『勝利者イエス』 2025年5月11日
- NEDU Church
- 5 日前
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説教題: 『勝利者イエス』
聖書箇所: 旧約聖書 詩編16:7-11
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書8:28-34
説教日: 2025年5月11日・復活節第4主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
今日、共に聴きます聖書箇所はマタイ8章28節以下です。7章までに記されておりますのは、主イエスの教えの数々でありました。そしてこの8章から、教えから癒しの御業へと主イエスのお働きが変わっているということが示されていました。そもそもは4章23節で「主イエスは諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民衆のありとあらゆる病気、病を癒やされた。」という形で主イエスのお働きが示されていました。山上の説教という長い教えのお働きの次にはこの8章に示されるように癒しの御業がたて続けて語られているわけです。その癒しは重い皮膚病の人という小さな物語から始まりました。そして百人隊長の僕はその場にいたわけではありませんが癒されました。百人隊長はユダヤ人ではないわけですから、つまり異邦人の癒しがこうして始まりました。シモン・ペトロのしゅうとめという女性への癒しも続いて示されました。マタイは意識して、このような順番で、ユダヤ人から遠い人たちを強調して示すことで、主イエスの天の国の到来、神の権能の絶対性を示しているのです。
■荒れ狂う嵐・荒れ狂う人
今日の物語の直前には、ガリラヤ湖の真ん中での嵐の物語が示されていました。風と波が荒れ狂う湖、今日の箇所ではそれが人間に置き換えられて、風と波が人間の内側で荒れ狂っているのです。ガリラヤ湖の嵐を主イエスが神の権能によって鎮められたように、今日の悪霊に取り憑かれた人たちにも主イエスが神の権能を示されたということが記されています。8章の始まりから、主イエスに従った人にとどまらず、離れている人の病気にも、
身近な人の病気にも、風と波にも、そして悪の力にも主イエスの権威が及んでいるということが示されているのです。そしてまた、前回の最後、「いったい、この方はどういう方なのだろう。」という問いが弟子たち、人々、そして私たちに投げかけられていました。弟子たちでさえも、戸惑い、明確なお姿を捉えられていない中で、今日の箇所の悪霊たちによって主イエスがどのようなお方であるのか、がはっきりと示されています、29節「神の子、かまわないでくれ。」悪霊は、主イエスは「神の子」であると叫んでいるのです。ペトロや他の弟子たちによって、主イエスが「神の子」であると告白されるのは、マタイ福音書においては、まだ先のことです。弟子たちによる告白は14:33、前回と同じようなガリラヤ湖上で漕ぎあぐねる弟子たちのところに、主イエスが歩いて来てくださった場面です。一度は水の上を歩いて主イエスの方へ進んだペトロでしたが、強い風に怖くなり沈みそうになりました。主イエスが手を伸ばしてくださり、ペトロは助けられて舟に戻り、風は静まりました。それを見ていた者たちは「本当に、あなたは神の子です」と言って主イエスを拝んだと記されています。また、弟子の代表であるペトロが「あなたはメシア、いける神の子です」と告白するのは16章のことです。このように主イエスに近くいた弟子たちでありましたがわからないままであり、実は悪霊の方がずっと早くに、主イエス・キリストが誰であるのか、ということを見抜いていたということです。
■「まだ、その時ではないのに」
悪霊の言葉で注目すべきは、主イエスを「神の子」と呼んだことと、それに続く「まだその時ではないのに」という言葉です。「その時」がいつなのか、といえば、終末を指すのでありましょう。悪霊たちは世の終わり、それは自分たちが終わりの時である、滅ぼされる時である、とわきまえていました。その時には、自分たちは神に負けると知っていたと言うことです。ですから、彼らの「まだ、その時ではないのに」と言うセリフは、まだ、自分たちが支配者のように振る舞うことが許される時のはずだ、と言うことです。彼らはかまわないでくれ、と言っています。これは我々とあなたとは何の関係もないでしょう、私は私、あなたはあなた、と言うことです。これは神から離れていたい、神とは関わりを持たずにやってゆきたいという主張です。悪霊に取り憑かれるというのを現代に当てはめた時、精神的な病気というように考えがちですが、決してそうではありません。神から離れさせようとする力、それらは今も、さまざまな形で私たちに働きかけています。今、私たちが生きているこの世界にも悪霊は活動していて、その支配から全く逃れているという人はいないのではないでしょうか。私たちを支配しようとし、神から離れさせ、そして人間に罪を犯させようとするのです。パウロはローマの信徒への手紙7章18節で「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」と言っていますけれども、それが私たち人間の姿であり、誰もが悪霊とは無関係ではないのです。
■墓場から豚に
彼らが墓場に住んでいたというのはとても象徴的なことです。墓場は死んだ者の場所であり、生きて生活する人の住むところではありません。悪霊に取り憑かれた人たちは命ありながらも、死んだ存在であったということです。彼らの生活共同体からも切り離されて、墓場へと追いやられ、人との関わりを断たれていました。彼らは「イエスのところにやってきた」とあります。彼らの方から近づいてきた、わざわざ主イエスに会いに来て叫んだのでありました。その言葉は先ほどお話ししたことでありますけれども、すでに悪霊は神の子として主イエスを認知しており、負けを認めていたわけです。彼らの言葉は、「かまわないでくれ」でありますけれども、実は、彼らが入り込んでいる人間の本心、心の奥底では、彼らはうめき、苦しんでいました。主イエスはそのように実は救いを求めている彼ら人間の叫びを聞き取り、そして悪霊と対決なさいました。終わりの日までは、まだ自分たちの時であるはずが主イエス、神の子が来てしまった、滅ぼされるのであれば、豚の中に乗り移らせてもらいたい、彼らははじめから逃げ腰です。墓場といえども、人間の中に入って過ごしていたけれども、生き延びるには豚の中でも良いから住処を得たい、悪霊たちはそのように考えたのです。豚はユダヤ人たちの間では穢れた動物とされていました。このガダラ人の地というのは異邦人の地でありましたから、豚を飼い、それで生活していた人たちがいたのでした。
■悪霊からの解放
「豚の群れの中にやってくれ」という悪霊の願いに対して、主イエスは「行け」と言われました。今日の箇所で主イエスが言われたお言葉は、この一言だけです。しかし、この短い一言は力ある言葉でありました。この一言で、悪霊たちは人間から出て、豚の群れの中に入り、そして豚の群れはすべて崖を下って湖になだれこみ、水の中で溺れ死んだのでした。悪霊たちはなんとか豚の中で生き延びようと考えたわけですが、そうはいきませんでした。主イエスの一言によって、この世の終わりの時に実現するはずの悪霊の滅びが、たちまち起こりました。主イエスの「行け」という命令には、悪霊たちが想像していた以上の力が潜んでいたのです。主イエスは悪霊に勝利する圧倒的な力を持つ神の子であるということがこうして示されているのです。こうして悪霊は滅ぼされました。今まで悪霊に支配されていた二人の人、凶暴で手がつけられず、人々と関わりを持つことができなかった人たち、生きていながらにして死んだようであった彼らは、もう一度新しく生きることができるようになったのです。彼らは主イエスによって、新たに生きる者とされました。この出来事は主イエスの十字架の死、そして復活によって、神が私たちのために実現してくださった救いの出来事の先取りなのです。主イエスが私たちのこの世に来てくださった。そして十字架で死なれ、復活してくださった。それはすでに世の終わりを迎えたということです。その主イエスによって、罪の力の支配は断ち切られました。こうして主イエスは私たちの罪を取り除いてくださり、赦しを与え、そして命を与えてくださって神の元で生きる者にしていくださいました。命の源である神のもとにある限り、肉体の命が失われてもそれは終わりではないのです。この救いが最終的に実現するのは、父なる神がこの世の終わりの時に、そのご支配を完成させる時です。しかし、神は主イエスの十字架と死によって、この世の、私たちの生きる現実の中でその救いを確かなものとしてくださったのです。それを私たちはこの出来事の中に見ることができるのです。
■悪霊の支配
今日の箇所の最後には、「町中の者がイエスに会おうとやってきて、その地方から出ていってもらいたい」と言った、と記されています。このように言った人たちは、悪霊によって言葉を失い、人々との関わりを奪われて墓場にしか住むことができなくなってしまっていた仲間が、再び人として生きることができるようになった喜び、その素晴らしい出来事よりも生活の糧であった豚の群れが全滅してしまったことを責めるからでしょう。主イエスによって実現した救いを見るのではなく、自分たちの損害だけに目が向いているからでしょう。「我々を苦しめるのか」と言った悪霊の言葉を今度は彼らが語っているのです。このように悪霊の支配は続いています。私たちを捕らえて、支配しようとしているのです。悪霊が、というよりも、私たち人間の根本に罪の温床があるからです。神に従うよりも、自分の思い通りにしたいという心が悪霊を生み出していくのです。しかし、私たちには、主イエスという死に打ち勝ち、悪に打ち勝ったお方に従うならば、罪から解き放されるという希望が与えられています。その希望とは漠然としたものではなく、確信なのです。19世紀のドイツにブルームハルトという牧師がおりました。その教会の一人の娘が一種の精神病にかかりました。ブルームハルトはただただ3年間、彼女のために聖書を語り、祈り続けました。この狂気に祈りを持って立ち向かったのでした。そして3年後、彼女は「主イエスは勝利者」という言葉を持って、心を取り戻したと言います。ブルームハルトはただ、主イエスの勝利に対する確信だけで祈り続けたのです。この確信が信仰です。神は必ず勝利する、この確信こそが、私たちを、私たちの教会を、健やかな命の世界にしていくのです。
■結び
私たちの生きる世は、厳しく、そして私たちの罪は深く、その心が病んでしまう者さえある、それが現実です。不安と恐れを抱くこの世において、主イエスが来てくださったことによって、すでに勝利を成し遂げてくださったということが私たちの確信として確かなものになっていくように、祈り願いたいと思うのです。私たちの最終的な支配者は主イエス・キリストであり、そのご支配の前では、悪霊も、罪の力も、また死も全く無力なのです。それが私たちに与えられている恵みであり、希望となり、日々の歩みを力強いものにしてくださるのだと信じます。
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