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『信仰によって義とされる』 2024年2月18日

説教題: 『信仰によって義とされる』

聖書箇所: ガラテヤの信徒への手紙 2章15~16節

説教日: 2024年2月18日・受難節第1主日

説教: 大石 茉莉 伝道師

 

■はじめに

1月からはこのガラテヤの信徒への手紙を共に読み進めております。この手紙はその始まりにありますように、ガラテヤの人々が、パウロが伝えた主イエスの福音、救いに至るただ一つ福音から離れようとすることに対して、なんとか踏みとどまってほしいという、願いの手紙であり、そしてまた熱い思いの込められたものである、とお話ししてまいりました。1章から2章の14節まで、つまり前回のところまでは、パウロが語る福音の正当性を伝え、そしてユダヤ人への福音、異邦人の福音、それらは共に、主がお命じになったことであるということが示されていました。さらには、そのことを少しでも曲げようとするならば、たとえ使徒のリーダーであるペトロさえも激しく非難され、主の福音の真理に忠実であれ、ということをパウロは申しました。それら全てがこのようにガラテヤの教会の人々へと記されているのは、それが道を踏み外しそうな彼らに対する軌道修正となると思ったからでした。そして今日の箇所2章15節からは内容がかわります。ここから信仰的なことが取り上げられ、それが掘り下げられていくようなものとなっていきます。

 

■人は何によって救われるか

15節で言われている「わたしたち」これはパウロ、また対立したペトロやエルサレム教会に所属するような生粋のユダヤ人のことを指しています。この人たちは、神によって選ばれた民であるという自負を持ち、またそれは生まれながらに植え付けられたものでありました。一方、異邦人というのは、ユダヤ人以外、という括り方をすることができます。そしてそれらの人々は罪人として規定されてきました。これはパウロのエリート意識とかいうことではなくて、長い歴史における伝統であったのです。この構図、差別的な民族観をパウロがここであえて明らかにしているのは、それはその次の16節によってひっくり返されるということを言うためであります。16節において、ユダヤ人に与えられている律法を守ることによってではなく、誰でも「ただイエス・キリストへの信仰によって義としていただく。」とパウロはいうのです。ここで「義とされる」という言葉が出てまいりました。このガラテヤ書においては初めて登場する言葉です。この「義とする」とは元々は法律用語、つまり、法廷において用いられる言葉です。例えば、ある人の主張、「これは正しい、よってこの人を無罪とする」というような時に使われます。このような意味に使われる言葉をパウロは神と人との関係において用いています。神がある人との関係において、「あなたは私と正しい関係にある、あなたを良しと認める」と宣言してくださる、これが「義とされる」ということです。従って、それは神の救いの恵みに与る、ということ。つまり、「神の義」と「神の救い」は同じ意味ということになります。16節の3箇所の「義」の部分を「救い」と置き換えて読みますと、わかりやすくなると思います。こうなります、「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって救われると知って、わたしたちもキリストを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって救われるためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として救われないからです。」 

 

■プロテスタントの誕生

この「キリストへの信仰によって義とされる」「信仰によってのみ救われる」これは私たちプロテスタント教会の原理原則、その根底であり、中心、核となる言葉であります。

マルティン・ルターによって始まったと言われる宗教改革、ルターがその改革の中心に挙げたのも、このこと、「私たちが救われるのはただ、信仰による、神からの一方的な恵みによる、人間の行いによるのではない」ということでありました。ルターは具体的に何を問題にしたのか、というと、贖宥状、免罪符に対する抗議でありました。ローマ・カトリック教会が発行したこの証書、これを買えば、この世での罰が減免されるということになっていました。罰は何らかの良き行いによって相殺されるとされており、その良き行いというのは、献金や断食などがありました。この断食などの代わりに一定額の献金の証文として贖宥状が発行されたのです。つまり、お金さえ積めば、それが良き行いとして相殺されたと言うことです。ローマ教皇がその発行権を持っており、教会にとって有力な財源となりました。しかしながらその乱用によって、教会と世俗が癒着し、教会は腐敗したものとなってしまったのです。いわば免罪符によってご利益があるということですから、お金のある領主たちはこぞって免罪符を買い、教会に寄進したからです。しかし、それは単なる人間の取り決めによる勝手な解釈であり、本来の神との関係からはかけ離れたものであるとルターは主張しました。ルターはこうしてカトリック教会の腐敗を問題にし、救いは人間がいかに良い行いをするかによってではなく、ただ神の恩恵による、つまり信仰によってのみ救われる、と主張したのです。そのような批判を突きつけられたローマ・カトリック教会は当然ながらルターを破門いたしますが、ルターを支持するザクセン侯フィリードリッヒ3世に匿われ、ルターは新約聖書のドイツ語訳を完成させることができました。キリスト教はカトリックかプロテスタントか、というような言われ方をいたしますが、カトリックに対して抗議−プロテスト−した者という意味でプロテスタントと呼ばれるようになったわけです。私たち、プロテスタント教会の中心原理が、「救いは人間の行いによってではなく、ただ神の恵みによる」であるのは、まさにそこから始まったのでありました。

 

■主イエスの十字架によって

さて、16世紀ドイツから再び1世紀のユダヤに戻ります。ユダヤ人にとって、自分たちに律法が与えられていることが何よりの誇りであり、免罪符と同じように、律法をいかに良く行うか、より多く実行する者こそが救いに近いと考えていたのです。このガラテヤ書の始めから問題となっている割礼はまさに律法の実行の証明でありましたから、割礼の有る、無し、によって人を区別、差別することになっていたわけです。もし、人間の行いによって人間の救いが決定される、律法に対する忠実さによって義とされる、救われる、のだとしたら、それは救いが人間の側の働きということになります。そうだとしたら、救いは何と不安定で不確かなものでありましょう。現代のこの世で行われている裁判においても、冤罪は起こりうるし、その量刑を決めるのにも絶対的な基準によるものではないのです。救い、義の主体は人間ではなく、神なのです。人間の行いによって義とされることはないと言うことをパウロはこうして明らかにした上で、救いは主イエス・キリストの福音にあり、と言うことの積極的な意味を明らかにいたします。主イエスを救い主と信じる信仰、そこにしか救いはないのだと主張します。

では、主イエスの十字架の死によって、私たちが神から義とされるのでしょうか?主イエスの十字架の死、それは人間の罪の清算、贖いのため、と言われて、それが自らのことと結びつくでしょうか。このことはなかなか人間の論理的な思考では辿り着くことはできないことであります。主イエスは十字架上で、神に祈られたとき、自分への裁きを持って、すべての人の裁きとしてください、という取り成しの祈りを捧げられました。

神が人間を作られ、そしてその神と人間との関係を破った、神から離れたのは人間でした。神は私との関係を守りなさい、私との関係の中に生きなさい、と言ってくださったにも関わらず、人間は神から離れ、他のものや自分を中心に置き、そして神に背いてきました。それらの罪はイスラエルの歴史、そして世界の歴史が明確に記しています。神の選びと人間とのその一対一の関係性は、神に対する人間の誠実さ、忠実さ、を求めるものでありますけれども、単純に今の私たちの生きる人間関係に置き換えてみたらわかりやすくなりましょう。人間対人間で、相手から目を逸らさず、相手に対して偽りなく、と、いうことを実際にそのように相手に対して誠実であれるのか、と問われると、自信を持ってできますと言える人はいないでありましょう。相手に対して偽りはないでしょうか。そしてまた、それを隠そうとしたり、繕ったりしないでしょうか。つまり、それが人間の罪の姿なのです。それは少しなら良い、というようなことではなく、それぞれの心の内側に誰もがそのような闇を持っているのです。そのように神をまっすぐに見ることのできない私たち、神に背を向ける私たちと神との架け橋になって下さったのが主イエスなのです。

主イエスはそれを自分の十字架によって清算してください、神よ、怒りを収めてください。主イエスがそのように神と和解するためのとりなしをして下さったと信じるならば、どうぞその裁きを完了したこととしてください。と祈り、十字架にかかって下さったのです。キリストの十字架の死は、この私のためであったと告白する者は、そのことを自らのこととして受け入れている者であります。罪ある自分を認識し、それに絶望するのではなく、主イエスが清算して下さったことに対する感謝のうちに生きることができるのです。こんな私でも良い、と言ってくださる、罪はなくなりはしない、しかし、主イエスの十字架により、神がよしとして下さった、それが主イエスの十字架の意味であります。主イエスに身を託する者たちを神に取り成してくださるお方なのです。神はそのように主イエスを通して、一人一人を救いに値する者としてくださるのです。主イエスによって、主イエスの正しさ、白さによって、私たちを白くしてくださる、私たちの罪を赦し、神の子としてくださるのです。これが信仰における義とされるということの道筋であります。

ですから、信仰を持つ、信仰を得る、信仰者として生きる、それらすべての言葉は自分で獲得したものではなく、ただ与えられるものであり、信仰者として相応しいとか、ふさわしくない、とかいうことも神だけがその基準を持っておられるのであり、人間側の都合や忖度や測りは何もないのです。

 

■結び

このことが限られた民、イスラエルだけであったのが、主イエスを信じる者すべて、つまり異邦人へと開かれたのが、このパウロに与えられた使命であり、パウロの宣教の業でありました。律法もなく、割礼もない、ただキリストを信じる信仰のみ。それがキリスト者であり、神以外の何ものにも依存せず、神に尽くして、神に仕えて生きようとする力を与えられるのです。このような生き方を与えられるということが、主イエスを通しての神からの大いなるプレゼントではないでしょうか。そのためには私たちは神から何かをご褒美として勝ち取ることはできないということに気づかなければなりません。贈り物、プレゼント、ギフトとして受け取るだけなのです。それは自分自身が無力であり、貧しい者であるということに気づくことでもあります。自分自身で事足りている間、つまり、自分自身が「富んでいる」限りは、私たちは高慢と、神に委ねるのでなく、自分を頼ろうとする独立心の中にあり、その間、神は黙って待っておられるのです。私たちが貧しく、無力で、ただ神を求めることしかないと気づく時、神は必ず聖霊によって私たちに働きかけてくださるのです。その時、私たちは不安から安心へ。義務ではなく喜びへと変えられるのです。行いによって救いがあるのではなく、救われたから日々の行いを大切にすることができるのではないでしょうか。イザヤ書43章1節以下で、神はイスラエルにこう言っておられます。「ヤコブよ、あなたを創造された主は/イスラエルよ、あなたを造られた主は/今、こう言われる。/恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」今や、この神からのお言葉は、イスラエルのみならず、異邦人である私たちにも同じ響きを持って宣言されているのです。神に一方的に義とされた私たちです。神が私たちの名をそれぞれに呼んでくださるのです。なんという安心でしょうか。それに応える者として今週も神に仕える者として歩んでまいりたいと思います。

 

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