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『信仰者パウロの誇り』 2024年6月16日

説教題: 『信仰者パウロの誇り』

聖書箇所: エレミヤ書9:22-23(旧1194ページ)

聖書箇所: 新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙6:11−19

説教日: 2024年6月16日・聖霊降臨節第5主日

説教:大石 茉莉 伝道師


はじめに

2024年の1月からこのガラテヤ書を共に読んでまいりましたが、今日のこの箇所で最後になります。これは手紙でありますから、手紙の最後には締めくくりの意味での目的、結論というようなことが書かれます。当時の慣習では、代筆者が手紙の大部分を筆記して、最後の部分を筆者が自筆で書くということが普通であったようです。今日の始まり11節には、「わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。」と記されています。「大きな字で」とわざわざパウロが書きますのは、当然のことながら意味があります。パウロは目が悪かったから、というようなことも言われたりしますが、これはそのようなことではなく、この最後の結びの言葉の重要性を示すものでありましょう。さながら現代のパソコンで言ったら、太字による強調とでもいうところでありましょう。

 

■偽りの誇り

12節、13節において、パウロはこのガラテヤ書の始まりから問題としてきましたパウロの反対者たちが人々に割礼を受けさせようとしている、その動機と問題点を明らかにいたします。パウロは彼らの行動の3つの問題点を指摘しています。一つ目、彼らは「肉において人からよく思われたがっている」と言います。「人からよく思われたがっている」という言葉は、「見掛け倒しの」という意味を持つ言葉であり、つまり見栄を張っている、ということであります。二つ目、彼らは「キリストの十字架ゆえに迫害を避けている。」三つ目に、割礼を授けた人の肉を誇っている。というのです。一つ目の「肉において見栄を張っている」というのと、三つ目の「割礼を授けた人の肉を誇る」というのは同じことを指しています。つまり、ユダヤ人である彼らが異邦人に割礼を施す、ということは彼らの論理から言うと、ユダヤ教徒を一人獲得した、と言うことになりますから、さながら営業成績のようなものであります。数が大事なのです。相手がその後どのように律法を守る生活を送っているかは問題ではないのです。パウロは割礼の問題が宗教的な救いの問題ではなく、彼らのそのような不純な動機によっていることを見抜いて、人間的な見栄である、と指摘しているのです。彼らは自分たちも律法を守っていない、とさえパウロは指摘しています。この人たちは、人間的な成功を求めているのであって、人からよく見られるという外側のことに一生懸命になっている人たちである、という指摘です。そして、この人たちに対する第二の点、「キリストの十字架ゆえに迫害を避けている」というのは、自己防衛のためであることを指摘します。割礼を受けたユダヤ人にとっては、割礼を受けていない異邦人は汚れでありましたから、関わることを禁止されていました。関わりを持つこと、つまり、異邦人と食事を共にしたりするようなユダヤ人は、同族への裏切りであり、かつ、神への冒涜であるとして迫害を受けました。異邦人と関わりながら迫害を受けないためには、割礼を受けるよう勧めるという目的がなければならなかったのです。ですから、彼らは、福音を語りつつ、割礼を施すという折衷案を考えだしたわけです。割礼を勧める、施す、ということで迫害を受けず、むしろ、ユダヤ教徒獲得成績向上という一石二鳥となるわけです。しかし、それは到底、福音とは言えないものであります。これらの彼らの矛盾をパウロは手紙の最後で暴露しているのです。

 

■パウロの誇り

「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。

そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」これはフィリピの信徒への手紙3章5節以下の有名な御言葉であります。パウロはこのようにユダヤ人として誇れるものがたくさんありました。しかし、キリストとの出会いによってパウロはそれらのユダヤ的な誇りは一切いらないもの、塵あくたになったのです。ユダヤ人たちが割礼を誇りとしていたのに対して、パウロもかつては自分もユダヤ人であること、それだけで優っているかのように誇っていたけれども、今、自分が誇るのは「主イエス・キリストの十字架」であり、それ以外に誇るものはない、あってはならない、と言います。当時のローマにおいて、十字架による処刑というのは極刑でありましたから、十字架には嫌悪の感情があるのみでした。ですから人々は十字架で処刑された者と関係があるなどということは避けたいこと、否定したいことであり、見るのも聞くのもおぞましいというようなものでした。ですから、それを誇る、それ以外には誇らない、というこのパウロの言葉は、全てのものに優先する信仰告白の言葉であるのです。私たちもこのように力強く告白できるでしょうか。私たちは何を誇りとするでしょうか。人間は、自分の知恵、自分の名誉、自分の富、業績、成功、そしてまた、自分の強さや、美しさなどなど、そうしたものを誇るのが常であります。しかし、今日、お読みいただいたエレミヤ書9:23で、「わたしを知ることを誇れ」と神は言われます。「わたしを知る」これは知恵や富、名誉などの代わりに「わたし、つまり神を知っている、信じている」ことを誇れ、と言っているのではありません。もしそうであったとしたら、誇る主体はあくまでも自分ということになります。そうではなく、このわたしの中に神がいてくださること、神がこのわたしに慈しみと正義と恵みの御業を行ってくださること、このことを誇れ、というのです。パウロに敵対する者たちは、人からどのように見られるか、人の評価を自分の誇りとしていたのです。そのようなコロコロ変わるものに価値を置くのではなく、絶対的に変わらない神の慈しみ、恵みが注がれていることに価値をおき、それを感謝とともに誇りとすべきである、とパウロはいうのです。人がそのように生きることを神が喜ばれる、ということです。14節後半には「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」とあります。キリストの十字架を誇るということは、キリストの十字架の体験に倣うことです。主イエスは世において十字架刑に処せられました。この裁きの苦しみをその身に受けられました。これはこの世がキリストを拒否したということであり、私たち人間がキリストを拒否して処罰したということであります。それは何を意味するかといえば、この世はキリストを処罰したが、その責任を受けて、この世は全能の神の処罰を受けるということです。さらにはこの世、世界という言葉は古い秩序を意味しています。この神に敵対する古い秩序はキリストの十字架により、新しくされたと言います。かつての自分が大切にしていた古い秩序、それはもはや全く必要ないものになったのだ、とパウロは言うのです。

 

■新しい創造

そのようにキリストの十字架に依り頼む者には何が与えられるのか、それをパウロは15節で新しい創造である、と言っています。そもそも人間は創世記1章にあるように、神の天地創造の御業による恵みによって創造されました。良きものとして創造された人間でしたが、神から離れた人間はその後、罪の中に生きることとなり、神の祝福を失うこととなりました。旧約の時代も神は背くイスラエルの民たちに何度も、わたしの元に立ち帰れ、と預言者を通して語られたのでした。そうして神は主イエスをこの世に送られ、決定的な救済の形として十字架をお定めになりました。ですから、この主イエス・キリストを救い主とする者たちは再び神の祝福のうちを歩むことになります。それは神によって創造された人間が、再び神に立ち帰り、新たに生きる者とされる。それはまさに再創造の御業、新しい創造であるのです。罪の赦しのみならず、新しく造り変えられた者たち、キリスト者は、霊の導きによって、霊の実を結ぶ者とされるのです。主イエスに倣う者として、主イエスの律法「隣人を愛する」と言う愛の律法に生きる者とされる、そのような道を歩むのだ、とパウロは言います。それゆえ、割礼を受けているか、受けていないかなどということはどちらでも良いことなのだと。

私たちは洗礼によって、キリストの焼き印というしるしを押された者となっています。パウロはコリントの信徒への手紙Ⅱ5章17節で「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。」と言っています。ですから私たちは、洗礼によってキリストに結ばれ、それはすでに新しい創造が始まっている、ということなのです。そして大切なことは、この新しい創造の場はこの世であるということです。聖なる者とされた私たちは、神がどこかにお造りになった聖なる場所へ移されるというのではありません。神の創造はこの地上、この世の只中で起こっているのです。ですから私たちはこの世において、神のお定めになったその時まで生きていく責任があるということであり、そしてキリストから受ける霊を受け止める姿勢を求められているということでしょう。ガラテヤの人々のように、信仰への迷い、惑わしは十字架以外に誇りを持つことから始まります。聖霊によって新しくされ、その命に生かされているということ以外に、自分の力でしたこと、また、成しうる可能性に、拠り所を作ったとしたら、私たちはすぐに高ぶり、驕り、傲慢・・・という肉の業に支配されたところに身をおくことになるのです。ですから、そうならないためには緊張感が求められているとも言えるでありましょう。しかし、決してそれは無理強いされたものではなく、むしろ喜びのうちに、キリストとの交わりを持つ中に見出されるのです。そのように、ただ謙虚にキリストを仰ぐ、そうしていれば、聖霊は実を結び、愛を基礎においた行いへと私たちを向かわせるのです。

 

■結び

さて、それでは私たちは具体的にどうしたら良いのでしょうか。日常生活において、私たちがなすべきこと、それが具体的に、シンプルに示されている言葉があります。それは前回、共にお読みした6章9節。「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。」このガラテヤ書では、パウロは割礼という生活における問題を非常に神学的に分析し、説得すべく語ってきました。それに対して、ここに示されている言葉は、生活訓とでも言えるような具体的な誰にでもわかる言葉です。しかし、「たゆまず善を行う。」これは簡単なようでいて、実は難しいことでありましょう。善、良きことを行い続けていると、それに対する報いが欲しくなります。誰かからの褒め言葉とか、具体的な報酬とか。それがないままやっていると我慢ができなくなってくるのです、なんだか虚しいような、馬鹿馬鹿しいような気がしてきて、持ち堪えられなくなるのです。辛抱しきれなくなって、誘惑へと引きずられていくのです。しかし、その時こそ、主が見ていてくださる、ということを思い出すべきでありましょう。「時がくれば」とあります。時は私たちが決めるのではなく、神がお定めになるものであります。ですから、私たちはただたゆみなく、飽くことなく励むのであります。

パウロは17節では、「これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。」と書いています。もうこの手紙で言いたいことは全て語った、この手紙によりあなたがたがキリストの福音へと立ち帰ってくれることを信じる。この問題で再び、手紙を書くことはない、というパウロの信頼を表す表現であろうと思います。そして最後には豊かな祝福の言葉で締めくくられています。「兄弟たち、私たちの主イエス・キリストの恵みがあなたがたの霊と共にあるように。アーメン。」激しい戦いの手紙として書き始められたこのガラテヤの人々への手紙でありますが、最後にはこうしてガラテヤの信徒、一人一人に心を込め、愛を込めて祈っております。この祈りは今の私たちのための祈りでもあります。このガラテヤの手紙から、わたしたちは伝道者パウロ、キリストにあって、ただキリストを誇って生きた信仰者パウロの熱い想いと愛を受け取ることができることに感謝いたします。

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