『信じて祈るならば』026年7月12日
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説教題: 『信じて祈るならば』
聖書箇所: エレミヤ書8:4-13
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書21:18-22
説教日: 2026年7月12日・聖霊降臨節第8主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
主イエスがエルサレムにお入りになった最後の1週間をたどっております。前回、主イエスはエルサレム神殿から商人を追い出すという「宮清め」をなさいました。そして17節にありますように、「それから、彼らと別れて、都を出てベタニアに行き、そこにお泊まりになった。」のでありました。これは単に時間的に日が暮れたから移動した、ということだけではありません。頑なに救い主を拒む祭司長や律法学者たちを都エルサレムに残して、主イエスが都を離れられたということは、エルサレムに対する決別が表されていると言えましょう。そしてお泊まりになったベタニアとはどのような場所であったかといえば、他の福音書によれば、マリアとマルタ、ラザロの姉妹の家があり、そしてマタイ26章に登場する重い皮膚病の人シモンの家がありました。権力に支配された強盗の巣となっているエルサレムを離れ、主イエスへの信仰に生きる人々のおられる地に身をおかれました。そしてその翌日の朝早くに都に戻られる時の出来事が今日、与えられた箇所であります。
■いちじくは神の恵みのシンボル
今日の箇所を読みますと、この出来事はなぜ記されたのだろうか、何を示しているのだろうか、と疑問に思われる方も多いのではないでしょうか。このいちじくの木にまつわる記事は、マルコによる福音書11章に並行記事がありますけれども、主イエスの宮清めの出来事がいちじくにまつわる記事に挟まれています。宮清めの出来事はサンドイッチの中身となっているわけです。そこからわかりますことは、この枯れたいちじくが指しているものは、宮清めにおいて強盗と呼ばれた祭司長や律法学者たちと重ねられているということです。そのことを念頭に置いて、少々不可解なこのいちじくの出来事を紐解いてまいりたいと思います。さて、旧約聖書にはいちじくがたくさん出ていますけれども、どのような位置付けであるのかといえば、それは神の恵み、神が与えてくださる豊穣の象徴の一つであります。もともとイスラエルの地にはいちじくが豊かに実り、主食の一つでした。そして申命記8章7節以下にこのようにあります。「あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。それは、平野にも山にも川が流れ、泉が湧き、地下水が溢れる土地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地である。」このようにイスラエルの民にとって、いちじくは神がモーセを通してイスラエルの民に豊かな土地を与えることを約束されたシンボルであり、神の恵みを豊かに表しているものなのです。
■枯れたいちじく
主イエスはベタニアにお泊まりになり、翌朝早く再び都エルサレムへと向かわれました。そしてその途中に、空腹を覚えられました。これは単にお腹が空いたというのではなく、「飢え」を意味する言葉です。昨日からエルサレム神殿にお入りになった主イエスは、父の家である神殿において満たされてお過ごしになるというのが本来の姿なのです。しかし、そこは強盗の巣となっており、それゆえに神殿から離れて、ベタニアで主イエスを信じる者たちと共に一晩をお過ごしになられました。そして再び、神殿へと向かわれる。向かう場所は飢えを感じる場所であるということです。飢えを覚えて道端のいちじくの木に目を留められ、近寄ったけれども葉のほかには何もなかった。そして主イエスが「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われ、いちじくの木がたちまち枯れた、と聖書は記しています。主イエスが空腹の腹いせにいちじくの木を枯らしてしまったのではないか、とも思える記述ですけれども、そんなことはあるはずがなく、この不可思議な出来事を理解するには、先ほど申し上げた「いちじくがエルサレム神殿の祭司長、律法学者たちと重ねられている」ということに目を向けなければなりません。直前の箇所で主イエスがなさったことはエルサレム神殿の宮清め、そこでは強盗の巣としている祭司長や律法学者たちへの怒りが表されていました。神を礼拝すべき場所である神殿が、人間の利益最優先となり、中味のないものになっていました。それが葉っぱばかり茂らせていて、実りのないいちじくの木であるということです。主イエスがエルサレム神殿へお入りになられたのは、父である神に礼拝をお捧げすること、それによって満たされるはずのその場所が葉っぱばかりの実りのないものであり、主イエスはまさに「餓え」を覚えられた、満たされない場所であるということがこうして示されています。
■実りのない木
今日、与えられた旧約聖書はエレミヤ書8章4節以下です。神の言葉に背き続け、頑なに悔い改めようとしない南ユダ王国、エルサレムの人々の姿を預言者エレミヤが強い悲しみと鋭い告発を持って描いている箇所です。当時のユダ王国はバビロニアの脅威に脅かされていました。背きの結果はバビロン捕囚という裁きで示されるのです。8節には「『どうしてお前たちは言えようか。『我々は賢者といわれる者で/主の律法を持っている』と。まことに見よ、書記が偽る筆をもって書き/それを偽りとした。』」とありますように、彼らは自分たちの形式的な信仰に安心しており、その律法の本質である正義と憐れみを実践しない偽りの生き方は糾弾されます。そのような彼らの姿は、神の目には主を拒絶した姿であり、彼らの知恵は破滅をもたらすものであると警告されています。
当時、主イエスと共に生きていた時代の人々はこのたちまち目の前で枯れたいちじくの木を前にしてこのエレミヤの告発を思い浮かべたに違いないのです。イスラエルの民に「神に立ち帰れ」といくら呼びかけても彼らは悔い改めませんでした。13節、「わたしは彼らを集めようとしたが、」つまり、悔い改めという収穫を期待したが、ぶどうにもいちじくにもその実はありませんでした。つまり、神が求めた悔い改めの実りはなかったのです。主イエスが枯れるように、とお命じになったいちじくは、遠くから見ると立派に見えるのに近づくと中身がからっぽである当時のエルサレム神殿、律法は守り、見せかけの熱心さはあっても、神への愛や悔い改めが伴っていない祭司長、律法学者たち、神殿体制への厳しい裁きを象徴しているのです。
■山を動かす信仰
いちじくの木が目の前で枯れてしまったのを見て、弟子たちは「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と驚きます。それに対して、主イエスは「山を動かす信仰」について語られました。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」いちじくの木から急に山を動かす話になり、唐突に感じられますけれども、主イエスがいらしたのはどこかといえば、エルサレムのオリーブ山周辺です。「この山」とあるのはキデロンの谷を挟んだその先にあるシオンの山を指すのではないかと思います。エルサレム神殿は小高い山の頂上に、山の頂上を平らに拡張して、そこに建っていました。本来、神がおられる場所であるはずの神殿。それが今や強盗の巣と化してしまったことを主イエスは宮清めという強烈な抗議で示されました。実を結ばなくなってしまった古い神殿はいずれ崩壊する、そのことを主イエスはここで預言されたのです。「この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』」とは、神殿が海に投げ込まれる、崩壊するということをお示しになったということでありましょう。実際、主イエスのこのお言葉は紀元70年に本当のこととなります。主イエスがおられたこの時、ヘロデ大王による大規模な拡張工事がなされていたエルサレム神殿は、ローマ帝国の圧政に対するユダヤ人の反乱である第一次ユダヤ戦争において、ローマ皇帝率いる軍隊によって神殿はなくなりました。
いちじくの木に起こったようなことも、また山を動かすことも、信じて疑わないならばその通りになる、と主イエスは言われました。「山を動かす」という表現は、人間には到底不可能であること、極めて困難なことを解決するという意味の比喩として使われます。人間の目には不可能と思われることが成し遂げられる、それは神の力によってであると言われたのです。これは単に自分の願いが叶うと信じるということではありません。全能であり、そして全てを良きこととしてくださる神を完全に信頼し、神に委ねるということです。22節にある「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」という言葉は、私たちの祈り願うことがなんでも叶うということではなく、神の御心に叶う祈りは、どんなに不可能だと思えることであっても、必ず神が聞き届けてくださるという神への信頼を表す言葉です。
■信じて祈るならば
この21章は「主イエスがエルサレムに来られた」ことによって、起こった出来事が記されています。神への礼拝がなされるべき神殿が強盗の巣となっていることを宮清めによって回復され、目の見えない人、足の不自由な人たちがまことの礼拝を捧げることができるようになさいました。子供たちも「ダビデの子にホサナ」と叫んで神を讃えました。主イエスが来られたことによってこれまで礼拝に連なることができなかった人々が喜びを持って神を礼拝する姿が示されました。主イエスが来られたことによって、神殿が本来の意味である祈りの場、礼拝の場を回復したということです。主イエスが来られたことによって、神の恵みが満ち溢れ、人々に救いが届いているということです。主イエスがこの世に来てくださって、そして私たちの罪のために十字架で死んでくださいました。主イエスは人としてこの世に来られ、そしてたくさんの祈りを父なる神に捧げられました。人として苦しまれながらも、父なる神の御心がなりますように、と祈られ続けました。そしてそのような主イエスを神は復活させてくださった。父なる神は必ず愛する者たちの祈りを聞き届けてくださる、そのことを私たちは主イエスの十字架と復活を通して信じることができるのです。「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」この日本語には主語が省かれていますけれども、原文では「信じて祈るならば、あなたがたが求めるものは何でもあなたがたは得られる。」であります。「あなたがた」つまり、私たちの祈りということです。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。そう言って、主イエスは私たちに主の祈りを教えてくださいました。信じて祈るということは、父なる神が私たちに必要な全てをご存じであり、それを与えてくださると確信して祈ることです。
■結び
私たちの祈りはとても小さなものであります。いちじくの木を枯らすこともできませんし、山を動かすこともできません。それどころか自分自身のことでさえ、何一つ自由にすることはできません。しかしそこに神の御手が働くことを信じるかどうかが問われているのです。私たちはまるで目の前にそびえ立つ山のように、自分ではどうしようもない困難や壁にぶつかることがありますけれども、主イエスは自分の無力さに目を向けるのではなく、神の偉大さに目を向けて、神を信頼して歩むように、弟子たちを、私たちを励ましておられます。神は偉大なお方でありますから、私たちの思いをはるかに超えて、豊かに実現するのです。「主イエスがこの地に来られた」そのことが神の思いは必ず実現するということを証明する出来事であります。
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