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『偽りの祈りと真の献げ物』 2023年7月23日

説教題: 『偽りの祈りと真の献げ物』  聖書箇所: マルコによる福音書 12章38~44節 説教日: 2023年7月23日・聖霊降臨節第九主日 説教: 大石 茉莉 伝道師

■はじめに

このお読みしてきた12章は主イエスがエルサレムに入られて、十字架にお架かりになる数日前の出来事が記されておりました。律法学者、祭司長、長老、ヘロデ派、サドカイ派など、様々な人々との論争がありました。そして今日の御言葉はその神殿での論争に終止符が打たれるというところであります。この場面から先は、主イエスの十字架への道、主イエスの殺害の場面へと進んで行くのです。今日までお読みしてきたこの12章のいくつかの論争、28節から始まる「最も重要な掟」の最後には「もはや、あえて質問する者はなかった。」とあり、35節からの「ダビデの子についての問答」での最後には「大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。」とあります。つまり、そこにおりました群衆たちは、それまで指導者然としていた律法学者たちがいわばやり込められた形で、黙してしまった姿を見て、それまでの溜飲が下がったような思いをしたのでありました。群衆の中に少なからずそのような思いがあったのを主イエスは見ておられました。そして今日の御言葉が語られたのでありました。


■律法学者の姿

「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み・・・」とあります。主イエスはこれらの教えをだれにお語りになったのか、それは律法学者を見ている弟子たち、そしてそこにいた群衆に向けてお語りになったのでありました。先ず律法学者はどのような姿をしていたかと言えば、長い衣を着ていました。一般の人々が着るよりも裾の長いガウンを身に纏い広場などを歩き回っていました。本来、それは神の掟を教える者に求められていたものであったのでありましょう。神への捧げものとして傷のないものを捧げたように、神の言葉を語る者たちは、神の掟を重んじるという思いから、それぞれが自由気ままでよいのではなく、正装として求められた服装であったのであったのです。そのような服装をしていれば、人は丁寧に挨拶をするでありましょう。人は神に対する敬意をこめて、挨拶をするのです。そこに間違いはありません。しかし、どこかで間違っていくのです。なにかがおかしくなるのです。本来は、長い衣の服は、律法学者が神に仕える者であり、その身分を表すのに必要なものであったにもかかわらず、それが人に認めてもらうための勲章のような役割になってしまったのです。彼らはそれを権威ある者のステイタス・シンボルとしてのガウンにしてしまっていました。特別な「先生」として尊敬されて、挨拶されることを好み、逆に「先生」と呼ばない人があれば、自分に対して失礼であると怒ったりしていたというのです。

昔、「白い巨塔」という山崎豊子の小説がありました。皆様もご存知のことと思います。財前五郎という主人公である医師は、律法学者のように颯爽と白衣を着た姿を見られることを好み、自分を知らない人がいたら眉を顰め、皆が自分に頭を下げることは当たり前であり、人の命よりも自分の名誉が大切、という人間の欲に生きる姿が描かれていました。彼は人から頭を下げられることで、自分が偉い者であるかのように錯覚し、そのことによって自分の価値が決まる、自分に不可能はなく、神をも畏れない生き方をしていました。

律法学者たちもそれと同じように、自分の栄光を求めて、信仰をも自分のために使用するようなことになっていました。

40節には「やもめの家を食い物にし」とあります。律法学者は法学者でありますから、夫を失った寡婦のいわば法律顧問のようになって、その家の財産の管理について相談に乗っていたようであります。その際に、不当な利益を奪い取るような律法学者がいたことが主イエスによって指摘されています。


■見せかけの祈り

そして主イエスがここで最も指摘なさりたかったこと、それは律法学者の「見せかけの祈り」であります。この「見せかけの」という言葉は、元々は「人に見せる」「展示する」という言葉から来ております。ですから、本来の祈りではなく、人に見せるための祈りなのです。マタイによる福音書5章以下の山上の垂訓の中で主イエスはこう教えておられます。6章5節以下に「祈るときには」という小見出しで書かれております。「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。・・・あなたがたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」主イエスはこのようにはっきりと律法学者たちの偽善を指摘されておられます。同じマタイ6章では、施しをするときも、自分の行う善を人の前でしないようにしなさい。断食をするときにも、陰気な顔をするな、つまり、断食をして自分は大変なことをしている、と人に見せることをするな、と続けられております。ユダヤ人にとって、施し、祈り、そして断食はまさに信仰生活そのものでありました。しかし、そのどれをも人に見えないようにせよ。自分のやっていることを人に見せることで、自己満足に陥ることのないように、という戒めであります。祈りは神に向けられる、神さまへの働きかけであります。人に見せるための、人への働きかけとなるような祈りは、まさにデモンストレーション、展示、見せかけであります。


■レプトン銅貨2枚

この偽りの律法学者の祈りと対照させるかのように、一人の貧しいやもめのことが示されてまいります。主イエスを始め、弟子たちや人々がどこにいたのかということを振り返ってみますと、主イエスは神殿の境内におられました。宮清めの出来事から論争まで、その場所はいずれも神殿の境内においてなされてきたのでありました。エルサレム神殿の構造は以前にもお話しいたしましたけれども、その中心には「至聖所」があり、その外側には「聖所」があり、その外側には、ユダヤ人男性のみが入れる「イスラエルの男子の庭」と呼ばれる場所があり、さらに外側にユダヤ人女性のための「イスラエル女子の庭」がありました。そして更にその外側に、「異邦人の庭」がある、という形になっていました。主イエスは人々にお教えになるのに、神殿の境内でお座りになっておられ、そこから、「女子の庭」が見えたのでありましょう。そこには賽銭箱があって、人々がお金を入れる様子を見ることができました。どうやら当時は賽銭箱のところに祭司がおりまして、ひとりずつ、いくら入れるのかを尋ね、その目的も尋ねていたようです。そして帳簿をつけている人に聞こえるように、「誰々さんが、いくら、何のために献金しました」と大きな声で告げていたと言われています。日本の神社でも夏祭りの時などに、奉納金が金何千円、金何万円というように、その金額と共に名前が張り出ているのを見ることがあります。見る人は、誰々さんはこんなにしている、すごいな、と思ってみたりする。もちろん、真の信心、感謝からそれだけの金額をされている方もあるでしょうが、信仰的な気持ちよりも、見られることを前提とした義理と見栄によるものが多いようにも思います。

さて、大勢の金持ちはたくさんいれていた、と書かれております。入れた金額と名前が祭司によって、大きな声で告げられるのでありますから、金持ちはその見栄のために大判振る舞いをしたりもします。周りにいる人々からは、感嘆の声があがり、金持ちは得意顔で胸を張って出ていくのでありました。そこへ、ひとりの貧しいやもめがやってきたのです。彼女はレプトン銅貨2枚、つまり1クァドランスを入れたのであります。1クァドランスとはどのくらいの金額になるのでしょうか。聖書の巻末にいろいろな単位の換算表があります。それをみますと、レプトンは最小の銅貨で1デナリオンの128分の1。1デナリオンは1日働いてもらう賃金ということでありますから、彼女の入れた1クァドランスはかなり少額であったことがわかります。

月報の6月号に聖書に出てくるコインのことを書きました。そこにレプトン銅貨の写真を載せました。実際、私たちの日本円でも一円玉が一番小さいサイズであるように、このレプトン銅貨は12mm程度の大きさであるとありました。形もきちんと成型されていないようです。小銭であったことは明らかであります。

祭司が献金額を確認して、「誰々さん、いくらいくら」と告げるわけですから、やもめが1クァドランスを入れるのが読み上げられ、それを聞いた周囲の人々は、蔑んだような目を彼女に向けたことでしょう。声に出して報告する祭司も、金持ちに向けるのとは全く違う冷たい視線を送り、さっさと帰れと言わんばかりの態度をとったに違いないのです。


■献身のしるし

主イエスは弟子たちに言われました。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物すべて、生活費を全部入れたからである。」ここで主イエスが言われたのは、良い信仰者となるためには、持っているものすべて、生活費全部を賽銭箱に入れなさい、ということではもちろんありません。このやもめにしても、毎日毎日、自分の持っている全財産を献げたわけではありません。ここで「乏しい中から」と訳されておりますこの言葉は、わずかだが持っているという意味ではなく、欠けている、という意味の言葉です。ですから、自立できているというのではなく、誰かに頼らないと生きていけないということです。その頼る相手を神様に置いているということです。そして生活費と訳されておりますから、お金に直結して考えてしまいがちですが、この言葉は「人の一生」とか「その人の命そのもの」という意味でもあります。ですから、自分の生活そのもの、命そのものを神に委ねるということが言われているのです。主イエスは、このやもめが自分のすべてを神様に献げている、そのことに目を留められたのです。彼女は神の恵み、養い、そして導きに委ねて生きています。「有り余る中から入れた」と言われた人たちは、自分の生活は自分の力で守り、命含めた自分の生活の安全を自ら確保した上で、その残り、余ったものを入れたのでありました。しかし、彼女は神の恵みにすべてを委ねているのでありました。彼女は明日の生活を守ってくださる神の愛を信じており、その信頼には揺らぎがありません。同時に彼女はただ神にのみ目を向けています。律法学者の祈りが人の目のためのもの、金持ちの献金も人の目のための見せかけのものであるのに対して、彼女は神のまなざしの中で生きております。


■結び

私たちも感謝と献身のしるしとして礼拝の時に献げ物をいたします。時にお金に余裕がないから献金しなくてもよいと思う気持ちが生じることもあるかもしれません。しかし、主イエスは有り余るところから献げるものではない、と言われるのです。私たちは皆、神の愛なしには生きていくことのできない、欠けている者たちなのです。欠乏している私たちに、神が愛をくださる。私たちはそれを無尽蔵にいただくことができます。その愛への精一杯の思いをもってお献げするのが献金なのです。私たちの献げ物はいつも貧しいものであります。しかし、そこに私たちの全てをこめることはできます。献金はいただいているものから一部をお返しするのではなく、私たちの感謝と献身の思い全てをお捧げするものなのです。ですから問われるのは、その金額ではなく、そこに込められる愛、全財産と訳されております「私たちの命そのもの」が込められる時、神は喜んで受け入れてくださるのです。

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