かりになるためであったというのが、その究極のミッション、父なる神のお定めになったご計画であります。この世に来られ、ガリラヤで伝道され、そしてその道はエルサレムのこの十字架を目指していたのであります。主イエスご自身もどこに向かっているのか、十分にご存知でありました。十字架につけられる、そのことだけが主イエスの苦しみではなく、神の子でありながら、人としてこの世に来られ、歩まれたその御生涯すべてが苦難の道でありました。神の御心に沿って歩まれ、それゆえに人から理解されず、拒絶されるという歩みでした。それらの主イエスの痛み、苦しみの極みが今日の聖書箇所の「十字架につけられる」であります。
今日は特に召天者記念礼拝です。今日はご家族を主のもとに送られたご家族がこの礼拝に出席されておられるでありましょう。普段、教会の礼拝に出席されることのない方もあることと思います。今日の聖書箇所はキリスト教の中心ともいえる箇所であります。ですから、主イエスが十字架につけられることになった、その顛末を、前回のところから振り返りたいと思います。なぜなら、十字架の救いの意味を知る大切なところだからです。そしてわたしたちの先人たちが、主イエスの十字架に何を思い、そしてこの世の生を終える時、何を希望としたのか…主イエスが成し遂げて下さった救いに目を留めたいと思います。
■十字架までの顛末
主イエスは過越しの祭りの最中に、ゲッセマネの祈りの後、祭司長、律法学者、長老たちによって捕らえられました。主イエスの弟子であるイスカリオテのユダが手引きをしたからでありました。そして、主イエスに従ってきた弟子たちもすべて自分も捕らえられることを恐れて、主イエスを見捨てて逃げ去ってしまいました。主イエスが捕らえられた、その理由は何であったか、といいますと、それは祭司長たちの主イエスに対する妬みからでありました。彼らは自分たちこそがこのユダヤ人の社会において権威がある者たちであると自負していました。主イエスの様々な言動、それらはすべて、主イエスがまことのお方、神の子としての権威を表していました。彼らは自分たちを脅かす存在として、主イエスを憎み始め、そして亡き者としようと謀ったのです。自らを王と名乗っている、つまりは、当時ユダヤを支配していたローマに対する反逆であるとして、ローマ総督に引き渡しました。ローマ総督ポンテオ・ピラトは、祭司長たちの陰謀であることもわかっていました。ですから、祭りの時の恩赦を用いて釈放しようと思っていたのです。しかし、祭司長たちは群衆をも扇動しました。そして群衆たちが主イエスを「十字架につけろ」と叫びました。そしてピラトは群衆を恐れ、群衆におもねり、主イエスに十字架刑を言い渡したのです。主イエスの十字架は、祭司長たちの妬みに始まり、それに煽られた群衆、そして人の上に立つ者の正しい判断でなく群衆へのおもねりによって決められました。それはつまりは、人間の持つ醜さ、妬み、おもねり、偽証、によってであったと言えるのです。主イエスの十字架は、二千年前のユダヤの出来事でありますが、それは今の私たちと無関係な出来事ではありません。今日の聖書箇所はそのことを記しております、それを見てまいりましょう。
■まことの王を侮辱する
兵士たちは、部隊の全員を呼び集めた、と今日の御言葉の始まり16節に書かれています。ローマの兵士たちに引き渡された主イエスは、兵士たち全員から侮辱されたのでありました。彼らにしてみれば、自分たちが支配している国の死刑の確定した者に対して、何をしても誰からも咎め立てされることはありません。主イエスには紫の服を着せました。紫は王を象徴する色です。そして冠として茨でそれを作り、主イエスにかぶらせました。その上で、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ユダヤ人の王、万歳、と言って拝んだりした、とあります。まことの王であられる主イエスに、このような王の格好をさせて肉体的にも精神的にも侮辱しているのです。弄ぶようなこのような振る舞いに、人間の持つ残酷さが示されていると言えるでしょう。そしてこうして侮辱したのち、主イエスに十字架を担がせました。十字架刑が執行される場所は、ゴルゴダ、されこうべの場所、と呼ばれるところでの公開処刑です。十字架刑はローマ帝国において、最も重い刑罰でありました。処刑の場となる、されこうべの場所には十字架の柱が立てられていました。ピラトの官邸からそこまでの道のりを、処刑される者は十字架の横木を担いで歩く、こうしてすでに公開処刑が始まっているのです。主イエスはすでに茨の冠で頭から血を流し、その前からの鞭打ちにより力がなくなっていました。さらに兵士たちによって、心身共に痛めつけられていたのです。それでも自らが十字架にかかるための横木、これを持っていかなければなりませんでした。
そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が通りかかり、彼が主イエスの十字架を担ぐことになります。彼はどうやら体力のあるりっぱな体格をしたようであります。しかし、だからと言って、十字架刑にかかる人のその横木を代わりに担ぐ、それは全くの想定外でありました。ただ、通りかかっただけであったのに、これから十字架の死に向かう人の横木を背負う。それはただ重いものを背負わされたというだけではなく、主イエスがこの時受けていた辱めを共に引き受けたということでありました。心身ともに重荷を背負ったのです。このシモンはこの時の体験から、後にキリスト者となったと思われます。パウロのローマの信徒への手紙16章13節からそれを知ることができるからです。「主に結ばれている選ばれた者、ルフォスによろしく、およびその母によろしく。」おそらく、このシモン、そして妻がキリスト者となり、息子たちもキリスト者として育ち、
ルフォスたちがローマの教会の担い手となったのでありましょう。主イエスは「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と言われました。この「背負って」という言葉と、21節の「担がせる」という言葉は同じ言葉です。シモンは無理やりにではありましたけれども、十字架を背負い、主イエスの後について行ったのです。原始教会から2千年、私たちが自分たちの十字架を背負って主イエスの後に従う、ということを考える時、このキレネ人シモンが視覚的に思い浮かびます。この時の周りの視線、シモン自身の思い、そのようなことすべて含めて、神は私たちのためにこの光景を残して下さったのだと思います。
そしてゴルゴダに着き、「没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった」と23節には記されています。この没薬を混ぜたぶどう酒というのは、感覚を鈍らせて、苦痛を和らげるための麻酔薬でありました。それほどにこの十字架刑というのは、拷問であり、死に至るまでの苦しみは想像以上ものであったのです。しかし、主イエスはお受けになりませんでした。ゲッセマネで「苦しみの杯を取りのけてください。しかし、父なる神の御心がなりますように。」と祈られた主イエスは苦しみの全てを引き受けて、苦しみの杯を飲み干されたのです。父なる神の御心を最後まで担われた主イエスでありました。
■十字架につける
そして主イエスを十字架につけて、その服を分け合った、と24節は記しています。詩編22編19節にはこうあります。「わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。」旧約聖書は新約聖書を指し示している、と言われます。この詩編22編は主イエスのご受難を指し示しているのです。一人の人間の死を前にして、くじを引いて服を分け合うという姿は、人間性を失ったともいえる残忍さが描かれています。
そして、主イエスは午前九時に十字架につけられました。罪状書きには「ユダヤ人の王」と書かれていました。ユダヤ人のみならず、まことの王であられる主イエスに対して、ローマの権力はこの言葉をからかい半分に書いたのであります。主イエスへの嘲りの言葉であると同時に、ユダヤ人への嘲りの言葉でもあります。
29節には「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。」とあります。「頭を振りながら」という行為は、軽蔑や嘲りを示すしぐさです。詩編22編8節、9節「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう。」まさにこの詩編で歌われていたとおりのことがここに起こっているのであります。同様に、祭司長たち、律法学者たちも代わる代わる主イエスを侮辱いたしました。「『他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。』一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。」
■宗教家たちの求めていたもの
祭司長、律法学者たち、この人たちは、ユダヤにおける宗教家であります。その人たちが「十字架から降りてきたら、神の力を信じよう。」と言ったのでありました。これは嘲りの言葉であると同時に、彼らの本音であったとも言えるでしょう。彼らの考える神の力というのは、人間にはできそうもない不思議なこと、それを見せて欲しいと求めていたということであります。彼らは宗教家であり、神を信じ、神に従って生きることがわかっていた者たちであったはずであります。しかしながら、キリストが十字架から降りる、そのことに神の力があらわされる、と思っていたということです。とても愚かな考え方でありますが、しかしながら、私たちの信仰生活にも当てはめて考えるべきであろうと思います。神の力、それをどのように見たいと思っているかということです。どのような力を求めているでしょうか。私たちは神に祈ります、しかし、それは時に、戦争が終わりますように、とか、自分や家族の病気が治りますように、とか、お金がもうかりますように、とか、そう言うことの中に、神の力が働いてくださるように願っているのではないでしょうか。それは、十字架からおりてくること、と同じなのです。何か自分に利益のあるような意味の神の力、それを示してくれたらよい、と願っているのです。ユダヤにおける宗教家たち、この人たちは、神の救いは必要ないと思っていたのです。神の救いを求めているのではなくて、自分の利益とか、自分に得になること、を求めていただけであったのです。
■十字架の救いの意味
「他人は救ったのに、自分は救えない。」今日の31節にこう嘲りの言葉として記されておりますが、これが十字架の意味であります。「降りてきて自分を救ってみろ」この言葉は、主イエスがガリラヤで伝道を始める時、荒れ野で過ごされた際に悪魔から受けた誘惑の言葉を思い起こさせます。悪魔は「神の子なら、飛び降りてみよ」と誘惑しました。しかし、主イエスは「神を試してはならない」と言われ、悪魔からの誘惑を退けられました。この主イエスの最後の時、神の子である主イエスはもちろん十字架から降りることもできたでありましょう。しかし、父なる神の御心に従い、その神のご計画の実現のために、主イエスは十字架から降りることなく、十字架で死をお受けになりました。その救いの意味は、「十字架は罪人の、人間の罪の清算のため」でありました。十字架刑は当時の処刑の方法としては最も残酷なものでありました。そしてこのマルコ福音書はその残酷さを明確に記しております。主イエスの肉体がお受けになった残酷さよりも、主イエスをあざ笑った人々の心の残酷さであります。そしてそれが人間の罪なのです。「十字架につけよ」と叫んだ群衆、人々におもねって妥協したポンテオ・ピラト、通りかかった人、祭司長、律法学者、共に十字架刑になった二人の強盗、それら、この主イエスの十字架の場面に登場した者たちすべてが持つ、妬み、おもねり、偽り、残忍さ、愚かさ、それらすべてを清算するために主イエスは十字架をお引き受けくださったのであります。
■結び
主イエスの十字架の場面に登場する人々は、あなたとは無縁でしょうか。時代も人種も異なる関係ない話でしょうか。もし2千年前にこの場にいたら、どのようなことを思い、どのようなことを言い、どのように行動するでしょうか。私自身の持つ醜さのために、主イエスが十字架にお架かりになってくださった、そのことに気づくとき、私たちはこのお方に従いたい、このお方のもとで生きていきたい、と思うようになるのです。そうして私たちの先人達は、この完全なるお方のもとに生きる平安を与えられたのであります。それは私たちも同じであり、全ての人々は招かれております。今日、主イエスの十字架の意味をこうして多くの方々と聴くことができましたことに感謝いたします。
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