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『信仰の実を実らせよ』 2023年6月4日

説教題: 『信仰の実を実らせよ』 聖書箇所: マルコによる福音書 11章12~25節 説教日: 2023年6月4日・聖霊降臨節第二主日 説教: 大石 茉莉 伝道師

■はじめに

前々回ともに聴きましたマルコによる福音書11章の始まりには、とうとう主イエスがエルサレムへ入城なさったことが記されておりました。そして今日は12節から25節と、少し長い箇所になります。お分かりになりますように、12節から14節に「いちじくの木」のことが出てまいりまして、15節から19節には主イエスによる「宮清め」と言われる出来事が記され、そして20節から再びそのいちじくのことが出てまいります。小見出しでは「いちじくの木を呪う」「神殿から商人を追い出す」「枯れたいちじくの教訓」と3つに分かれております。しかしながら、この宮清めの出来事がいちじくによってサンドウィッチされているのが、見てお分かりいただけることと思います。そしてそのような構造になっているのは、二つのモチーフには関係があるからでありましょう。今日のこの箇所をお聞きになって、ちんぷんかんぷんな印象を持たれた方、そして主イエスに傍若無人な印象を持たれた方、それは極めて普通な感想・印象だと思います。理解に難しいと言われるこの箇所において、主イエスがお話になりたかったつながりを、そしてその意味を共に見てまいりましょう。


■枯れたいちじく

「いちじくとかけて、何ととく、そのこころは」・・・とまるでなぞかけの言葉遊びのようです。少しずつ謎を解いていかなければなりません。まず、そのいちじくについての顛末をおさえておきましょう。主イエスと弟子たちの一行はエルサレムに入られて、夜はベタニアにお泊りになりました。そして翌日のことです。そのベタニアでいちじくの木を主イエスはご覧になりました。葉が茂っているいちじくでありましたが、実はなっておりませんでした。「いちじくの季節ではなかったからである」と記されています。いちじくの実はいつごろ実るのかといいますと、通常は8月から10月ごろが一番の収穫時、そして5月から6月ごろにも早熟のものがとれるそうであります。今、主イエスたちは過越しの祭りを迎えようという頃でありますから、その時期は4月ごろということになります。ですから、いちじくの実のなる季節ではなかったのです。主イエスは十分にそれをご存知でありましたが、実のないいちじくの木をご覧になり、その木に向かって「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われ、そしてそれを弟子たちは聞いていました。そして後半の20節に続きます。その翌朝、そこを通りますと、そのいちじくが根元から枯れていました。ペトロはそれを見て、「先生、ご覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が枯れています。」と言ったのでありました。さて、主イエスはどうしてそのようなことをおっしゃったのか、そしてどうしてそのいちじくが枯れてしまったのか。私たちには疑問ばかりです。空腹でおられたからと言って、いちじくに向かって感情的な怒りをぶつけるなんて、主イエスはどうされたのでしょう。また、実をつける時期でないのですから、そのような無茶な要求をされることも不思議です。さて、この主イエスの怒りといちじくが枯れたこと、このことをこの部分だけで理解することはできません。このことを理解するためには、間に挟まれた「宮清め」と言われる15節から18節に記された出来事のことを見てみましょう。


■神殿のしくみ

主イエス一行はエルサレムにいらして、神殿の境内に入られました。そしてすぐに、そこにいた商人や両替人を追い出されました。ここでも主イエスが怒りを爆発させる様子が見えてまいります。主イエスは何に対してこれだけの怒りを向けられたのでしょうか。ここに直接に記されておりますのは、両替人、そして鳩を売る人です。神殿の境内で商売をしていた人々のことが記されています。この人たちは何のためにいたのか、そしてこの場所はどのような場所だったのか、ということから紐解いてまいりましょう。この神殿の境内といいますのは、神殿の一番外側にある「異邦人の庭」と呼ばれるところです。エルサレム神殿の中心には「至聖所」があり、ここは年に一度、大祭司だけが入ることができます。その外側には「聖所」があり、そこは祭司が入れるところです。続いてその外側には、「イスラエルの男子の庭」と呼ばれる場所があり、ここは文字通り、ユダヤ人男性だけが入れるところ、そしてその外側に「イスラエル女子の庭」と言われるユダヤ人女性が入れるようになっていました。更にその外側に、「異邦人の庭」があり、ユダヤ人と異邦人の境目は柵で仕切られていました。そして外国人にわかるように、「ユダヤ人以外の異民族は何人たりとも、この柵、垣根の内部に入ることは許されない」と外国人に分かるように、ギリシア語とラテン語で書かれていました。そのようにユダヤ人か異邦人かで明確に区切られ、異邦人が祈りを捧げるための庭で両替が行われ、鳩が売られていました。神殿での礼拝には捧げもの、動物の犠牲が必要でした。それも傷のない動物でなければなりませんでした。牛や羊などが理想でありましょうが、遠くから巡礼に来る人々にとって、傷のないまま連れてくるのは大変なことです。そのため、神殿では、ここで動物を買い、捧げることができるように、そのような店が開かれていました。鳩は牛や羊などの大きな動物を買う余裕のない人々のために捧げ物として認められていたものでした。また、神殿への献金も義務とされていましたが、献金は古いユダヤの貨幣を使うことになっていました。当時流通していたのは、ローマの貨幣でありましたから、献金用に両替しなければならなかったのです。そのために両替商と言われる人がいたということなのです。ですから、礼拝を捧げる人々のためには、鳩を売る人も両替商も必要でありました。


■強盗の巣

主イエスはそのように礼拝を捧げる人たちのために便宜を図っている鳩売りや両替商の台や椅子をひっくり返されて、そしてこう言われました。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたがたは、それを強盗の巣にしてしまった。」神殿が強盗の巣と化している、と言われました。ここで引用されたのはイザヤ書56章7節の御言葉です。「すべての国の人の祈りの家」つまり、異邦人も神のもとに来て、礼拝し祈りを捧げる、そのことを神は願い、すべての国の人を招いておられるのです。先ほど神殿の仕組みをお話しましたように、異邦人は一番外側のエリアまでしか入れません。そこが礼拝を捧げる聖なる場所であります。それにもかかわらず、神に選ばれた民と自負するユダヤ人たちは自分たちが正しい礼拝を捧げることしか考えておらず、そのために異邦人の礼拝と祈りを妨げ、奪っているのです。主イエスの怒りはそこにありました。この「強盗の巣」という表現はエレミヤ書7章に見られる表現です。神殿とはどのような場であり、どのような心で臨むべきなのか、ということが

示されています。「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダヤの人々よ、皆、主の言葉を聞け。(中略)主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。(中略)私の名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目には強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。」1節から11節までの一部をお読みしました。

神殿は本来、すべての人の祈りの場であり、信仰の実りを願い求め、そして神からの実りをいただける場なのです。主イエスは「境内を通ってものを運ぶこともお許しにならなかった。」とありますように、神殿は神聖な場であることもこうして厳しく示されて、神殿における真の礼拝を回復されようとなさいました。この宮清めの出来事は、主イエスによる神の民の清め、心の清めが必要であることが示されているのです。


■いちじくとエルサレム神殿

さて、ここで再び、いちじくの話に戻り、実のないいちじくと、今見てまいりました宮清めとの関係を見てみましょう。旧約聖書において、ぶどうといちじくはイスラエルにたとえられ、イスラエルの民を象徴しております。詩編105編33節にもこのようにあります。「主はぶどうといちじくを打ち、国中の木を折られた。」民が背く時、主なる神が怒り、裁きを下される時、いちじくの木を折り、砕くのです。主イエスは空腹を覚え、飢えを覚えて、いちじくの木をご覧になりました。葉は豊かに茂っていたけれども、実はありませんでした。エルサレム神殿も見掛けは立派に見えましたが、実は得られない、信仰の実はないものとなっていました。主イエスはエルサレム神殿のあり方、礼拝のあり方が、実のないいちじくである、となぞらえておられるのです。本来、民が飢えを覚え、渇きを覚えて、神を求め礼拝する時、それは必ず信仰の実が与えられ、飢え渇きが満たされるはずなのです。それがないことに深く失望され、そして怒りを覚えられました。主イエスがエルサレムにこられたのは、メシアとして、イスラエルの民の王として、まさに神殿の主として来られたのであります。ですから、いちじくの木に対する主イエスの呪いは、イスラエルの民に対する神の裁きの予告であったのです。ですから、正されるべきいちじくの木は「根元から」枯れたのでありました。少し先取りになりますが、主イエスが十字架にかかられて死を迎えられた時、マルコによる福音書15章38節、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」と記されております。神の裁きはまさにここで下されることになるのです。


■結び

主イエスはこのようにして神の裁きの予告を、いちじくの木を用いて弟子たちにお示しになられましたが、それは怒りと悲しみを伴っておられました。本来は豊かな実を結ぶ神の国の実現を目指しておられたからです。だから、それゆえに、主イエスは言われるのです。22節、「神を信じなさい。」弟子たちに向けて、神への信頼、神への信仰を促しておられます。このいちじくの木のように、エルサレム神殿のように、呪われ、破壊されるのではなく、信仰の実を実らせよ、と言われるのです。呪いはガラテヤ書3章13節「木にかけられた者は皆呪われている。」とありますように、主イエスご自身が十字架でお引き受けくださったのです。

この信仰の実は祈りと赦しによって豊かなものとなります。私たちにとって、神との正しい関係は信仰の基本であります。そのためには祈り求めなさい。そのようにして神との正しい関係を保ち続けなさい。神との正しい関係とは、神によって私たちそれぞれの罪が赦されていることに始まり、そしてそのような垂直の関係が、隣人への水平の関係へと広がっていくのだ、と弟子たちに、私たちに示して下さっているのです。

最後にコリントの信徒への手紙Ⅰ6章19節、20節をお読みします。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現わしなさい。」主イエス・十字架というあまりに大きな代価によって私たちは神の神殿となっています。主イエスにつながり、祈り、赦しを願うことで信仰の実が実り続けますように。


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