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『仕える者として歩む』 2023年5月7日

説教題: 『仕える者として歩む』  聖書箇所: マルコによる福音書 10章32~45節 説教日: 2023年5月7日・復活節第五主日 説教: 大石 茉莉 伝道師

■はじめに

今日の聖書箇所が二つの段落になっていることはお分かりいただけると思います。32~34節は主イエスがご自分の死と復活を予告されるという箇所であり、受難予告としては三回目であります。一度目は第三幕の始まり、8章31節からでありました。そして第二回目は9章30節からでした。まずは繰り返しになりますが、この三回の受難予告の内容、そしてその後に続く出来事との関係を見てまいりたいと思います。


■三回の受難予告

第一回目の予告8章31節では主イエスはこう言われました「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている。」第二回目の予告9章31節ではこう言われました、「人の子は、人々の手に渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する。」そして今回の箇所33、34節です。「今、わたしたちはエルサレムへのぼっていく。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打った上で殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」と主イエスは言われました。この三回目の主イエスのお言葉は一回目、二回目に比べて、具体的に表現されています。「死刑を宣告して」という裁判のことが示されています。「異邦人に引き渡す」こともここで初めて示されました。つまり、それはユダヤ人から異邦人つまりローマ人に引き渡されることを主イエスご自身が語られています。そしてどのように殺されるのかということが具体的に示されています。ユダヤ人による石打ちの刑でははく、ローマ人による処刑であると言われたのです。それは、「侮辱し、唾をかけ、鞭打った上で殺す。」というものであります。そしてこの言葉は、イザヤ書50章6節を思い起こさせます。「打とうとする者には背中をまかせ/ひげを抜こうとするものには頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。」イザヤはこのように「主の僕」について語っています。主イエスの受難は、祭司長、律法学者たちの殺害計画とユダの裏切りが形となって起こります。ですからそれは人間の計画でありますが、このイザヤの預言の示すように、それは神の計り知れない計画であることも示されているのです。

この第三回目の予告を話される主イエスにはただならぬ気配が感じられます。32節です。「一行がエルサレムへ上っていく途中、イエスは先頭に立って進んでいかれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。」主イエスが決然とした様子で歩まれるお姿が目に浮かびます。一回目、二回目では示されていなかった「エルサレム」この地が強調され、主イエスの受難の場所であるということが示されるのも、この箇所が初めてであります。そして弟子たち、従う者たちは、「驚き、恐れた」のでありました。これまで主イエスは二度にわたって受難予告をされましたが、弟子たちにはその意味は正確にはわかっていませんでした。戸惑いやなんとなくの危機感は持っていても、それは漠然としたものであったのです。しかし、この三回目において、自分たちの前を歩む主イエスの足取り、まなじりを決した顔つき、そうした主イエスを包む雰囲気に驚きや恐れを感じたのでありましょう。


■受難予告を聞いた弟子たち

そしてこの三回の受難予告において、主イエスの受難予告にそれぞれ弟子たちにまつわる出来事が記されています。第一回目においては、受難予告を聞いたペトロがすぐに、「わきへお連れして、いさめ始めた(8:32)」のでありました。そして第二回目は弟子たちは主イエスのお言葉の意味がわからず、恐くて尋ねられませんでした(9:32)。その後には道々、自分たちの中で誰が一番偉いかという議論をしたのでした。いずれも弟子たちの無理解が記されております。そして今回の第三回目です。今日の御言葉の後半35節以降に示されています。登場人物は十二弟子全員ですが、その中でもゼベダイの子ヤコブとヨハネが中心人物です。ヤコブとヨハネは進み出て、いわば、直談判の体で、主イエスに願い出ます。37節、「栄光をお受けになる時、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人をあなたの左に座らせてください。」彼ら二人は自分たちに特別な地位を与えてほしいと願ったのです。9章2節に示された主イエスが真っ白に輝くという変容のお姿を見た二人であります。彼ら二人はそのような主イエスの栄光のお姿を夢に見て、その右と左に自分たちの栄光をいただきたいと願ったのでありましょう。彼らの思い描いていた主イエスが受ける栄光はこの世での支配、権力でありました。そしてその栄光を自分たちにも、と求めたのです。それを聞いた主イエスは彼らの思い違いを正そうとされます。「あなたがたは、自分が何を願っているか、わかっていない。」主イエスの弟子たる者は栄光の座ではなく、主イエスのお受けになる苦しみに与ることが求められているのです。そしてこのような栄光を求めたのはヤコブとヨハネの二人だけではありませんでした。十二弟子の残る10人が腹を立てた、と41節は記しています。皆、心の中では同じ願いを持っていたのです。「自分こそ」が主イエスに取り立ててもらうにふさわしい。皆、主イエスを師と仰ぎ、主イエスの弟子として共に歩んできましたが、皆、真の神の子を理解せず、真の神を求めていない者たちであったのです。


■いずれ受ける杯

主イエスは続けて言われました。「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らは即答します。「できます。」この世の支配的な栄光をイメージしていた彼らは、ローマ軍からの解放を祝う祝杯をイメージしていたのでしょう。原文では主イエスが「このわたし」が、というように、「わたし」が二回繰り返されて強調されています。このわたしの飲む杯、主イエスが飲まれる杯、それは「杯」とは苦しみ、そして神の怒り、本来なら避けて通りたい苦しみを表すものです。杯も洗礼も主イエスの苦難を表すものなのです。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けるであろう。」主イエスにはもうまもなく起こる苦難であり、そして弟子たちの苦難は「~であろう」と未来形であることをここで告げておられます。つまり、この先のエルサレムの道は主イエスにとっては苦難の旅であり、そして弟子たちはその主イエスのご苦難を見届ける旅であったのです。ここで主イエスが、弟子たちに向かっていわれた「(苦難を)いずれ受けるであろう」というお言葉通り、ヤコブは最初の殉教者となったことが、使徒言行録12章2節には記されております。

そして主イエスは「わたしの右や左にだれが座るかはわたしが決めることではない。」といわれました。それは神が定められた人々に与えられるものであり、主イエスがお決めになることではないということです。最後のゲッセマネの祈りの時に、私の願いでなく、あなた、父なる神の願いがなりますように、と祈られたように、主イエスは父なる神の御心に従う道を歩んでおられるのです。


■すべての人に仕える者に

この10章はエルサレムに入る直前の主イエスの最後の弟子たちへの教え、訓練の道行きであるとお話ししてまいりました。主イエスはご自身での受難予告のお言葉に続けて、繰り返し同じことをお話されています。「一番先になりたい者はすべての人の後になり、すべての人に仕えるものになりなさい。」9章35節です。そして今回、43節でこのように言われています。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」弟子たちの自分の力に頼る生き方から、主イエスに従う生き方へ、神に従う生き方へ変えられるために、ということを繰り返し諭しておられるのです。主イエスが示された道は、決して苦難の道にとどまらず、その後に生きる人々の愛と平安の道であるのです。そのために弟子たちにまず実践する者であることを求めておられます。それはいまだ完成していない神の国が、一日も早く完成へと向かうために私たちに求められている事でもあります。主イエスに従っている者として自分の生活をつくる。それを皆に求めておられます。それは決して、今生きるこの生活、仕事をしている生活、子供を育てている生活、主婦として生きる生活、学生としての生活、それとは決して矛盾しないのです。


■結び

今日の御言葉の最後に主イエスはこのように言われました。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるためにきたのである。」日本基督教団信仰告白には、「御子は我ら罪人の救いのために人となり、十字架にかかり、ひとたび己を全きいけにえとして神に捧げ、我らの贖いとなりたまえり。」という一文があります。この贖いという言葉を、聖書巻末にあります用語解説を見ますと、「新約においては、キリストの死によって、人間の罪が赦され、神との正しい関係に入ることを指す。」とあり、それ以外の説明のところに、「身代金を払って奴隷を解放する、自由にすること」とも記されています。主イエスがご自分の死の意味を多くの人、つまりはすべての人、の身代金としてであると説明されました。「贖い」という言葉を用いている箇所は他にもありますが、身代金としての十字架の意味を語られているのはこの箇所だけなのです。身代金と聞きますと、誘拐事件を思い浮かべます。捕らえられた人を解放するためにいくらいくら用意せよ、というものです。突然、自由を奪われ、捕らわれの身となり、それを用意できなければ、それが支払わらなければ殺されるという状況になったわけです。そしてそれが用意され、支払われ、解放された時には、その人は見えるものすべてが新しく見え、そして生きていることを実感し、感謝と喜びの中に生きていくのでありましょう。

主イエスはご自分の命を身代金として払ってくださいました。ですから、それによって解放された私たちが助けていただいた命を大切にするのは当然のことです。この命は主イエスが身代金として払ってくださったからこそ、ある命なのですから。

主イエスはそのようにしてすべての者に仕え、すべての者を解放するために、御自身の命を身代金として捧げて下さったのです。主イエスに感謝してもしきれないのは当然です。ですから、私たちはその方にお従いして歩んでいきたいのです。主イエスはエルサレムに向かわれる時のように先頭に立って進み、私たちを導いてくださいます。そして、この歩みを続けて行くことによって、主イエスご自身の復活によって示された栄光に与る者となるのです。さらに主イエスは、受難を予告されただけではありません。エルサレムに向かう真の神の子は、この道の先にあるものをも語っておられます。「そして人の子は三日の後に復活する」。この言葉を忘れてはなりません。主イエスの道を歩む最後に、主イエスの復活の命にも与るという、真の栄光が約束されているのです。主イエスの後に従って歩み出すことは恐れを伴います。しかし、十字架で死に復活された主イエスが、私たちが進む道の先頭にいて下さるのです。この主に従いつつ、仕える者として歩んでまいりましょう。

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