説教題: 『共に賜る恵み』
聖書箇所: ガラテヤの信徒への手紙 2章1~10節
説教日: 2024年2月4日・降誕節第6主日
説教: 大石 茉莉 伝道師
■はじめに
1章ではパウロがガラテヤ教会の人々に、並々ならぬ熱意を持って、キリストの恵み、福音は他に変わるものはなし、ということを自らの体験をも披瀝しながら、どうか唯一の福音に踏みとどまってほしいということを訴えたのでありました。パウロは自らの回心の出来事によって、これからの自分の生きる道は、ただキリストのために生きることであり、キリストの救いはただそのキリストの救いの恵みを受け入れること、信じることだけなのだと、理解したのです。そしてそれは割礼にもよらず、ユダヤ人だけでなく、異邦人にも与えられていることである、それを告げ広めることだと示され、それが自らに与えられた使命であると自覚していました。しかし、今まで敵であった自分がその福音を告げ知らせること、また、今まで同胞であったユダヤ人からは裏切り者とされて命を狙われるまでになっていました。そのようにパウロは孤独な宣教者の道を歩むことを余儀なくされていたのです。
■エルサレム会議
今日の第2章1節は「その後14年経ってから」と始まっています。この「その後」とは1章18節のそれから3年後、を受けていると考えられますから、つまりパウロが回心の体験を与えられてから17年目ということになりましょう。かなり長い年月です。この間、パウロはギリシア人に対する伝道に取り組んでいました。そのようなパウロがエルサレムに行くのには理由があります。それは使徒言行録15章に記されております、そこにはこうあります。1節から2節、「ある人々がユダヤから下ってきて、『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、その他の数名の者がエルサレムに上ることに決まった。」パウロが取り組んできた宣教は、ユダヤ人でなくとも異邦人も神の救いに与ることができるということです。ユダヤ人も異邦人もない、ユダヤ人はその証として割礼を受けますが、その必要もない、救いに与るのはそのような条件は必要ないのだとパウロは強調してきました。それにもかかわらず、救いのためには割礼が必要である、ということを教える者たちがいるということはパウロにとっては真っ向から対立するものでありました。
割礼ということに関して、私たちは全く馴染みがありませんから、なぜ割礼がそのように大きな問題となるのか?と思うかもしれませんが、イスラエルの民にとっては大きな意味を持つものでありました。彼らにとって割礼は、単なる習慣ではなく「神に対する忠誠を誓うもの、神の律法を守る宣言」であり、それによって身分が保証されるものであり、救いの前提でありました。ですから、パウロの「割礼はしてもしなくても救いには関係ない、律法の遵守によって、つまり人の行いによるのでもない」と言う主張に対立する者がいるのは当たり前と言えることなのです。そして紛争とまで言える事態になり、エルサレムで決着をつけると言うような大事になったわけです。パウロにとってみれば、神の啓示によるものであり、何ら間違っていないと確信を持つものでありましたが、エルサレムの使徒たちが、もしそちらに同意するようなことがあれば、パウロにとって当然ながら福音を宣べ伝えていくことの妨げとなります。パウロが2節で「啓示によってエルサレムに行った」と言っているのには、そのような差し迫ったものがあったのです。
■バルナバとテトス
さて、パウロとともにエルサレムに向かったのは、バルナバとテトスでした。バルナバはキプロス島出身のギリシア語を話すユダヤ人でした。彼はエルサレム教会がアンティオキアへ派遣した人物で、「立派な人で、聖霊と信仰とに満ちていた」と使徒言行録11:24に記されています。そして使徒言行録4:36は、彼が経済的な貢献を果たしていたことも記されています。そして言葉にも長けていたため、ヘブライ語を話すユダヤ人キリスト者とギリシア語を話すユダヤ人キリスト者を取り持つ役目を果たしていました。バルナバはエルサレム教会から信頼を得ている人物でありましたから、今回のパウロとの同行は調停者として適任でありましょう。そしてテトスはギリシア人であり、割礼を受けていない異邦人、つまりパウロが取り組んできた異邦人伝道の証し人であります。3節にそのテトスに割礼を強要されなかった、とありますが、4節とのつながりで原文を読みますと、割礼を受けさせよという圧力がかかったが、それに屈しなかったと言うことです。おもだった人たち、つまり、エルサレム教会の使徒たちからも、たとえ強要されたとしても屈しないというパウロの強い意志表明が記されています。
■キリスト・イエスにある自由
ガラテヤ書のテーマがここにもう一度繰り返して示されています。4節の後半です。「偽兄弟たちは、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらって、入り込んできた。」「自由」と「奴隷」この言葉はガラテヤ書を貫くキーワードです。自由とはキリストの福音によってもたらされる自由、解放であります。何度も繰り返しお話ししてきたように、ただキリストを信じることによって与えられる恵み、何の条件もない、割礼も必要ない、律法規定にも拘束されない、と言う生き方が与えられるキリスト者の自由であります。一方、奴隷とはその対極であり、律法の支配下に置くと言うことです。律法を守ること、律法による行いを重ねること、割礼を受けること、それが正しいものであると信じて疑わず、それを中心にして生きると言うことです。しかし、このような人たち、パウロの言うところの偽兄弟たちは、このエルサレム会議によって退けられたことがここで示されました。このことをわざわざパウロがこの手紙に記したのは、ガラテヤの人々を惑わし、キリストの福音を覆そうとしている者たち、とこの偽兄弟たちが重なり、ガラテヤの人々が彼らが偽物であると言うことに気づき、キリストの福音に立ち帰ってもらいたい、と思ったからであります。
■エルサレム会議の結末
さて7節以下に書かれていることは、エルサレム会議におけるパウロの収穫でありました。ユダヤ人を中心に福音を宣べ伝えているペトロ、そして異邦人を中心に福音を宣べ伝えるパウロというように、そのそれぞれの役割が確認されたということが記されています。ガラテヤの人々への手紙にこの会議の結果を明確に記しているのは、パウロの福音は決してエルサレム側と対立するものではなく、むしろパウロの使徒としての権威がペトロに並ぶものであるということを明らかにするためであります。そしてまた、割礼によらない福音をエルサレム教会が認めているということも明らかにするという意図が示されています。「福音が任されている」と表現されている言葉は、神によって権威を与えられている、宣教が委ねられている、という言葉です。つまり、キリストの弟子として認められるかどうかということです。パウロが使徒であるかどうか、それについては、パウロ自身は何の疑いもなく、神から与えられた、と確信を持って言えることでありますが、何の証明書があるわけではないのです。伝道をしていく中ではエルサレムの同意のもとにあるということはやりやすくなるものであります。パウロは「迫害者からの転身者である」という形容詞が名前についてまわるのです。
実際、私たちも「あの人の言うことなら信用できる」と言うような何らかの色眼鏡を持って人や物事を判断しています。特に、今は情報の時代でありますから、誰かによって書かれたもの、誰かが話したことも簡単にインターネットで調べることができて、その人のプロフィールや主張などを多角的に知ることができますけれども、パウロの時代、時は2千年前なのです。人の口から口へ、それだけが頼りなのです。迫害者パウロであった人は大丈夫か?実は未だキリストを信じる者を捕まえるために、やっていることではないのか?とも思われていたのです。そのようなハンデを負っていたパウロにとっては、伝道活動が認められ、ペトロと同様の使徒としての使命が確認されたということは、大きな意味を持つものでありました。「パウロにとって」と申しましたけれども、これはパウロの人間的な面子というようなことではありません。彼にとって、大切なのは「キリストのために」であり、そのために良い形となること、それだけが彼の願いなのです。
■会議の背後に
この「福音が任されている」と言う表現は、神による権威を表すものである、と申しましたとおり、この話し合いはペトロ他エルサレム教会の主だった人たちと、パウロたちとの間の人間的な会議ではないと言うことを覚えておかなくてはなりません。ユダヤ人への伝道をペトロたちが、異邦人への伝道をパウロたちが、はい、お互いにうまくシェアできそうですね、よろしく、と言うようなものではないと言うことです。お互いを忖度して、このような結論に落ち着きそうだ、とかと言うように、両者が勝手に考えて決めたのではなく、ここで示された結論の背後には、神の御心があると言うことです。その神の御心が示されたのだ、とパウロも、もちろんペトロたちも理解しています。コリントの信徒への手紙Ⅰ12章4節から6節に次のように記されています。「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。」務め、働きにはさまざまあってもそれをお与えになるのは神であり、神が人をそれぞれの務めに用いられるのです。このことをパウロたちはしっかりと認識していました。このことは現代の教会、教会内、教会同士においても言えることです。私たちの教会においても、例えば役員会を開きます時には必ず、私たちの思いではなく、あなたの御心がなりますように、と祈ります。私たち人間同士の話し合いが確かになされますけれども、その背後には神様の御心が働くものとなる、と私たちは信じます。そうであるから、決まったことを教会が一つとなって成していくのであります。このガラテヤの信徒への手紙で見ることは、ユダヤ人教会と異邦人教会という関係性ですが、私たちの教会内においても唯一の神に対する信仰において一致しているからこそ、その多様性、違いを認めて歩んでいくことができるのです。今日の9節で、お互いに対する信頼と協力の証しとして、右手が差し出され、握手を交わすというシーンが出てまいりました。この握り合う手によって伝道、神の業は進められていくのです。
■結び
パウロに差し出された右手は「与えられた恵みを認めて」でありました。このパウロに与えられた恵みとは、ダマスコ途上でのあの主イエスとの出会い、パウロの回心、迫害者が信仰者へと変えられたあの出来事です。ペトロたちが自分の神とパウロの神が同じである、と認めたということであり、同じ神のもと、異なる働きをすることを神が求め、命じておられるのだということの証しです。全ての信仰者の始まりはこのような神との出会い、神の恵みです。それが自らのものだけであるという驕りや高ぶりは他者を排除し、他者を裁くものへとなります。神は分け隔てなさらないお方、それぞれに等しい恵みを与えてくださっているということを今一度覚えなければならないでしょう。
こうして、二千年前の教会は分裂の危機を乗り越えて、一致して福音宣教へと歩み出すことになりました。私たちの教会はこの時の神の御心が成し続けられているものであることに感謝したいと思います。神は今も働いておられます。
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