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『光から闇へ、そして再び光へ』 2023年10月15日

説教題: 『光から闇へ、そして再び光へ』 聖書箇所: マルコによる福音書 14章66~72節 説教日: 2023年10月15日・聖霊降臨節第二十一主日 説教: 大石 茉莉 伝道師

■はじめに

今日与えられました御言葉は、主イエスが裁判を受けている間の中庭でのシーンであります。聖書にあまり親しんでおられない方でも、今日の聖書箇所を共にお読みいただいたら、その状況、そしてそこで起こったことについては理解していただけることと思います。

前回ともに読みました主イエスが大祭司のもとでの裁判、そのことと今日の御言葉の出来事は同時進行しております。前回の箇所の54節、「ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた。」それが今日の66節「ペトロが下の中庭にいたとき、」ということであります。主イエスは大祭司の前で、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と問われ、ペトロは中庭で女中たちから「あなたは、あの人の仲間ではないか」と問われる。主イエスは「わたしがそれである」と答え、ペトロは「わたしはそうではない」と否定する。歴然としたコントラストが表現されております。


■鶏

今日の聖書箇所の主人公はもちろんペトロでありますが、この箇所においてなくてはならないのが鶏であります。鶏は私たちにもなじみのあるものでありますし、聖書の中でもたくさん登場しているのではないか、と思われるかもしれませんが、実は新約聖書の中で12回しか使われていない単語であります。その12回といいますのは、主イエスが「ペトロよ、あなたは鶏が二度鳴く前にわたしを知らないというであろう」というところと、今日の箇所、ペトロが知らないと言い、鶏が鳴く、という、すべてこの出来事のところだけなのです。このペトロの否認と言われるこの出来事はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと4つの福音書すべてに記されております。4つの福音書が同じ出来事を記すというのは、その個所が私たちキリスト教信仰において、重要な箇所であるからです。そしてこの出来事はペトロしか知らない出来事のはずでありますが、それがこうして4つの福音書全てに記されている、それはどうしてでありましょうか。それは、ペトロ自身が、教会で繰り返し語ったからに違いありません。できれば自分のそのようなみっともない姿は隠しておきたいものでありましょう、それにもかかわらず、こうして現代まで語り継がれてきたのです、それは実はキリストの恵みが溢れている出来事だからであります。

教会はこのペトロの挫折の出来事を大切にしてきました。ローマ教皇、ニコラウス1世はこの出来事のシンボルである鶏を、風見鶏として教会につけることを定めました。ヨーロッパの古い教会の建物の突端に、今でもそれを見ることができます。人々は教会に集うたびに、ペトロと自分を重ね、その弱さの象徴が教会の一番先端に置かれていることを見て、その罪をそれぞれに自覚してきたのです。

そしてまた、風見鶏は風を感じて動くものであります。聖霊が風にたとえられ、それはどこからきて、どこへ行くのか、はわからないといわれるように、その聖霊を感じるものとして、という意味も込められております。


■光の中で暖を取る

今日の御言葉のペトロの行動は前回の箇所54節にも記されていました。54節「ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた。」このように書かれております。実は原文のギリシア語には日本語訳には表現されていない単語があります。それは「光」という言葉でありまして、正確に訳しますと、「光の中で、光のもとで暖を取っていた」となります。暖まる、暖を取る、それは火によってであって、光によってではないのに、わざわざここに光の中で、というように、光という単語が使われているのです。とても不思議に思いました。なぜであろうかと考えてみたのです。そして思いましたことは、ペトロは実は光に照らされていたのです。しかし自分ではそれには気づいていませんでした。ペトロは、ご一緒に死なねばならなくなってもあなたにお従いします、という力強く決意表明をしたにもかかわらず、主イエスが捕らえられた時、見捨てて逃げ去りました。しかし、どうにも主イエスのことが心配で、大祭司の中庭までこっそりとついてきたのでありました。主イエスのすぐ後に従うことはできず、距離を取って、様子をうかがっていました。ですから、自分のことは知られたくない、そう思っていたのです。そんなペトロには実は光が当たっていたのです。光はペトロの姿を明らかにする存在でありました。女中がじっと彼を見つめて言いました。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」彼の仲間でしょう、と言われたのであります。そのようにズバリと切り込まれたペトロは狼狽します。ドキッとしました。周りにいた人々の視線が一斉にペトロに注がれて、彼は動揺しました。そして即座に打ち消すのです。「あなたが何のことを言っているのか、わたしにはわからない。」しどろもどろな答弁です。

以前、私の友人のキリスト者がある宗教とは無関係の仕事関係の大勢の集まりで、この中にキリスト教信者の人はいますか?と言われて、堂々と手をあげることができなかったことがあり、そして、彼はまさにこのペトロの出来事と重なったというのです。それまで、自分はキリスト者であるということをはばからずに言える、大丈夫と思ってきたけれども、大勢の人の中で「はい」とたった一人、手をあげることができなかった。そんな自分は、まさに女中に指摘されたペトロと一緒。ドキッとして、人影に自分を隠す。主を否むとはこういうことか、と実体験したと告白してくれたことがあります。

信仰は、主イエスと私との間の一対一の関係に始まっています。主イエスが人々を癒そうとなさる時、御自分の前にきちんと立たせて癒されたように、主イエスの救いは一人一人に向き合ってくださって起こったものです。信仰の歩みは、人々の間に紛れて、気づかれないようにしながらついて行く、ということはできないのです。誰かの陰に自分の身を隠し続けて歩むということはできないのです。「あなたもあのナザレのイエスと一緒にいた」という問いかけに答えなければならない時が来るということを覚えておかなくてはならないでしょう。


■光から闇へ

ペトロはそのように否定して、逃げるように出口の方に移動しました。光に照らされて、ペトロはその存在を明らかにされてしまいました。そしてその光から遠ざかり、自分の身を隠すために出口の方へ、光から闇へと逃げ出したのです。しかし、女中はついてきました。そこでまた、その場にいた人々に「この人は、あの人たちの仲間です。」と言ったのでありました。ペトロは再び打ち消します。そして、今度は周りに居合わせた人々が「確かにそうだ、お前も仲間だ。ガリラヤの者だから。」と言います。「確かに、お前も」という表現は責めるような強い響きがあります。さらにガリラヤの者だから、ガリラヤ人だからと特定されました。つまりはガリラヤ訛りがあったということでしょう。そうして特定されたペトロはどうしたかといいますと、71節です、「すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、『あなたがたの言っているそんな人は知らない。』と誓い始めた。」と聖書は記しています。ここに二つの強い言葉があります。「呪う」という言葉と「誓う」という言葉です。「誓う」という言葉は文字通り、神にかけて誓うということです。今、この時、大祭司の屋敷の中では、律法学者たちが偽証していました。そしてこの中庭ではペトロが偽証していたのです。ペトロは「そんな人は知らない」と誓いとして証言したのでありました。

そして「呪う」という言葉は、もし自分の言っていることが嘘なら、この身が呪われてもよい、という強い誓い方であります。自分自身を呪いました。自分に呪いをかけて誓ったのです。呪いというのは祝福の反対語です。神の祝福から切り離す、ということです。そうして自分自身を否定することは、神の祝福を切り離すことであり、神を否定することです。神と主イエス・キリスト、そして自分のこれまでの関係、これまでの自分の歩みを否定したのです。光から離れたペトロは、まさに闇の中に立ち、どんどん罪の深みに入り込み、罪の姿が露わになったのです。

この時、鶏の二度目の鳴き声がペトロの耳に届きました。「ペトロは『鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないというだろう』とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。」今日の御言葉の最後はそのように締め括られ、この場面は終わりとなります。


■主イエスの言葉を思い出す

最後の言葉、「いきなり泣き出した」は少々訳すのが難しい言葉でありまして、さまざまな翻訳がなされてきました。さめざめと泣いた、とか、泣き崩れた、思い返して泣き続けた、などの訳があります。どの訳がよいかは別にしまして、私でしたら、いきなり激しく泣き崩れ、そして泣き続けた、としたいと思います。彼は立っていることもできないほどでありました。彼が「いきなり」泣きだしたのは、主イエスの言葉を思い出したからです。

同じ夜、ゲッセマネの園に向かう道すがら、主イエスと交わした会話が、主イエスのその声がよみがえってきました。主イエスは知っておられた、私が主イエスを否んでしまうことを知っておられた、そしてそのことを予告されていた。三度、つまり完璧に否定する、そして呪いの言葉を持って誓う、主イエスはそのことを見抜いておられた。私はその時何と言ったか、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません。」と言ったではなかったか。心からそう思っていたにもかかわらず、この同じ夜に主イエスとの関係を完全に否定した、そんな自分のふがいなさや後悔の思い、そして主を失った悲しみがペトロの中に渦巻き、もはや立っていることもできないほどに泣き崩れたのでありました。強い信仰を持っていると思っていた自分の弱さを徹底的に見せつけられました。

この時を同じくして、屋敷の中では、主イエスはご自身が神の子であることを告げました。それは十字架への道でありました。関係を否定したこのペトロのために主イエスは十字架へと歩まれた。ペトロはそのことを知るようになります。先ほど、「そして泣き続けた」としたいと申しましたのは、このギリシア語の時制が未完了形、つまりその後も続く形になっているからです。ペトロはこの自分の罪と弱さのために主イエスが十字架へと歩まれたことを知り、ペトロの涙は乾くことはなく、流した涙のような苦く、辛い悲しみを生涯持ち続けたのでありました。


■結び

そのように人間の弱さと罪を象徴するこの物語でありますが、始めにお話しましたように、この物語は教会において語り継がれ、大切にされてまいりました。それは、ここには神の大きな愛が示され、恵みが溢れ、祝福が示されているからです。

ゲッセマネへの道で、主イエスは弟子たちに、「あなたがたは皆わたしにつまずく。しかし、私は復活したのち、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」そう約束されました。

中庭で居合わせた人々はペトロに言いました。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」ペトロを責める言葉の中に、ペトロの原点、主イエスと出会い、召された場所、ガリラヤが示されていました。これを否定したペトロでありますけれども、同時にそれは主イエスの約束である救いの方向でもありました。復活した主イエスに出会ったペトロは、再びその信仰を回復し、そして教会の基となりました。そしてペトロはパレスチナ、小アジア、ローマで主イエスの福音を宣べ伝え続け、皇帝ネロの迫害の時、主イエスの証人として殉教の死を遂げました。中庭で人々の前で偽証した証人は、ローマ皇帝の前で主イエスの真の証人として立ったのです。光を逃れたペトロが、人々の光となって立ったのです。ペトロは自分自身を呪いましたが、その呪いは主イエスが十字架で引き受けてくださいました。十字架は赦しのしるしであります。主イエスは私たちを赦す光としてきてくださったからです。ペトロは赦しの光に照らされて、神の祝福の中を歩む者へと変えられたのであります。私たちも同じです。主イエスの赦しの光は常に私たちを導いてくださるのです。

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