説教題: 『光は輝くために』
聖書箇所: マルコによる福音書 4章21節~25節
説教日: 2022年8月28日・聖霊降臨節第十三主日
説教: 大石 茉莉 伝道師
■はじめに
マルコによる福音書を読み進めております。4章は「たとえ」がいくつか語られておりまして、「種を蒔く人」「成長する種」「からし種」と種シリーズがある中、今日の御言葉の「ともし灯と秤」のたとえが間に挟まれた形であります。今日はそのともし灯と秤のたとえに耳を傾けたいと思います。種と灯り、全く違うものなり、その関連は・・・と頭をひねりたくなりますが、今日の箇所のはじめには、「また、イエスは言われた。」と書かれています。つまり、種というたとえを用いて話されたことを、別のものを用いてお話されようとなさったのです。種を用いて、何をお話されたのかといいますと、神の国について、主イエスはお話されました。ですから、今日の短い「ともし灯と秤」このたとえも神の国についての話であるのです。
■ともし灯が来る
「ともし灯を持ってくる」と訳されていますが、直訳しますと、「ともし灯が来る」であります。ランプのようなともし灯を誰かが手に持ってやってくると考えて、このように訳されているのでしょうが、原文に忠実に考えますと「ともし灯が来る」つまり「光が来る」のです。ヨハネによる福音書1章9節には「その光は、まことのひかりで、世に来てすべての人を照らすのである。」と記されています。主イエスご自身のことです。主イエスは、すべての人を照らすために、まことの光としてこの世に来られたのです。そして、そのように光が来るのは、「升の下や寝台の下に置くためだろうか。」そう主イエスは問われます。この升とは、穀物類を量る時に用いる升のことで、8リットル以上も入る大きなものだそうです。その大きな升は、当時、ともし灯を消すために使われました。当時の家には窓がありませんでした。この升をかぶせることで、部屋に煙が充満することなく、煙を出さずに消すことができたのです。しかしそれは消す時にすることであって、明かりを灯しているのに、升で覆う、というのは理屈に合いません。寝台の下、というのも意味のないことです。ともし灯は、燭台の上においてあたりが照らされてこそ、意味をなすのです。主イエスがこの世に光として来られたのは、世を照らすためでありました。それは父なる神のご計画でありました。ですから、世を照らすためにいらした主イエスの明かりが升で覆われるとか、寝台の下に追いやられるなどということはあり得ないことです。今日のこのたとえも神の国についてのたとえである、とさきほど申し上げました。ですから、神の国、神のご支配は、明らかにされるために来ているのであり、隠されるために来ているのではない、そのことが言われているのです。
■隠れているものはあらわになる
隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。主イエスはたとえに続いてこのように言われました。この言葉を聞きますと、私たちはたいていが、悪事は必ず露見するというようなことわざとして捉えるのではないでしょうか。人間の目には隠せても、神様の裁きの前では、必ずすべてが明るみにでる。そのように理解されることが多いでしょう。しかし、このみ言葉はそのような意味で使われているのではありません。22節の言葉を原文に忠実に訳してみますと「隠れているもので、あらわになるためでないものはなく、秘められたもので、公になるためでないものはない。」つまり、隠れているもの、秘められたものは、あらわになるため、公になるためのものなのだ、と語っています。21節で語られた、ともし灯は燭台の上に置くため、と結びついているのです。
■隠されている神の国
神の国、神の御支配は主イエス・キリストの到来によって、実現しようとしています。神の独り子、救い主、まことの王であられる主イエスは、馬小屋でお生まれになり、貧しい大工として育ってこられました。人目を引く、誰にでも王とわかる姿でこの世にいらしたのではありませんでした。主イエスが神の独り子であり、救い主であるということは隠されていたのです。今まで何度か「メシアの秘密」というキーワードをお話しいたしましたがここにもメシアの秘密が示されています。主イエスにおいて到来している神の国というともし灯は、升の下、寝台の下に置かれて隠されていたのです。しかし、このともし灯はいつまでも隠され、秘められたままではありません。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはないからです。今は隠されていても、いつかそれがあらわに、公にされる時が来て、そして主イエス・キリストによる神の国のともし灯に照らされる時が来る。ここではその約束が語られているのです。
■「聞く耳のある者は・・・」
「聞く耳のある者は聞きなさい。」この主イエスのお言葉は、前回の種を蒔く人のたとえの9節でも語られていました。そして預言者イザヤの言葉も引用されていました。「彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない。」それはイザヤが神の言葉を民に告げたとき、民がそれに耳を傾けなかったという出来事を示しています。語れば語るほどに、民の心は頑なになっていきました。その現実に直面し、イザヤはそれこそが神の御心であると悟ったのです。主イエスも同じように、主イエスの周りに押し寄せてくる群衆に囲まれながらも、御言葉が聴かれないという現実に直面しておられました。そして言われる主イエスのお言葉「聞く耳のある者は聞きなさい。」それはわかる者だけがわかればよいという意味ではなく、「聞きなさい。聞くがよい。どうか聞いてほしい。」という主の願い、主の希望が込められたお言葉なのです。私たちには耳が与えられております。しかし、本当に聞くべき、主の御声を聞いているでしょうか。神の言葉よりも人の言葉に捕らわれているのではないでしょうか。主イエスは言われるのです、「ともし灯は隠されるためではなく、上に置かれ、周りを照らし、輝くためである。」と。その意味を知りなさいと、そう言われているのです。どのような力が、御言葉の輝きを覆い隠そうとしても、それは不可能だと言われるのです。光は輝くために来るのです。主はこの世を救うために来られました。その神のご計画は必ず実現するのです。
■主イエスというともし灯
その主イエスというともし灯を誰が升の下に置いたのでしょうか。誰がその灯を消そうと、そして消したのでしょうか。主イエスの周りに集まっていた群衆は、「十字架につけろ」と叫ぶのです。主イエスに癒されたいと願っていた群衆は、「十字架につけろ」と言うのです。それは私たちの姿です。自分の都合でいとも簡単に、主イエスを裏切る者へと変わるのです。それが私たち人間のもつ罪の姿です。そうして主イエスは死へと追いやられ、そのともし灯は消されたのです。主イエスが息を引き取られる時、光は消され、闇となりました。全地が暗くなりました。
しかし、神はその独り子である主イエスを復活なさったのです。天地創造の初め、神は言われました。「光あれ。」そうやって光をお創りになったお方が、光が覆われて、隠し通されることをお許しになるはずがないのです。
■あらわにされたもの
主イエスのご復活は、多くのことをあらわに、明らかにしました。主イエスの弟子のひとりは主イエスを裏切り、他の弟子たちも主イエスを見捨てて逃げ去りました。主イエスに触れていただきたいと集まっていたおびただしい群衆は、主イエスを十字架につけろと叫ぶ者と変わりました。祭司長、長老、律法学者たちは偽証までして主イエスを死刑にしようとしました。そのような闇の力によって、主イエスは死へと追いやられました。主イエスはゴルゴダと呼ばれるエルサレムの小高い丘で十字架にお架かりになりました。十字架刑はそのように人々に見世物のようにさらされて、そして刑に処せられた者が息絶えた後は、その亡骸をエルサレムの小高い丘からその外へと放り出されたのでありました。それですべてが終わりになるはずだったのです。主イエスのご復活がなければ、主イエスの十字架にまつわるすべての出来事は闇から闇へと葬られるはずでした。しかし、主イエスはご復活なさいました。そのことによって、すべての事は白日の下にさらされることになったのです。主イエスは言われました。「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。」のです。私たち人間の持つ罪の深さがこうして明らかになり、そしてまた、なによりも、父なる神のご計画があらわにされたのです。なぜならば、そのことなくして、私たちの救いはないからです。
■結び
「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らすともしび。」詩編119編105節にはそのように歌われています。神様のみことばこそが、私たちの灯であります。ですから、主イエスは「何を聞いているかに注意しなさい。」と言われるのです。みことばを聴く、このことについて、秤のことがたとえられています。私たちは誰でも、自分の秤を持っています。何かの情報に対して、自分と同じだとか自分とは違うとか、もしくは必要だとか、不必要だという判断をします。それは自分の秤を用いて判断しています。それは大切なことであると言えるでしょう。しかし、ここで言われているのは、神様の御言葉を聴く時にどのような秤を持っているかということです。神様の恵みをたくさん受け取ることができる大きな秤を持っていたら、そこには神の恵みは豊かに注がれます。しかし、自分の判断で物事を決める秤、つまりそれが小さな秤であれば、神の言葉も少ししか受け止めることができないのです。「持っている人はさらに与えらえ、」とはお金持ちのことではありません。神様の御言葉を受け止める大きな秤を持っているということです。大きな秤、大きな器と言ったほうが分かりやすいかもしれませんが、それは人間としての器の大きさということではありません。頭の良しあしでもありません。主イエスが私たち人間に向かって初めて発せられたお言葉を思い出してください。もう何度も繰り返してきましたマルコ福音書1章15節です。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」私たちが悔い改めて御言葉を聴く時、それは、恵みが豊かに注がれます。そうでなければ、私たちは神様ではなく、自分をその中心に置いて、御言葉を取捨選択して自分の思いや自分の都合で御言葉を聞くのです。神様こそが私たちの主人であることを認めて、神様の御言葉によって、変えられる自分を受け入れる時、私たち人間の思いも及ばない神様の恵みの世界が示されます。主イエス・キリストが語られた神の国、神の御支配の世界が見えてくるのです。隠されていても必ずいつかあらわになって全世界を照らします。悔い改めによって、与えられる大きな秤は必ず私たちを豊かにしてくださいます。そうして与えられる大きな賜物が私たちを養い、そして私たちに希望を与えてくれるのです。
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