説教題: 『健やかな関係に生きる』
聖書箇所: 旧約聖書 サムエル記下11:1-27
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書5:27-32
説教日: 2024年10月20日・聖霊降臨節第23主日
説教: 大石 茉莉 伝道師
■はじめに
「姦淫するな」出エジプト記20章に示され、旧約の民が守らなければならない律法として示された十戒の第7戒です。この戒めを主イエスがどう解釈しておられるのか、それが今日の御言葉です。前回の箇所にもありましたように、「あなたがたも聞いている通り、このように命じられている。」と旧約の教えに対比させて、「しかし、私は言っておく」と言われるのです。
前回の「殺すな」の戒めも、実際の行為のみならず、心の中で相手を否定することの問題が突きつけられていました。今回の「姦淫するな」も同じであります。実際にそのような行為をすることだけでなく、心の中のことが問われています。28節、「しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」当時のユダヤ人社会における姦淫の罪の規定はレビ記20章10節に記されています。「人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。」とあります。つまり、女性であれば、結婚ないし婚約しているにもかかわらず、夫ないし婚約者以外の男性と性的な関係を持つことを指し、男性であれば、すでに相手のいる女性と関係を持ち、他人の婚姻関係に割り込むことが姦淫でありました。当時のユダヤ社会で一夫多妻は当たり前でありましたから、相手となる女性が人のものでなければ、それは姦淫ではありませんでした。
■しかし、主イエスは・・・
しかし、主イエスは、「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」と言われました。それは夫婦の関係を壊すような行為だけが姦淫なのではなく、そのような思いを持つことが姦淫の罪を犯したことになるのだということです。新しい協会共同訳では少々訳が異なり、「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、」が「情欲を抱いて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのである」と「他人の妻」が「女」となっています。これは以前の口語訳でもそのようになっていましたので、こちらに戻ったということなのですが、さて、他人の妻だけでなく、女性誰でも、ということになりますと、世の男性方にとっては厳しいことでありまして、全ての方が姦淫の罪を犯していると言っても過言ではないと言えるのかもしれません。さて、女性をそのような目で見る、そのような性的な欲望が罪なのであろうか、と考えることになります。聖書では男女の性的な関係を罪であるとはしていません。むしろ、創世記2:24「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」とありますように、男と女は、違いを持った存在として造られ、互いに愛し合って生きるように造られたのです。この創世記の言葉は、夫婦というペアを土台としながらも、全ての人間関係において当てはまることであり、隣人を愛して生きていくということを示していると言えるでしょう。人間には誰もが食欲や性欲などがあります。それ自体が悪いわけではありません。しかし、それらに支配されるようになること、それが問題です。
既に共に読みましたこのマタイ4章に主イエスが誘惑をお受けになるところがありました。主イエスは40日間、断食をなさり、空腹でいらした。飢えておられました。悪魔は主イエスを誘惑しました。まさに食欲に関することでありました。その時、主イエスは「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」という申命記の御言葉を用いながら、神との関係に生きることによって満たされる、と言われたのでした。この自分は神に支配されている、そうして生きているのであって、欲に支配されるのではない、ということがここでも示されていました。
創世記にあるように、神に造られた夫婦としての男女、また、それ以外における人間関係も全て神に定められた秩序に則って、育まれていくべきものでありましょう。その秩序を忘れる時、自分の意のままにという欲望が勝る時、それはまさに犯罪へとエスカレートしていくのです。みだらな思いで「見る」ということは、たとえ実行に移さなくても、その思いにおいて、自分ものにしてしまおう、自分の情欲を満たそうと考えるということであり、それは目から始まる、見ることにおいて既にその罪が始まる、と主イエスは言われるのです。
■ウリヤの妻/バト・シェバ
今日、共にお読みしました旧約聖書、とても有名な箇所であり、既に共に読みましたマタイ1章の主イエスの系図、6節後半、「ダビデがウリヤの妻によってソロモンをもうけ」と記されているまさにその出来事です。サムエル記下11:2「ある日の夕暮れに、ダビデは午睡から起きて、王宮の屋上を散歩していた。彼は屋上から、一人の女が水を浴びているのを目に留めた。女は大層美しかった。」まさに「目に留めた」ことから全てが始まりました。ダビデはこうして部下の妻バト・シェバに目を留め、既に人の妻であることを承知の上、関係を持って自分のものにしたのです。これは明らかに姦淫の罪です。さらに子を宿したことを聞き、姦淫の罪を隠蔽しようとします。さらに夫であるウリヤを戦場でわざと死なせたのです。ダビデは自分の欲望の故に、姦淫の罪のみならず、殺人までも犯したのです。罪はこうしてエスカレートしました。目に留めて、手を出した。主イエスは29節30節で、右の目が、右の手が、と言っておられますけれど、右・左と二つある目や手のより大切な方をという強調の意味で言っておられるのでしょう。それを抉り出してでも、切り取って捨ててしまってでも躓くな、ということの強調であります。それは自分のためではありません。殺すことも姦淫することも、またこの後に記される離縁することも、自分一人のことではないのです。いずれも相手があることです。相手のために、相手と共に、神が定められた関係に生きるために、愛の関係を保つために、自分の妻のために、自分の夫のために、あるいは隣人のために、自分を犠牲にする用意があるか、ということを問うておられるのです。最初に引用しましたレビ記の姦淫に関する規定を今一度お読みしますと、「人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。」であります。つまり、この相手との関係があって成立する罪は、それを犯した人だけでなく、相手をも罪に引き入れる、ということです。これが罪の恐ろしさです。ダビデとバト・シェバの話に戻りましても、当然ながら、この関係において悪いのはダビデでありましょう。バト・シェバは王であるダビデに対して無力であったでありましょうし、このような力関係は現代における男女の性的な問題にも当てはまると言えましょう。しかし、一人の身勝手な欲望はその人だけの罪にとどまらず、相手にも罪を犯させるのです。このことをよく心に留めるべきでありましょう。
■離縁に関する規定
31節からは離縁に関する規定が示されています。申命記24:1にはこのようにあります。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」当時の社会においては、離婚は夫の方からのみできることでした。問題なのは、「妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、」という文言です。これをどのように理解するかについては、当時の律法学者たちは様々な解釈をしたと言われています。「気に入らなくなったとき」というのを、自分を満足させることができない時、というように解釈しますと、料理が不味かったというようなことでも離縁できたというのです。当然ながら、当時の律法学者は男性だけでありますから、このような男性の身勝手がまかり通るような解釈まで生まれても不思議ではありません。なんと差別的と感じますが、ただ、この離縁状というのは女性を守るためのものでもありました。当時の社会においては、女性は男性に帰属するものでありましたから、それを持っていない女性が、男性と関係を持った場合、姦淫の罪に問われるということです。それを持っていることによって、別の男性と再婚することができる、つまり、この離縁状は独身証明書としての機能を果たすものであったのです。当時のイスラエルにはそのような制度があったわけですが、主イエスはそのことをも問題とされました。「不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
これを前半とのつながりで読みませば、淫らな行いをした、夫を裏切って別の男性と関係を持った、という姦淫の罪を犯したことにより、ということであり、主イエスが語られた意味はそのように夫婦としての関係、また、それ以外の人を含むその関係を大切にされたということが示されているわけです。既にお話ししましたように、そのような罪はその人のみならず、相手にも同様の罪を犯させるのです。
■赦しの眼差し
前回の「殺すな」でもお話しいたしましたが、主イエスの教えは禁止命令ではなく、積極的に生きるため、愛に生きるための命令です。私たちを罰するためではありません。ヨハネ8章3節以下に姦淫の罪で捕らえられた女が出て参ります。律法学者たちは、モーセはこのような女性は石で打ち殺せ、と命じています、どのようにしましょうか」と主イエスを試したのでした。主イエスは言われました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい。」結局、一人、一人と去っていき、主イエスと女性だけになったのでした。主イエスはこの女性に言われました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。もう罪を犯してはならない。」罪を犯したことのない主イエスが、この女性を罪に定めず、姦通の罪を犯した女性を赦されたのです。赦された者として生きることを望まれました。主イエスの愛の赦しの眼差しのもとにこの女性は置かれており、もう一度歩んでご覧なさい、と主は言われたのです。私たちもこの女性と同じではないでしょうか。神に従って歩めず、罪を繰り返す。しかし、私たちは毎週の主日、礼拝において、罪の告白をし、そして神の赦しをいただく。そして今一度、私たちをそれぞれの場に送り出してくださる。それが私たちの信仰の歩みなのではないでしょうか。
■結び
旧約聖書において、「姦淫の女・背神の女」は、偶像崇拝に陥り、別の神を拝むイスラエルの比喩として用いられています。例えば、エレミヤ書3章6節以下、また、ホセア書は預言者ホセアと淫行の女性ゴメルの夫婦の関係を神とイスラエルの関係になぞらえて偶像崇拝、バアルの神を拝むイスラエルの罪を告発しています。神がイスラエルを選び、そしてエジプトの奴隷から救い出して、ただ自分との関係に生きるように、と言ってくださったにも関わらず、イスラエルの王たちはその多くが神から離れたのです。そしてそのような背きにも関わらず、神は愛し、慈しみを注ぎ続けてくださいました。そしてそれは、新約聖書において、主イエス・キリストと私たちの関係へと引き継がれています。神の愛、キリストの愛の眼差しのもとに私たちが置かれていることに気づかされます。「姦淫してはならない」、私たちを決して裏切ることのない、神を信頼し、神に従って歩んで行きたいと思います。それは家族や隣人と健やかな関係に生きることに他なりません。
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