説教題: 『信じる幸いに満たされる』
聖書箇所: ヨハネによる福音書 20章24~29節 説教日: 2023年4月9日・復活節第一主日(復活日・イースター) 説教: 大石茉莉伝道師
■はじめに
イースター、主のご復活、おめでとうございます。日本中、世界中の教会で主イエスがよみがえってくださったことを喜び、神をほめたたえられる礼拝が捧げられています。私たちも今日の礼拝で主のご復活の喜びをともに分かち合いたいと思います。
今日与えられた聖書箇所はヨハネによる福音書20章24節から29節です。ここではディディモと呼ばれるトマスが登場いたします。このトマスとはどのような人であったのでしょうか。トマスの人となりを知ることのできることのできる出来事が福音書には記されています。ヨハネによる福音書11章16節では、トマスは「私たちも行って、一緒に死のうではないか。」と申します。これはラザロの復活と言われる出来事の中での発言でありますけれども、ラザロを復活させるためにこの時、主イエスはベタニアに行こうとされました。しかし、時はすでに主イエスがご自身の死について予告されている時期、エルサレムに近いベタニアに行くことは、主イエスを捕えようとしている人々の中へ出向く危険なことでもあったのです。しかし、トマスは自分たちも主イエスと共に行って、死をも覚悟、一緒に死のうではないか、と言ったのでした。勇ましいといいますか、熱情的に主イエスにお従いするトマスが描かれております。また、ヨハネ14章5節以下、最後の晩餐の時のこと。主イエスはご自分が間もなく去ることを予告して、こう言われます。「わたしは父のもとに行って、あなたがたのための場所を用意したら、戻って来てあなたがたをわたしのもとに迎える。」その時、トマスは「主よ、どこへ行かれるのか、私たちにはわかりません。どうしてその道を知ることができるでしょうか。」と言ったのでした。今までマルコ福音書で何度も示されてきました弟子たちの無理解、この事を率直に言葉にしたのがトマスでありました。けれどもこの言葉をトマスが口にしたことによって、「わたしは道であり、真理であり、命である。」という有名なお言葉を主イエスはお示しくださったのであります。このようにトマスはわからないことは分からないとはっきりというということのできる人、そして主イエスへの忠実な思いを口でも行いでも表すことのできる人であったことが見えてまいります。
■「疑い深い」トマス
そして有名なのが今日の聖書箇所であります。今日、示されているこの出来事によって、トマスといえば、「疑い深い」という形容詞が必ず付くことになったと言ってもよいほどです。
日曜日の朝、復活された主イエスは、マグダラのマリアのところ、そしてまた、夕方には弟子たちが集まっているところに現れて、その手とわき腹をお見せになりました。そこには十字架にかけられた時に打ち込まれた釘あとが、わき腹には槍で刺された傷跡が残っていました。弟子たちは主イエスがよみがえられたことを確認し、驚き、そして喜びました。ところがその時、トマスはそこに居合わせませんでした。何故トマスがいなかったのかはわかりません。そしてトマスが戻ってきたときには、もう主イエスはいらっしゃらず、他の弟子たちが、トマスに「私たちは主を見た!」と興奮して伝えましたが、彼は「わたしはあの方の釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、決して信じない。」と言ったのでした。この言葉をもって、「疑い深いトマス」と2千年経った今も言われることになったトマスです。
時に私たちは、「トマスのように疑うことなく、主イエスを、復活を信じる者になりましょう。」と教訓的な言い方を聞いたりもしますけれども、そんなに簡単に信じられるものでしょうか。トマスの反応、言葉は極めて自然なのではないかと思うのです。また、トマスは不信仰なのでしょうか。復活を否定したのでしょうか。それもそうではないと思うのです。トマスの気持ちを考えますと、他の弟子たちは皆主イエスを見たのに、自分だけ見ることができなかった・・・なんだか取り残されたような気持ちになったのではないでしょうか。なんだか自分が損をしたような気持ちになって、人の恵みを認められず、認めたくない。疑いよりも嫉妬の気持ちが言わせた言葉なのではないでしょうか。そしてなによりも「私も主イエスを見たい。主イエスにお会いしたい」という強い、そして熱い気持ちがあったのではないでしょうか。。
■トマスの痛み
そしてトマスの「わたしはあの方の釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、決して信じない。」という言葉は、それだけリアルに生々しく、主イエスの十字架の死がトマスの目に焼き付いていたということであります。主イエスが鞭打たれて傷ついた肉体、流された血、十字架上で打ち込まれた釘、そして主イエスが息を引き取られたことを確認するために槍で突かれたわき腹、その時に流れ出た血と水。それらすべてがひとこまひとこま、トマスの目に焼き付き、そして息を引き取られてから、ずっとトマスの頭から離れることはなかったのです。
「私たちも行って、一緒に死のう」とまで覚悟を持って言った自分であるのに、主イエスが逮捕された時には、逃げ去った自分、主を見捨てた自分、そのような自分を責め、そして苦しんでいました。その傷あとは弟子たちの、そしてトマス自身の傷、罪そのものであったのです。
■8日の後に
さて、そうして再び8日ののち、弟子たちは家の中にいて、この時はトマスも一緒にいました。扉にはすべて鍵がかかっていたにもかかわらず、主イエスがこられて弟子たちの真ん中に立たれました。そして言われます。「あなたがたに平和があるように。」この言葉は祝福の言葉であります。これは祈り願うことではなく、すでに確実になっている祝福を伝える言葉なのです。主イエスはこう言って、自分を捨てて逃げ去った弟子たちの罪を赦し、大いなる祝福をお与えくださったのです。そしてトマスに向けてこう言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」「あなたはこうしなければ、信じないと言っている。それならば、そのようにして見なさい。自分で確かめてみてごらんなさい。」主イエスはトマスにそう語りかけてくださいます。これはトマスに対する叱責ではありません。かつて旧約の時代は、神を見ると死ぬと言われていました。神は聖なる存在であり、罪深い人間は目にすることはできない存在でした。ましてや触れることなど考えられないことでした。しかし、肉体を持って復活された主イエスは、その体に触れなさい、と言ってくださるのです。トマスに「その指をここへ当てよ」「その手をここに入れよ」と言ってくださいます。そしてそれは復活のキリストの言葉であるとともに、十字架につけられたわが師イエスのお言葉でありました。「傷跡に触れよ、十字架の釘跡に指を入れよ」と主イエスがトマスに言われた時、トマスは「あなたのために、あなたが信じる者になるために十字架の苦痛をもう一度繰り返そう。」という主イエスの言葉を聞きました。この時、トマスは自分の不信がどれ程に主イエスを傷つけていたかに気付いたのではないでしょうか。主イエスの傷は、十字架の傷は、罪人の贖いのための傷、信じない罪人である私のための傷、である、と気づいたのです。
■信じる者になりなさい
主イエスはトマスに続けて言われます。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と答えました。この言葉はトマスの信仰告白の言葉です。トマスは主イエスの手の釘跡、わき腹の傷跡に触って確かめたから信じたのではありません。見たから信じたのでもありません。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」という主イエスの語りかけの言葉がトマスのかたくなな心を開いたのです。トマスが主イエスに触れたのではなく、主イエスがトマスに触れてくださったのです。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」というこのお言葉は、トマスを咎めるためのものではなかったのです。主イエスは自分の全てを受け止めて下さり、自分のかたくなな心も受け止めてくださっている。主を捨てて逃げ去った自分を赦し、深く愛してくださる。自分を見捨てることをなさらず、その愛のしるしとして傷あとに触れよと言ってくださる。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」というお言葉は、トマスへの主イエスの愛と恵みの言葉でした。今日の聖書箇所の小見出しには「イエスとトマス」と書かれております。26節には「弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。」と書かれておりますけれども、この小見出しにありますように、今日の聖書箇所ではイエスとトマスだけが登場しております。主イエスはこの時、トマスのために再び、トマスに出会うために来て下さったのです。
主イエスはその傷跡を見なければ信じることができない者たちのために傷跡をあえて残されました。神の子であるキリストは傷のない新しい体で復活することもできたのです。しかし、弟子たちの信仰のために、痛み、苦しみ、屈辱のしるしであるその傷跡をそのお体に残されたのであります。栄光の主のお姿に十字架の釘跡が残されているのは、私たちへの愛のしるしであります。
■見ないで信じる幸い
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」今日の聖書の最後にこう書かれております。これもトマスを咎める言葉ではありません。そもそも他の弟子たちもマグダラのマリアが「わたしは主を見ました」という言葉を弟子たちに告げたにもかかわらず、信じてはいなかったのです。実際に自分たちのところに現れてくださったから、見て信じたのです。このように復活の最初の目撃者たちは、主イエスの体をその目で見て信じた、「わたしを見たから信じた」者たちであったのです。トマスを含めたこの人々が復活の主イエスに直接出会い、そのお姿を見て主イエスを信じたのです。裏切り、逃げ去った自分たちに、「あなたがたに平和があるように」と赦しを与え、神の祝福で満たして下さった。そうして彼らは信じる者へと変えられて、そしてそのことを証しし続けました。彼らの証しによって主イエス・キリストによる救いが宣べ伝えられていきました。主イエスの死の場面でヨハネはこう書いています。19章35節です。「それを目撃した者たちが証ししており、その証は真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。」ここに書かれている「あなたがた」とは今の私たちのことです。
■結び
復活された主イエスは父なる神のもとにのぼられ、それ以降のこの地を生きる人々は主イエスのお姿を見ることはできません。このヨハネ福音書の最後にトマスのことが書かれているのは、私たちのためなのです。トマスが発した言葉、「わたしはあの方の釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、決して信じない。」主イエスの救いを信じられない人々はこの言葉を口に致します。
しかし、「信じない」のではなく、「信じたい」と主イエスに近づく時、主イエスに触れたいと願う時、主イエスはトマスに触れてくださったように、一人一人に触れてくださいます。それは祈りの時でありましょう、礼拝の場でありましょう。「主よ、あなたにお会いしたいのです。あなたに触れたいのです。あなたを信じたいのです。」と求めるならば、かならず主は応えてくださいます。
主イエスの復活を見た弟子たちの時代から2千年、主イエスの十字架と復活は宣べ伝えられ、書き記され伝えられてきました。今日のイースターをすべての教会が祝い、そして礼拝をお捧げしています。そして私たちの罪の贖いのために十字架で死なれ、私たちに永遠の命を与えるために復活されたこと、そのことは聞いて信じたのです。ペトロの手紙Ⅰ1章8節にはこう書かれています。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」
信仰と不信仰の間を行ったり来たりする私たちでありますけれども、主の日の礼拝において主イエスに触れていただき、そして「あなたがたに祝福があるように」という主の語りかけを聞き、「信じる者になりなさい」という主からの励ましの言葉を聞くのです。目には見えずとも、共にいてくださる復活の主イエス・キリストを信じる。この幸いに生かされる者とされたいと祈り願います。
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