説教題: 『主イエスの逮捕と弟子たちの逃亡』
聖書箇所: マルコによる福音書 14章43~52節
説教日: 2023年10月1日・聖霊降臨節第十九主日
説教: 大石 茉莉 伝道師
■はじめに
今日、与えられました御言葉は、とうとう主イエスが捕らえられるという場面であります。主イエスと弟子たちは過越しの祭りの食事をし、オリーブ山へ、ゲッセマネと呼ばれる場所へと向かい、そこで主イエスは、恐れと悲しみの中で、苦悩の祈りを捧げられたのでした。そして主イエスに従ってきた弟子たちは、その苦しみの中にある主イエスと共に祈ることが求められていたのに、彼らは眠ってしまったのでした。主イエスは何の罪もないにもかかわらず、お一人ですべての人の罪の清算のために、十字架へとお架かりになる、それが父なる神の御心でありました。そのことを主イエスは自らも祈られ、苦悩の祈りの闘いを終えられました。そして主イエスは弟子たちに向かって言われました。「時がきた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」「わたしを裏切る者」、それはイスカリオテのユダのことであります。マルコはこのユダのことを「十二人の一人であるユダ」とわざわざ但し書きをつけております。10節にも同じ表現がありました。十二弟子、それは主イエスがお選びになり、主イエスの権能を授けた弟子たち。特別と言えるその弟子の中から裏切り者がでた、そのことを強調するかのように「十二人の一人であるユダ」とマルコは言います。しかしそれは特別なことではなく、眠ってしまった弟子たち、のちに三度、主イエスを知らないというペトロ、そこにいた弟子たち誰もが持つ可能性であることを示しているのです。
■人間の計画と神の計画
さて、そのユダが、祭司長、律法学者、長老たちを率いてやってきたのでありました。祭司長、律法学者たちは、たしかになんとか計略をはかって主イエスを捕えて亡き者にしようと考えておりました。しかし、彼らは民衆が騒ぎ出すといけないから祭りの間はやめておこうと考えていました。14章2節にそのように書かれておりました。しかし、今、祭りのただ中に、主イエスを捕えるという場面展開を迎えています。そのことは何を意味しているのでしょうか。主イエスが十字架にかかり殺され、そして復活するというこの一連の出来事は祭りの間に起こりました。祭司長や律法学者たちの意に反してそうなった、それは神のご計画であるからです。ユダや、祭司長たちという闇の力に捕らえられた人間の計画は、闇から闇へと葬られるのではなく、むしろ最大限に人々の前に晒されることとなったのです。私たち人間の罪深さ、ずるさ、弱さ、それら人間の持つ本性をすべて見せつけるかのようにして、主イエスは十字架にお架かりになりました。神は私たち人間の罪深さを救うために、私たちの罪の深さの極み、どん底まで降りてゆかれたのです。それが主イエスの十字架でありました。こうしてだれ一人救われない者はない、神の救いはすべての人のためのものであるということが示されたのです。闇を恐れる必要はなく、どんなに深い闇にあっても神の救いの届かないところがないことがこうして示されたのです。これが神の救いの示し方であり、それが主イエスによって届けられた福音なのです。
■裏切りの接吻
主イエスが弟子たちに話をしている間に、近づいてきたユダは「先生」と言って主イエスに接吻しました。「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れていけ。」と合図を決めていたからであります。当時の挨拶として、接吻するというのは、普通のことでありました。ユダだけでなく、他の弟子たちも毎日、主イエスに対して、親愛の思いを込めて、そして尊敬の思いを込めて、「先生」「ラビ」と言って接吻をしていたのであります。師なる主イエスと弟子との間の愛と心を交わす挨拶がここでは裏切りの合図として使われました。ユダは一時の気の迷いなどではなく、明らかな意図をもって、むしろ先頭に立って主イエスを裏切り、主イエスに敵対する者となりました。
しかし、主イエスはこのユダの裏切りの接吻をお受けになりました。主イエスはすでに過越しの食事の時に、ユダが自分を引き渡すことを知っておられ、弟子たちの前ではっきり「あなたがたの中から、わたしを裏切る者が出る」と予告されました。マルコには記されておりませんけれども、ヨハネによる福音書ではその食事の際の主イエスからの予告の言葉を聞いたユダは「出ていった」と13章30節に記されております。その後、主イエス一行は連れ立ってオリーブ山へ出かけて行ったわけですから、その時、既にユダはその列にいなかったことになります。主イエスのゲッセマネでの苦悩の祈りの時も、当然ながらユダはいませんでした。そして「時がきて」弟子であったユダは、向こう側の人の先頭に立ち、近づいてきたのです。その上での接吻であります、それにもかかわらず、主イエスはユダの接吻をお受けになりました。顔を背けてもよさそうです、拒否してもよさそうなものです。主イエスはユダの接吻をお受けになることで、変わらぬ愛を、弟子として受け入れておられることを示されたのであります。
■剣と棒
ユダの合図とともに人々が主イエスを捕えました。そしてその時、「居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。」と47節にあります。「居合わせた人々のうちのある者」というのはとても変な表現に聞こえます。大祭司、つまり主イエスを捕えに来た人々に対して攻撃したのでありますから、つまりは主イエスの弟子たちの中のだれか、ということでありましょう。それにもかかわらず、「弟子たちの内の一人が」とは書いていないのです。なぜでしょうか。そしてまた、この攻撃の意味するところは何でしょうか。主イエスはご自分に向かってきた人々に対して何ら攻撃的な感情も行動もありませんでした。むしろ、穏やかな様子でユダの接吻をお受けになったのです。それにもかかわらず、弟子たちの中の誰かが剣を抜きました。それは主イエスを守るためではなく、自分を守るため、その場の状況に対して、恐れと不安でいっぱいになった、それゆえの行動でありましょう。ほんのひと時前にペトロを始めとする弟子たちは、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたにお従いします。」と声を揃えて言った者たちなのです。主イエスが捕らえられるのであれば、共に進み出て一緒に捕らえられる、彼らの言った言葉を行動で示すとしたら、そうあるべきでありましょう。それが彼らは、主イエスが捕らえられた時、同じこと、同じように捕らえられることが自分の身に及ぶかもしれないという恐怖から、剣を抜いたのです。ですからこれは勇敢な行動ではなく、彼らの恐れ、臆病な気持ちの表れです。主イエスの弟子とは主イエスの歩まれる道を歩む者、主イエスのお従いする者たちのこと。ですから、ここで弟子たちは、同じ道を歩む者たちではなく、ただ居合わせた人々になってしまっている、マルコはそのことを明らかに意識してこのように表現しているのです。
そして主イエスは言われました。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕えに来たのか。」主イエスは子ろばに乗って、エルサレムに入られました。軍馬に乗って武装して入られたのではないのです。毎日、神殿で教えておられました。そして主イエスが望まれていたことは、父なる神の御心のままに、彼らにご自身を引き渡すことでありました。彼らは主イエスが神殿で教えておられた時には、捕らえることはしませんでした。本来なら、その時に捕らえることなどた易いことだったのです。しかし彼らは民衆が怖かった。そして主イエスの権威が怖かった。主イエスが自分たちの権威を脅かす存在であるという思い、民衆を引き付けるという妬みが憎悪になり、そして殺意にまで至り、武力行使という形になりました。夜中に人目を避けて、剣と棒を持ってきたのは、主イエスの御業に示される権威が恐ろしかったのです。彼らは自分たちの心の恐怖を鼓舞するかのように、剣と棒を持ってきたのでありました。
■逃げ去った弟子たち
そして、時ここに至り、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」50節に記されているとおり、主イエスに従う者であった弟子たちは、主イエスと共にただそこに居合わせる者になり、そして離れ逃げ去ったのでありました。弟子たちはみんな、つまり、一人残らず、主イエスを見捨てていったのであります。私たちはこのマルコ福音書を1章から読んでまいりました。その始まりから、1章の主イエスがガリラヤで伝道を始められたその時から、弟子として招き、育んでこられた主イエスのお姿を見てまいりました。主イエスは言葉で、そして御業という行いで、弟子たちに教えて来られました。それと同時に、教えても教えても様々な失敗を繰り返し、理解しない弟子たちの姿も見てまいりました。ゲッセマネでの主イエスのお姿は、絶対的な孤独を表していました。その時、心を合わせることができず眠ってしまった弟子たちは、ここで決定的な形となって表れることになりました。
しかし、主イエスはすでに弟子たちに言っておられます。27節、「あなたがたは皆わたしにつまずく。」神は羊飼いを打ち、羊は散り散りになる。しかし、私は復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。それは引き続き、私はあなたがたの羊飼いとしてあなたがたの群れを養う。そのように言われていたのであります。それは今ここでの弟子たちにとってはつながらないことでありますけれども、その後、どうなったか、そしてその後の2千年がどうなったかを知っている私たちにとっては確信をもって理解できる事柄であります。この時の弟子たちにとっては希望も何もないあの夜でありましたけれども、あの夜があったからこそ、今の私たちに希望が与えられているということに感謝いたします。
さて、今日の御言葉の最後、51節は唐突に、不思議な言葉が記されております。「一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕えようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。」この一文からは沢山の疑問がわいてまいります。一人の若者とは誰か?素肌に亜麻布をまとって主イエスについてきたとは何を表しているか?なぜ人々はこの若者を捕らえようとしたか?なぜ逃げたのか?亜麻布を捨てて裸で逃げたとはどうしたことか?この一節はマルコ福音書にしか記されていません。そこから長年にわたって、さまざまな推測がなされてきました。様々な注解書を見てみても、確証的なことはわからないままです。ですから、私が語りますことは、あくまでも一つの推論でしかありません。私の考えはこうであります。このマルコ福音書が書かれましたのは、福音書の中で一番古く紀元65年頃であろうと言われております。この若者をマルコと考えますと、主イエスが公生涯を終えられる頃、マルコは少年として主イエスに接しており、最後の晩餐の時も近くにいたのでありましょう。注解書によっては、この最後の晩餐がマルコの家で行われたと考えるものもあります。彼はもう眠る時間でありましたから、裸の身体に亜麻布をまとい、つまり寝巻の恰好でありました。主イエス一行が出ていかれた時、彼はそのままの恰好でついて行き、一部始終を見ていたのです。そして主イエスの逮捕という大きな出来事が起こり、彼は驚きました。マルコはその夜のことを決して忘れることはできませんでした。自分の名前を入れるというような大それたことはできなくとも、自分が少年であった時、私もそこにいた目撃者であるということを伝えたかったということではないか、と考えることができるのです。そしてこの若者がマルコだとして、自分が目撃者であると伝えるだけでなく、後半にあります「裸で逃げ去った」ということに大きな意味があります。マルコは後にこの福音書を記し、教会の指導者でありました。その初代教会の指導者であるマルコが、マルコ自身が、主イエスが捕らえられた時、自分も裸で逃げた、主イエスを見捨て、自分の命が惜しいがゆえに主イエスに従うことができなかったのだという、告白の意味が込められていると読むことができるということです。
■結び
この若者が裸で逃げたように、主イエスとの出会いは私たちの心、私たちの様々な思いを暗闇から光のもとにさらけ出し、明らかにします。裸にします。私たちの弱さ、狡さ、自己弁護、逃げの姿勢、すべてが露わになります。ペトロも、他の弟子たちも、あれだけ死をも覚悟、共に参りますと力強く語った彼らは一人残らずその場からいなくなりました。しかし、主イエスはそのような弱く、狡く、愚かな、逃亡した者たちのためにお一人で十字架にかかり、すべてを清算してくださいました。主イエスのそのようなお姿とは対照的に、今日ここに記されております弟子たちの姿はいずれも情けないものでありました。しかし、これらの弟子たちの姿がどのようなものであろうとも、それを超えて成し遂げられた救いの御業のすばらしさを語らずにはいられないということです。弟子たち、私たちの闇がどんなに深くとも、輝く光は決して妨げることはできず、闇が深ければ深いほど、光は輝くのです。それゆえに私たちはこの出来事を福音として受け取ることができるのであります。感謝いたします。
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