説教題: 『人を裁くとき』
聖書箇所: 旧約聖書 詩編143:1-2
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書7:1-6
説教日: 2025年2月23日・降誕節第9主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
今日の箇所からマタイ7章に入ります。何度も繰り返しお話ししていますように、この5章から7章は主イエスの山上の説教であり、前回6章の最後で言われたことは、「神の国と神の義を求める」でありました。山上の説教最終章の7章では神の国と神の義を求めて生きるその日常生活においての生き方についての教えであります。
■人を裁くな
「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」主イエスはこのように言われました。「裁く」というと大袈裟な、と思われるかもしれませんが、私たちは簡単に人を批評したり、陰口を言ったりするわけです。自分の基準で相手を評価する、これはどなたも心当たりのあることだと思います。主イエスが「あなたがたも裁かれないようにするためである。」と言われたこのお言葉は、単なる倫理道徳的な意味ではありません。つまり、相手を裁いたらば、同じ裁きが返ってくる、だから相手を裁くな、自分も裁かれるということを覚えて慎重に、というようなことではないのです。私たちは神の国の住人とされている者たちです。この地においても御心がなりますように、と祈る者たちなのです。そのように祈ることが神の国と神の義を求めることでありますから、私たちがどのように生きればよいのか、それは裁き合いながら生きることではない、ということです。
■おが屑と丸太
しかし、主イエスは単に裁かなければそれでよいということではありません。続く3節以下を見たいと思います。そして1・2節では「あなたがたは」となっていましたのが、この3節以下では「あなたは」となっています。そしてこの3節以下の「兄弟」を正確に訳しますと「あなたの兄弟」です。当時、「兄弟」といえば、実の兄弟のみならず、同胞のユダヤ人をさす言葉であります。今の私たちにとりましても、「あなた」と「あなたの兄弟」という風に具体的に、今ここで聖書を開いている私たちに向かって直接に問いかけられているのです。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。」ここではおが屑と丸太という極端な対比によって語られます。人の目の中のおが屑にはすぐに気がつくけれども、自分の目の中の丸太には気がつかない。いくらなんでも丸太に気づかないなんてことはないだろうと思うかもしれませんが、そうではないのです。
私たちは聖書の中、サムエル記下12章において、ダビデがそうであったということを見ることができます。ダビデが部下の妻、バト・シェバを奪った出来事、そしてその部下、ウリヤを戦死させた有名な出来事であります。そのことは当然、主の目にかなわないことでありました。預言者ナタンがダビデのもとに遣わされます。ナタンが語った譬えは12章に記されています。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。/貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに/何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い/小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて/彼の皿から食べ、彼の椀から飲み/彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。/ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに/自分の羊や牛を惜しみ/貧しい男の小羊を取り上げて/自分の客に振る舞った。」それを聞いたダビデは激怒して、「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。」ナタンは「その男はあなただ。」とはっきり告げたのでした。イスラエルの最も偉大な王と呼ばれたダビデといえども、自分の目の丸太にはこのように気がつかないのです。
しかしながら、主イエスはなぜ、おが屑と丸太というものを引き合いに出して語られたのでしょうか。あまりにも大きな違いです。例えば、私たちが人のことをとやかく言える資格がある人間ではない、それぞれに欠けがあるのだから、人の欠けをあげつらうものではないということであれば、何もおが屑と丸太でなくともよいのではないでしょうか。主イエスがお話になっておられることはそんな単純な道徳の話なのでしょうか。おが屑と丸太、比べるまでもなく、圧倒的に丸太の方が大きいものです。おが屑のような小さな過ちと丸太のような大きな過ち。大きな過ちが自分にあって、小さな過ちが兄弟にある、と主イエスは言っておられます。この指摘に私たちはなかなか納得ができないものなのです。つまり、私たちが人を裁くとき、私にも欠点、過ちはあると思うけれども、相手の過ちの方が大きい、相手の方がもっと悪い、私の方がましだから、言う資格がある、裁く資格がある、と考えているからです。ですから、もし、主イエスが「兄弟の目にある丸太は見えるのに、なぜ自分の目の中にあるおが屑に気づかないのか。」とおが屑と丸太を逆にして言われたのであれば、すんなり納得するでありましょう。あなた、つまり自分にも小さな過ちはあるよね、という指摘であります。しかし、主イエスはそうは言われなかった。あなたの目には丸太がある。それでいて人を裁くことができるのか、と問うておられるのです。
■教会においても
私たちも教会において兄弟姉妹が与えられています。血縁関係にあるわけではありませんが、同じ信仰を持ち、同じ主の僕として、主イエスにおいて兄弟とされた者たちであります。しかしながら、私たちは教会においてさえも、相手のことが気になって、喜びを持って奉仕できない時があります。小さなことでも誰かを裁くことがあります。主イエスが語られたとき、弟子たちもそうであったのかもしれません。主イエスと共に歩み、いつも側で御言葉を聞き、直接の教えをいただいている弟子たちでさえも、互いに牽制したり、相手を批判したりしていたのでしょう。マルコ9:34には「弟子たちは誰が一番偉いかと議論し合っていた。」とも書かれておりましたから、自分が一番偉いということを主張するためには、他の人を裁いたことでありましょう。そのような弟子たちの姿を主イエスは見ておられました。主イエスは弟子たちに、そして私たちに、「人を裁くな。あなたがたも裁かれないために。」と言われるのです。
■神の裁き
さて、この「あなたがたが裁かれないために。」これが主イエスがこの教えを語られる大きな理由です。それは神の裁きについてであります。神が私たちを裁かれる、という事実に目を向けよということです。神は愛と慈しみの神であられるのと同時に、正義の神、裁きの神でもあります。私たちが人を裁くとき、どんな目で相手を見ているでしょうか。決して優しさに満ちて、などということはないでありましょう。トゲトゲした、相手を見下す目つき。人を裁くときの私たちの目はとても厳しいものです。相手の小さな過ちを見落とさず、おが屑や塵を数え上げるようなことをするわけです。そのように相手の欠点や問題を指摘するときの思い、そのときの目で、神があなたをお裁きになるのだ、ということを主イエスは私たちに気づかせようとしておられるのです。それゆえに、まずは自分の目の丸太を取り除け。」と言われるのです。とはいえ、私たちは自分で丸太を取り除くことはできません。主イエスによって罪赦された者であることをわきまえ、主イエスの赦しの前に立ち、主イエスに丸太を取り除いていただき、取り除いていただいた者として歩むことで、私たちに謙遜の心が与えられるのではないでしょうか。「あなたの目のおが屑も主イエスが取り除いてくださる。共に主イエスの赦しの前に立とう。」という神が間に立ってくださる兄弟との関係が生まれるのです。そこに神の国と神の義があります。
パウロはガラテヤ6:1でこう言っています。「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。
互いに重荷を担いなさい。」こうして自分の思いや、自分の尺度で人を裁くという裁きでなく、祈りによって与えられる赦しによる互いの平安が与えられるのです。私たちの周りには誘惑が満ちており、簡単に人を裁くという傲慢の罪に陥るのです。それゆえにパウロは「自分に気をつけなさい」と念を押したのでありましょう。
■豚に真珠
さて、最後の6節の御言葉にも触れたいと思います。「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。」この箇所から「豚に真珠」という言葉が生まれたのは有名な話です。一見、5節までの御言葉と繋がりがないように思えます。この箇所は確かに、もともと独立した言葉がこの位置に入れられたのではないかと考えられています。以前の口語訳聖書、こちらは今のような小見出しがなく、改行と一文字下がった形で区切りがつけられており、この6節はそのようになっています。しかし、新共同訳、また協会共同訳でも一つのブロックになっておりますから、そのような文脈で読むことになります。ここで語られている譬え、それ自体はわかりやすいものでありましょう。価値のあるものを価値のわからない人に与えたところで無駄にされてしまう、という意味であります。まず、神聖なものとは何であろうか、と考えますと、広く言えば、神の国と神の義と言えるでしょう。今日の聖書箇所で考えませば、丸太を取り除くということでありましょう。ですから、それは私たちの目から丸太を取り除いてくださった神の恵みということです。私たちはそのような神の恵みを経験し、それを人々と分かち合いたいと思う、この神の力を告げて、罪の赦しが起こることを願います。これが伝道であると理解しています。しかし、そのようにして私たちが人の目にあるおが屑を取り除こうとしたとしても、いつでもそれが喜ばれるわけではないということです。宝が宝として扱われないということを私たちは経験するのです。しかし、私たちは嫌がる人に無理やり首根っこを捕まえるようにして神に向けさせることはできないのです。自分たちの力に限界があることを弁える。それでよい、と主イエスは言っておられるのです。さらには今、そのように神聖なもの、そして真珠の価値を見ることができず、理解することができない人を裁いてはならない、ということです。私たちも丸太で目が塞がれていた者たちであります。共に主の赦しの十字架の前に立つことができる日が来ることを信じて、祈り続けるのです。
■結び
私たちは誘惑に弱い生き物です。私たちの心も目も、そして行いも曇りがちです。そのようにして神から離れ、神を忘れる私たちでありますけれども、主イエスの十字架という私たちの赦しの原点に立ち帰るとき、主イエスの赦しのまなざしに守られていることを知るとき、裁きよりも赦しのうちに生きることができるのです。教会に仕え、兄弟姉妹に仕え、人に仕えることができるのではないでしょうか。主イエスの十字架の赦しに生きるということが、現実からかけ離れてしまわずに、私たちの現実の生活の中に染み込むものとしてくださるように、祈り願いたいと思うのです。私たちの言葉、行い、全てが十字架によって罪赦されたものとして相応しく整えられますように、と祈り願いたいと思います。
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