説教題:『使徒の任命』
聖書箇所:マルコによる福音書 3章13節~19節
説教日:2022年7月31日・聖霊降臨節第九主日
説教: 大石 茉莉 伝道師
■はじめに
今日の聖書箇所は主イエスが十二使徒を任命されたところです。その名前は聖書箇所後半に列挙されていますので、後程見て参りましょう。この根津教会ではその12人の版画が皆さんをお迎えしています。教会員の加藤幸一さんの作品です。それを眺めていますと、彼らの雰囲気やしぐさなどが感じられ、そして彼らの会話までもが聞こえてくるような気がいたします。それぞれの個性が豊かに表現されていて、この人は体格がよくて声が大きそうだとか、ちょっとふてぶてしい感じとか、気が小さそう、臆病そう、とか熱血漢だろう、など想像が広がります。
実際には主イエスにはたくさんの弟子たちがいました。前回読んだ7節以下では、おびただしい群衆が主イエスに従ってきたとありました。そして主イエスはその多くの弟子たち、従ってきた人々の中から、12人を選び、使徒として任命したということです。
■山に登って
「主イエスは山に登って」とあります。山は祈りの場所であります。ルカによる福音書の並行箇所を見てみますとこうあります。「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。」ルカ福音書では、主イエスが夜を通して神に祈りを捧げ、そして十二使徒を選び出されたことが強調されています。マルコによる福音書では、ただ「山に登って」とだけ書かれていますが、しかしルカが記すように主イエスの祈りの時間があったことでしょう。そして山は神の啓示の場所です。それは旧約の時代以来そうであります。出エジプト記19:20にはこう記されています。「主はシナイ山のいただきに降り、モーセを山のいただきに呼び寄せられた。」そのように神の啓示が特別に示され、明確な意識をもって神の御前に立つ場所、それが山なのです。その少し前の出エジプト記19:6節に「あなたたちは、わたしにとって 祭司の王国、聖なる国民となる。」と書かれています。主イエスが12人をお選びになったのは、このモーセの記事を背景にして理解することができます。モーセが率いていたイスラエルの民は、12の部族からイスラエルの民、神の民、として成り立っていると考えていました。自分たちの祖先アブラハムから、イサク、ヤコブ、この3代目のヤコブに12人の子どもがあり、この12人を基にして12部族が生まれていったわけです。
主イエスは12人をお選びになった。それをこの12部族に重ねてみますと、新しい救いの御業の始まり、新しいイスラエルの歩みの始まり、大きな神の御業として新しい民の形成が始まったといえるのです。
「山に登って」に続いて、新共同訳聖書では、「これと思う人を呼び寄せて」と書かれております。口語訳聖書を見てみますと「みこころにかなった人びと」となっております。いずれも正しく理解するのに難しい訳が使われています。「これと思う人を呼び寄せて」も、「みこころに適った人々」も、いずれも、主イエスが、この人は出来がよさそうだ、とか、あの人は立派だ、など、主イエスのお眼鏡にかなった、お気に入り、というように捉えてしまいがちです。しかし見どころがあるとか、優れたというような何かの規準でお選びになったということではありません。選ばれた者たちの資質は何一つ語られていませんし、それは全く関係ないことなのです。ただただ主が、この人を、とお考えになった、ということです。そして先ほど、ルカの引用から主イエスが神に祈りを捧げた、ということを申しました。主イエスは12人を選び任命するために、父なる神に祈りを捧げました。父なる神のみこころを問われたのです。そのようにして父なる神のみこころによって、主イエスは選び、任命されました。この「任命した」という言葉は、もともとは「作る」という言葉です。直訳すると「12人を作った」です。既に存在している人間ですから、実際に作ったわけではありませんけれども、しかし主イエスは、まるで新しい存在として、新しい使命をお与えになったのです。その人の実力を評価して任命するのではなく、主イエスがご自分の意志においてその人を選び、そしてその人を使徒として新しく造り上げて下さり、そして使徒としての権能を授けてくださったということなのです。使徒とは、主イエスの権威のもと、主イエスのご意志によって立てられたものなのです。
■12人の任命
その任命の意味は何でしょうか。それは主イエスご自分のそばに置くため、また派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるため、と書かれています。
理由の第一は「主イエスご自身のそばに置くため」。主イエスの弟子の基本は、その人がどんな性格や能力を持っているか、その人がどんな人か、何をしてきたか、は関係ないのです。その人が何を見て、何を聞いているか、そして見聞きしたことを正しく喜びをもって感謝しつつ伝えるかどうかが大切なのです。そのためにはまず、主イエスと共におり、その交わりの中にいなければなりません。主イエスによって何が語られ、目の前で何が行われているのかを見なければならないのです。主イエス・キリストの公生涯、その生と死、十字架そして復活を、そのすべてを体感し、聴きとっていくことが第一の務めです。
そしてもうひとつは、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであったと書かれています。この宣教と悪霊を追い出すということは別のことではありません。つまり、宣教とは、言葉をもって告知するだけのことではなく、悪霊の追放や病人の癒しということが含まれるのです。
前回の箇所で汚れた霊どもが出てまいりましたけれども、主イエスは汚れた霊どもたちに、ご自分のことを言いふらさないように厳しく戒められました。「神の子イエス・キリストの福音」は汚れた霊どもによってではなく、ここで主イエスの選びによって立てられた12人の弟子たちによって宣べ伝えられるものであると、主イエスはお考えになっているのです。ですから主イエスはその権能をお与えになるために、12人を使徒としてお選びになりました。
■悪霊を追い出す権能
主イエスは弟子たちに対して、悪霊を追い出す権能を授けられました。悪霊とは神に対抗する力です。神を信じられなくする力、それが悪霊の力です。主イエスは多くの病人や悪霊に憑かれた人を癒されました。それはただ病気を癒したり、悪霊を追い出したということではなく、そのような人々が病気を通して神を信じられなくなっている姿を憐れみ、もう一度神がおられることを信じるようにとなさったのです。主イエスは病気の人々を癒しながら、常に悪霊と闘っておられました。悪霊はまるで寄生虫のようなものです。誰かを住まいとして生き延びるのです。ですからいくらでも姿形を変えて、人間の中に住みこもうとするのです。そのような悪霊を追い出す権能を、主イエスは弟子たちにお与えになりました。それは追い出す権能であって、絶滅させる力を与えたのではありません。その力は神がお持ちなのです。弟子たちは神に力があるのだということを宣べ伝える権能を与えられた、ということなのです。悪霊に毅然とした態度で立ち向かい、神の絶対的力を示す権能が与えられました。
■任命された12人
16節からは任命された12名の名前が記されています。最初に、漁師のシモンをお立てになりました。そしてアラム語でケファ、ギリシア語でペトロという名をお与えになりました。「岩」という意味です。これは頑固者という意味を持っています。そしてそれだけでなく、岩のように教会の礎となるということを意味したのです。しかし、私たちは、この岩が揺るぎやすかったことを知っています。彼はこの12使徒の代表者として立てられました。他の弟子たちが彼には一目置くようなそんな感じです。ですから、彼が倒れるとみんなが倒れる。しかし、彼がしっかり立つとほかのみんなもしっかり立つ、そのような役割を果たしております。しかし、その岩は揺るぎやすかった。主イエスを三度否んだペトロです。しかし、主イエスはペトロを揺るぎない岩にまでなさろうとしてくださいました。それは主イエスご自身が捨てられた石となられることによってです。ローマの信徒への手紙9章33節に「『見よ、私はシオンに、躓きの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない。』と書いてある通りです。」とあります。主はシオンに置かれた「躓きの石」「妨げの石」となられました。つまり、主イエスの十字架の御業、主イエスが岩となられることによって、ペトロも揺るぎない岩へと変えられていったのです。しかるべき使命を果たしていくようにと変えられたのです。
そしてペトロと同じくガリラヤ湖の漁師であったゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、この二人には、ボアネルゲス「雷の子ら」というあだ名をつけられたと書かれています。このあだ名には諸説あるようです。突然鳴り響く雷のように、怒りを爆発させる人、声が大きい人だったのかもしれません。あるいは、ヨハネ黙示録6章には、神の声が雷のような声と表現されています。ですからそのように響き渡る声の持ち主であった。そして主イエスがこの二人に、神の真理を語る者としての使命をお与えになったことを指し示していると取ることもできます。
熱心党のシモン、この熱心党というのは、政治に熱心であり、その政治理念の実現のためには暴力もやむなしと考える過激な革命家のひとりです。そのような者が12人のうちのひとりとして加えられていました。
マタイ、彼は2章14節でアルファイの子レビとして登場した徴税人と同一人物であると伝統的に考えられています。時のローマの権力に上手に取り入って、自分のためにお金を貯めこんだ人々のひとりです。当時のユダヤ人たちが罪人の代表として忌み嫌っていた人であります。
そして最後に書かれていますのが、イスカリオテのユダです。「このユダがイエスを裏切ったのである。」とわざわざ記されています。主イエスがみ心によって選び、呼び寄せて側に置き、派遣した使徒たちの中に、このイスカリオテのユダ、裏切り者のユダがいた、これはどういうことでしょうか。主イエスもユダが裏切ることはみぬけなかったということでしょうか。いいえ、そうではありません。主イエスの救いの御業は、ユダの裏切りも含んで実現していくのです。ユダは主イエスを裏切りました。それはその弱さゆえではなく、むしろ、その裏切りの意志を、寝食を共にしていた仲間たちに気付かれることなく、秘密として守り通し、最後まで自分の手の中に隠し持つという強い意志を持っていました。この強さの中に、神に対する人間のかたくなさ、神を拒む人間の傲慢さをみることができます。そして主イエスの強さは、そのようなユダに気付きながら、最後までユダと関わられたことです。主イエスの十字架は、ユダの裏切りと主イエスの愛が結びついているのです。
■結び
この12人は多種多様です。その出身も、立場も職業も、今でいうところの学歴も違います。全く相いれない人もあります。ローマへの税金を徴収するマタイと反ローマの過激派、熱心党のシモンとはまさに敵対する存在です。そしてイスカリオテのユダという主イエスを裏切る者までこの中にいました。そこから見えてくることは、この12人は、現代の私たちの縮図、教会に集う者たちの縮図であるということです。
主イエスは優れた、信仰に熱い、立派な人たちを選んだのではなく、普通の人、そして熱血漢、過激な人、対立する人、そして裏切る者。そのような者たちを選び、お側に置き、遣わしてくださるのです。
私たちの弱さ、醜さ、罪、そして裏切り、それらをすべて十字架の死によってお引き受けくださり、そして復活によって罪と死に打ち勝って下さる神の全能の力によって、救いの御業は実現していきます。私たちはその神様によって、そのみもとに呼び集められた者たちです。こんな私たちを「これと思う人々」として下さったことで、全能の父なる神の力に依り頼んで歩むことを許されているのです。主イエスによって選ばれた12人の使徒たちから始まったキリスト者の歩み、教会の歩みです。私たちも使徒たちに続く者として、使徒的教会の一員として、主イエスによって与えられた使命を果たすものとして歩み、神の救いの証し人として、キリストを証しして参りましょう。
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