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『信仰のまなざし』 2025年2月16日

  • NEDU Church
  • 2月17日
  • 読了時間: 10分

説教題: 『信仰のまなざし』

聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書43:1-7

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書6:25-34

説教日: 2025年2月16日・降誕節第8主日

説教: 大石 茉莉 牧師

 

はじめに

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また、自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。」主イエスはこのように言われます。これを聞いて、どうでしょうか、はいそうですね、と納得できるでしょうか。おそらく多くの方が、とは言ってもね・・・というように思われるのではないでしょうか。私たちは実に多くの思い悩みを抱えて生きております。この新共同訳聖書では、「思い悩むな」と訳されておりますけれども、以前の口語訳、また新しい協会共同訳では「思い煩うな」となっております。この「思い煩うな」、「思い悩むな」という言葉が25節に2回、27節、28節、31節、そして34節に2回、と何度も繰り返して使われていることに気づきます。しつこいぐらいに主イエスが繰り返し教えておられるということです。この「思い煩い」とは人間の心の奥底深くに抱く心配や懸念、悩みなどを指す言葉です。

 

■思い煩い

自分の命のことで思い悩む、というのが私たちの現実の姿と言えるのでありましょうが、この「命」と訳されている言葉は、「魂」とも訳せる言葉です。この魂という言葉の意味するところは、人間の存在全体を意味しています。創世記2章7節に、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」と記されているように、まさに、生きる者の意味での命です。ですから、私たちが思い悩むとき、私たちの魂そのもの、存在全体がそのことに占められているということを意味しているのです。体とあるのは、この命を維持するための器官という意味でありましょう。命、体が大切であるから、食べる、また着るということであり、この命、体を造ってくださったのが神なのですから、それを維持するのも神が備えてくださるはずではないか、ということが言われているのです。実際、私たちがどれだけ自分のことに思い悩んだとしても、寿命をわずかでも延ばすことができようか、と主イエスは誰もが納得する真理を語られます。私たちの命を支配しておられるのは、神なのです。ヨブが「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」とヨブ記1章21節で言いましたように、その財産や子供たちが失われた時にも、それら全ては神から与えられたものであり、神がそれらを取り去る自由を持っておられるのだから、と主をほめたたえましたのでした。私たちの命、そして持てるもの全てが主のものであるということを私たちはどれだけ理解しているでしょうか。頭ではわかっていても、自分の体が自分のものであるという前提に立つからこそ、思い悩むのではないでしょうか。誰でも、どれだけ親切に相手のことを思う人であったとしても、人様のことで思い悩むでしょうか。心配することはあっても、どこか自分とは切り離して考えていることでしょう。自分の思い通りにならないのだし、その人がなんとかしていくしかない、というような理由です。つまり、自分のことではないからです。私たちがそうやって他の人のことを切り離して考えるように、自分のことも切り離してみたら良いのです。神がその本来の所有者であられますから、神がなんとかしてくださるであろうということです。

 

■空の鳥

26節では「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしないのに、天の父は鳥を養っておられる。あなたがたは鳥よりも価値のあるものではないか。」また、「野の花がどのように育つのか、注意してみなさい。働きもせず、紡ぎもしない。」と鳥と花のことを主イエスは話されました。「よく見なさい」、「注意してみなさい」と言っておられます。他の聖書箇所では、「じっと見つめる」というような訳で使われることの多い言葉です。また、主イエスが弟子たちを見つめる時によく使われています。つまり、主イエスの目で見る、信仰の目で見るということが求められているのです。信仰の目で見るとはどういうことでしょうか?私たちが自分のことを思い煩っている時、私たちはどこを見ているでしょうか。当然ながら、自分の見える範囲、そしてそれは狭い視野になっています。まさに自分のことしか見えていない、そういった状況です。さて、このマタイ6章は山上の説教です。今、主イエスはガリラヤ湖近くの小高い丘におられます。弟子たちや主イエスに従ってきた群衆がその周りを取り囲んでいます。そして主イエスは様々な教えを語ってこられました。そのような場面設定で、この鳥と花の教えが語られました。「空の鳥をよく見なさい」主イエスがそのように言われた時、主イエスを取り囲む人々は一斉に上を見たことでしょう。実際に鳥が飛んでいます。大きな鳥もいたでしょうし、そしてスズメのような小さな鳥もいます。餌を得て雛に運んでいる鳥もいたかもしれません。鳥たちは刈り入れるために種蒔きをしたわけではありません。それでもこうして餌が与えられている、それは神の養いであるということです。主イエスが「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。」そう言われた時、人々は一斉に足元を見たことでしょう。何種類の花があることでしょうか。雑草という名前の草はない、と言われますけれども、本当に数えきれない草花の種類があります。堂々と咲く花もあれば、可憐に小さな一輪を咲かせる花もあります。私も散歩が好きなので、よくあちらこちら歩き回り、花の写真をよく撮ります。今のこの時期、様々な花が開き始める時期です。梅や早咲きの桜、そして自生の水仙も咲いていますし、名前も知らない花もあります。鳥、花、私たちはこの一語で一括りにしますけれども、鳥類は現存しているだけで1万種類、花の種類は20万種類、いずれも推定です、実際にはもっと多いことでしょう。それらを創られたのは神なのです。20万種類もの花を一つ一つ姿形を変えてお造りになり、養い続けておられる神様がご自分の似姿に作った人間を養わないなどということはない、ということに目を向けなさい、と主イエスは言っておられるのです。鳥も花もただ神によって養われ、生かされ、花を咲かす。その全てを委ね、日々の生を生きる。この生き方は喜びに満ちています。私たちはこの姿から喜びに生きる生き方を学ぶことができるでありましょう。これが信仰のまなざしで見るということです。創世記1:26「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』」私たちは管理人として神から鳥や花を託されている者たちなのです。主人である神は管理人を大切にしてくださいます。なぜならば管理人がダメになってしまったら、管理を任せているもの全てがダメになってしまうからです。「まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。」主イエスがこう言われたのは、そのような理由からです。

 

■薄い信仰

主イエスは言われました「信仰の薄い者たちよ。」信仰が薄い、というのはどういうことでしょうか。原文を見て見ますと、オリゴピスティスという言葉が使われています。ギリシア語は知らなくとも、オリゴという言葉はお聞きになったことがあると思います。ギリシア語では少ないという意味です。皆様がよく知っている言葉としては、オリゴ糖というものがあります。これは結合している糖の数が少ないゆえに、オリゴ糖と呼ばれるわけです。シンプルで単純な結合を表しています。さて、信仰の薄いと訳されるこの言葉は、オリゴピスティス、そのまま直訳しますと「小さい、少ない信仰」ということになります。信仰がないわけではないのです、あるのですけれども、小さい、少ない。オリゴ糖のように、シンプル、単純な結合状態である信仰です。つまり、主イエスが空の鳥を見なさい、野の花を見なさい、と言われたように、多角的に神を捉えることができておらず、自分だけの単純な信仰になっているということです。私たちは神の力、神の権威の大きさをどれだけ理解しているでしょうか。自分だけの視点で考え、物事に思い煩っている時、現実の力と神の力を比較して、神を小さく、つまり現実の力の方が大きいと考え、立ちすくんでしまうのです。しかし、神は天地の創り主であられ、そして主権者であられます。神にできないことはありません。私たちの信仰が小さい、とは、それは神の力をみくびって、私たちが神を小さくしているということなのです。

 

■神の国と神の義

主イエスは思い悩みを取り除くために二つのことを求めよ、と言われました。一つ目は神の国を求めること。少し前、私たちは主イエスがこのように祈りなさいと言われた主の祈りから共に聴きましたように、御国が来ますようにと求める祈りであります。それは主イエスが来てくださったことですでにもたらされたものであることを信じるものであるのと同時に、再び主イエスが来てくださることを願う祈りであります。ですから、それはいつか来てほしい希望を祈るのではなく、今、すでに私たちが神の国に置かれており、神の恵みが与えられ、神の慰めが与えられていることを知る祈りでもあります。さらには私たちが御心を成していくことができますように、と祈る祈りでもあります。それが神の国の実現、神の国の支配がこの地になることに他なりません。そして御心がなりますように、と心からの祈りをゲッセマネで捧げた主イエスに従い続けることができるよう求めることでもあります。

二つ目は、神の義を求めなさい、ということです。神の義、それはこのマタイ福音書の5章の山上の説教からの中心テーマです。義に飢え渇く人々は幸い。その人たちは満たされる。私たち自身が神から離れた生き方をしていたことに気づいた時、神から離れるという罪は誰のせいでもなく自分自身によることを自覚した時、私たちはただ神の赦しと憐れみの働きを求める以外にないのです。それが義に飢え渇くということであり、そしてその時、私たちは神によって満たしていただくことができるのです。これが神の恵みであり、神の憐れみ、慈しみです。そのようにして与えられた神との正しい関係に生きることを求めてゆく生き方、それが神の義を求めるということです。私たちの主人は神であり、神のご支配のもと、私たちが神と良い関係にある時、私たちの命と体は神によって支えられ、そして養われます。ですから、思い悩むことなく生きるとは、神の国と神の義を求めて生きることによって与えられるのです。

 

■結び

この「思い悩むな」という教えは、言い換えれば、神が「私を信頼しなさい」と言っておられるということです。天の父である神を信頼して生きることを求めているのです。神を信頼するのか、この世の物質的な何かを頼りにするのか、どちらなのか、と言っておられるということです。今日お読みしたイザヤ書43:4にはこうありました。「わたしの目にあなたは値高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え」私たちそれぞれの命は、神の目にとても重いものなのです。愛する独り子である主イエスの命を与えるほどに私たちの命には価値があると神は言われるのです。信仰のまなざしで自分を、そして周りを見ることができるように祈りたいと思うのです。様々なことにとらわれて、自分を小さくし、神をも小さくするのではなく、神の大きな愛をいただいていること、神の目にはこのちっぽけな自分が大きな存在であるということ、を心からの恵みとして感謝して生きる時、思い悩みが小さくなり、そして思い悩みから解放されて生きる喜びが与えられるのであります。それが私たちの誰にでも与えられている主の恵みであります。その恵みの主が言われるのです。「一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」

 
 
 

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