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『今日も、そして新しい年も』 2023年12月31日

説教題: 『今日も、そして新しい年も』 

聖書箇所: マタイによる福音書 28章16~20節

説教日: 2023年12月31日・降誕節第1主日

説教: 大石 茉莉 伝道師

 

■はじめに

ちょうど今年は、31日が主日となり、こうして2023年最後の日を主の日で締め括ることができるということになりました。アドヴェントではマタイによる福音書から主イエスのご降誕の喜びを分かち合うことができ感謝いたします。引き続き、マタイによる福音書の最後、28章16節から20節の御言葉に聴き、主イエスのご降誕の始まりに記されたインマヌエル、神は我々と共におられる、この約束の成就を改めて聴きたいと思います。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」この力強い約束はわたしたちへの大いなる恵みです。2023年最終日、改めて、神の恵みに感謝し、御言葉を支えとしたいと思います。

 

■イスラエルから全世界へ

アドヴェントでは、マタイによる福音書の1章、2章の御言葉から聴きました。1章は主イエスの系図から始まっていました。そして4章で悪魔の誘惑をお受けになり、そして伝道活動が開始されます。マタイによる福音書はそのように主イエスのご生涯が描かれております。一般的に生涯が描かれるものといえば、伝記ということになるのでありましょう。このようなことをして、こうした言葉が残り、これが後代に残された。それが伝記のスタイルです。このマタイ福音書もそういう意味においては、伝記のかたちで記されています。しかし、普通の伝記は人の死によって閉じられますが、このマタイ福音書においては、死を越えて復活、そしてその復活後のことまで書かれています。そのことが何を意味するかといいませば、伝記にとどまらず福音である、ということです。「福音」それはGood News、良き知らせであり、そしてそれは、告げ知らせられるもの、広められるもの、であります。マタイは主イエスの誕生から知らせて、そして最終的には、全世界についての伝道を告げ知らせて、まとめ、結論としているのです。先週お話しましたように、マタイは、「主が預言者を通して言われていたことが実現するため」という言い方をすることで、ユダヤ人に向けて、主イエスが旧約の完成者であることを告げました。しかし最終的には、ユダヤ人のみならず、全世界への伝道を告げるのです。

 

■「人の子」は主権者に

今日の16節で十一人の弟子たちがガリラヤで出会ったのは、改めて言うまでもないことですが、復活された主イエスであります。17節には、「イエスに会い、ひれ伏した。」とあります。彼らは今まで自分たちが師と仰いできた主イエスとは同じでありながら、違うことに気づきひれ伏したのであります。彼らは「人の子」を知ったのです。旧約聖書ダニエル書7章13節以下「見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り/『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み/権威、威光、王権を受けた。/諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。」。主権は人の子に与えられて、人の子はいっさいの栄光を帰せられるようになり、そして主権者となるのです。主権者となった人の子、このお方に対面し、そしてその方の救いを受け入れ、全てをゆだねるのです。

弟子たちにとっては、今までのすべての事が明らかになり、この人物がどなたであるのか、神の子であることを知ったのでありました。彼らはひれ伏した。すべての権能を授かったお方がここにおられるということです。主イエスはご自身で死と復活についてお語りになり、それがここで成就し、彼らはそれを目の当たりにしているのです。拝む以外にはなかったのでありましょう。「しかし、疑う者もいた。」というこの一言はわたしたち人間の想像を超えた、この復活ということに対する戸惑いをあらわす言葉でありましょう。

主イエスは弟子たちに自ら近寄って来られます。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」それゆえに、もはや、イスラエルだけの問題ではないのです。すべての国民を対象としているのです。この箇所を読んでお気づきになると思いますが、「一切の」「すべての」「すべて」「いつも」と書かれています。「いつも」と訳されている言葉は、正確にはすべての日に、であります。ですから、この主イエスのお言葉は「すべて」という語が繰り返されているのです。それは文字通り、「すべて」の民に対しての伝道が宣言されているのです。

 

■大宣教命令によって

この箇所は、大宣教命令、Great Missionと呼ばれる箇所です。実際のプロテスタント宣教の歴史においても、この箇所が礎、精神的基盤となってきました。この御言葉を支えとして教会が歩み続けてきたと言っても過言ではないでしょう。しかし、その歩みは、人間の熱意によるものではないのです。それはただただ主イエスの御言葉による歩みであり、聖霊の働きによって後押しされてきたということなのです。人間の思いや熱意、それらは必ず冷めるものであるし、力尽きるものでありましょう。しかし、神の言葉はとこしえにつきることなく、そして神の言葉は前進するからです。

教会の基となる、弟子たち、それはそもそも、主の招きによってその歩みが始まりました。弟子の群れは、主イエスが選び、声をかけ、漁師であったペトロを始めとする者たちが、「主よ、お言葉ですから」と言って従った。そうして一人、また一人、と加わってその歩みが始まったのです。主の招きという主の働きがあって、弟子が生まれ、それが群れとなり、そしてその群れが教会となったのです。ですから、教会の働きは、主の働きに仕えること、これに尽きるのです。主の働きに仕えるということは、何も牧会にあたる牧師だけのことではなく、教会の群れにある者たちすべてに対して求められている事です。

マタイのこの大宣教命令は、直接に復活の主にあった弟子たちから、現在のわたしたちまでの広がり、そして継続を示しています。神の独り子であられる御子が、聖霊を与える者として働き、そしてまた神自らがお働き下さり、救いをお与えくださるのです。

主イエスの言われたお言葉をもう一度、見てみましょう。19節です。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」とあります。日本語で読みますと、四つの命令がなされているように読めます。つまり、「行きなさい」「弟子にしなさい」「洗礼を授けなさい」「教えなさい」です。しかし、原文を見てみますと、面白いことに気づかされます。命令されているのは、ただひとつです。「弟子にしなさい。」だけなのです。他の動詞は、いわば分詞形であり、「歩みつつ、洗礼を授けつつ、教えつつ」なのです。ここにも主に従うことの大切さ、つまり、弟子となるということの大切さ、それが救いであるということが述べられているのです。それ以外のことは、たゆみない歩みの中で繰り返されていくことなのです。「~しつつ」という言葉は流動的な状態です。私たち教会の歩み、信仰者一人一人の歩み、それは不完全なものでありましょう。「疑う者もいた。」と記されるように、主の招きのただ中にあって、疑い、迷い、揺れ動く、それが私たちの現実ではないでしょうか。しかし、そのようなことを主イエスは十二分にご存じであって、それを咎めることなく、弟子となることを目標に歩みなさいと言っておられるのです。

 

■「共にいる」ことの確信

そうして弟子となる私たちは、主イエスの教えを守ることを目指します。それは主と共にある生活であるからです。弟子たち、教会、わたしたち、が主イエスの教えを守るのは、主イエスが共におられるからです。「主イエス我らと共に」はこうして原因でもあり、結果ともなっていくのです。このマタイ福音書を閉じる言葉「わたしは世の終わりまで、あなたがたと共にいる。」この言葉は、この福音書全体の結論でもあります。マタイ風に申しませば、幼子の誕生において、この幼子がインマヌエルと呼ばれる。この名は「神は我々と共におられる」と主が預言者を通して言われていたことはこうして成就したのである、ということです。そして福音、良き知らせというものは主が終わりの日まで共にいてくださるということを確信させてくれるものであります。

「わたしは世の終わりまで、あなたがたと共にいる。」この言葉の力強さは、神が言ってくださるからです。たとえば、わたしたち人間が、この言葉を誰かに言ったといたしましょう。愛し合って結婚したばかりの若い夫婦の間ではこういった会話が交わされるかもしれません。「ずっと一緒にいるよ」「死ぬまで一緒にいようね」というような感じです。しかし、わたしたち人間が交わすこのような言葉は、あくまでも生きている間のことであって、有限なものです。ましてや、わたしたち人間の愛も有限であって、なんらかのことで憎み合う関係へと変わることもあるのです。その可能性を充分に含んでいるものです。主イエス我らと共に、神は我々と共におられる、これはそのような人間同士の約束とは根本的に異なり、絶対的な約束、無限の約束です。

そして、「世の終わりまで」という終わりは単なる終末を告げる言葉ではなく、むしろ完成なのです。終わりとは自然に終わるのではなく、神が終わらせるのであります。そして同時に、完成させてくださるということであります。世の終わりまで共にいてくださる主イエスは、共にいて完成させてくださる方なのです。神がその完成まで働かれる、その完成とは救いであります。神の救いの御業は、その終わりの時まで、絶えることはありません。そして「いつも」と訳されている言葉は、すべての日、という意味です。どの日もどの日も、来る日も来る日も、世界を完成へと向かわせるために、主イエス・キリストは共にいて働かれます。

私たち、主の僕、主イエスの弟子たちは、すべての民を弟子にしなさいというミッションを与えられました。それが可能となるのは、主イエスが共にいてくださるからであり、わたしたちの働きを助けてくださるからであります。伝道者パウロはコロサイの信徒への手紙の中で、この務めについて語っています。1章25節以下。「神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者になりました。世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。」パウロは確かに偉大な伝道者でありました。しかし、パウロがここで語ったことは、パウロに限ったことではなく、わたしたち皆、同じであります。それぞれの賜物によって、その形は違えど、わたしたちとパウロは主の弟子ということにおいて一致しているのです。そして、神が共にいてくださるという約束に例外はないからです。

 

■結び

このマタイによる福音書が、こうして伝道の勧めがなされて、それが絶対的な宣言に裏付けられていること、そしてその宣言をもって終わっていることは、まさに福音書としてふさわしいことであります。主イエスの時代から2千年、どれだけの信仰者がこの言葉に励まされ、力づけられて、歩みを続けてきたことでしょうか。2千年どころかそれ以前、主なる神は「わたしは必ずあなたと共にいる。」と言って、モーセを召し出しました。そしてその後、ヨシュアがモーセの後継者として召し出されたときも、モーセと共にいたように、あなたともにいる、と主なる神は言われたのです。神はその始まりからわたしたち人間を愛し、決して見捨てることなく共にいてくださっているのであります。

今年のアドヴェントは主のご降誕の喜びをこのマタイ福音書から聴き、そして今日、今年最後の日に、このマタイ福音書を締めくくる力強い宣言を与えられたことは大いなる喜びであり、慰めであります。この恵みを味わいつつ、主の年2024年も、主の弟子として共に歩んでまいりましょう。

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