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『主イエスの先駆けとして』 2022年10月23日

説教題: 『主イエスの先駆けとして』 聖書箇所: マルコによる福音書 6章14~29節 説教日: 2022年10月23日・降誕前第九主日 説教: 大石 茉莉 伝道師

■はじめに

「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。」

マルコによる福音書の第1章2節です。洗礼者ヨハネが主イエスの前に使者として遣わされました。ヨハネは救い主、主イエス・キリストのための備えとして遣わされ、罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。多くの人々が、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、そしてヨルダン川で洗礼を受けたのです。ヨハネは言います。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。」ヨハネの元にいらした主イエスはヨハネから洗礼を受けられました。このことも第1章に記されております。そして主イエスが「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と宣教活動を始められた時、ヨハネは獄中に捕らえられておりました。主イエスはそのようにヨハネと入れ替わるようにして宣教活動を始められたのです。

そして今日の御言葉の始まり14節では、すでに洗礼者ヨハネは死者となっていたことが書かれています。誰によって捕らえられ、なぜ死を迎えることとなったのか・・・から見てまいりたいと思います。


■ヘロデ王

ヨハネを捕らえたのは、ヘロデ王でした。ヘロデと聞きますと、マタイによる福音書の2章の主イエスのご降誕の時に、2歳以下の男の子を皆殺しにしたヘロデ王が思い浮かびますが、このヘロデ王とヨハネを捕らえたヘロデ王は同じではありません。主イエスのご降誕の時、男の子を皆殺しにしたヘロデは、ヘロデ大王と呼ばれています。このヘロデ大王は内紛に乗じてユダヤの総督となりました。この時代、パレスチナはローマの支配下にありましたが、ヘロデ大王は建築などで功績をあげました。しかし民衆を支配する政策はひどいもので、民衆の中には大きな反発がありました。ヘロデ大王は、義理の弟、そして妻の伯父、妻の母、そして妻までも殺害するという残忍な性格の持ち主でもあったのです。そしてそのヘロデ大王には息子がおりました。アルケラオス、フィリポス、ヘロデ・アンティパスです。ヘロデ大王が紀元4年に死去すると、その領土は息子たちに3分割されました。アルケラオスはユダヤとサマリア地方を、フィリポスは北ヨルダン地方を、そしてヘロデ・アンティパスはガリラヤ地方とペレア地方を治めることとなりました。このガリラヤ地方を治めることとなった領主、ヘロデ大王の息子であるヘロデ・アンティパスがヨハネを捕らえたヘロデであります。


■ヘロデ・アンティパス

ヨハネが捕らえられたその理由が今日の御言葉の17節以下に記されております。「実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻へロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでおいた。ヨハネが「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。そこでヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、またその教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。」

ヘロデ・アンティパスは自分の兄弟の妻へロディアを横取りしたのです。ヘロデ・アンティパスはナバテア、現在のヨルダン西部を中心に栄えた王国の王女を妻にしておりました。しかし、離縁して兄弟の妻であったへロディアを妻にしたのです。このことをヨハネは批判しました。律法にかなっていない、不道徳であると言ったのです。

このヘロディア、そしてその娘のことはオペラ、小説、音楽などの主人公として描かれております。聖書には名前は記されていませんが、ヨセフスと言う人の書いた『ユダヤ古代誌』にはヘロディアの娘としてサロメという女性のことが著されているため同一人物とされています。

さて、このヘロディアがヨハネを恨み、殺してしまいたいと願っていたができないでいました。それはヘロデが、ヨハネの教えに喜んで耳を傾けていたからです。ヘロデは捕らえ、監禁したヨハネに会い、ヨハネが正しい人であることを知り、そして保護していたのです。さてヨハネはヘロデに何を語ったのでしょうか。


■ヨハネの教え

ヘロデが兄弟の妻を奪って結婚したこと、このことが律法で許されていないと指摘したヨハネですが、「それが罪だ」と言われて、当惑するようなヘロデではありません。そんなことは百も承知なのです。「それがなんだ」「だから何だというのだ」というように開き直った事でしょう。ヘロデの周りはいつもヘロデにへつらい、ご機嫌をとろうとする人々ばかりでした。しかしヨハネは違いました。ヨハネはヨルダン川で人々に語ったのと同じように、ヘロデに対しても罪の赦しを得させるための悔い改めを宣べ伝えたのです。権力者におもねることなく、早く悔い改めなさい、と愛を持って語るヨハネの言葉にヘロデの心は動かされました。ヨハネの言葉に心を揺さぶられたのです。全く知らなかった新しい世界が示され、ヘロデは当惑しながらも、ヨハネの言葉に引き込まれていました。ヨハネの言葉は神のみ言葉です。神のみ言葉は、新しい出会いとなり、人にまったく全く新しい世界を見せてくれるのです。そこに一歩踏み出したならば、それまでとは全く違う生き方をすることになります。人はそのことに当惑を覚えますが、同時に喜びがあることも感じるのです。ヘロデも当惑しながらも、その教えを喜んで聞いていたとあります。ヨハネの言葉によって、ヘロデも神の御言葉に触れ、御言葉を聞く喜びを知る者となっていたのです。

パウロは獄中からテモテに書き送った手紙でこのように言っています。テモテへの手紙Ⅱ2章9節です。「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。」ヨハネも牢に監禁されながらも、神の言葉を語りました。それは何にも支配されず、何の制約も受けることなく、力強い生きた言葉としてヘロデに届いたのでした。


■ヨハネの死

しかし、ヨハネを何とか殺してしまいたいと思っていたヘロディアにとって良い機会が訪れました。ヘロデが自分の誕生日の祝いとして宴会を催したのです。21節以下に書かれております。そしてヘロディアの娘が踊りを披露いたしました。そしてヘロデと客人を喜ばせたのです。「欲しいものがあれば何でも言いなさい。褒美としてなんでもやろう。望むなら、この国の半分でも与えよう。」と固く誓ったと聖書は記しています。そして母へロディアに入れ知恵された娘は「洗礼者ヨハネの首を」と言ったのです。ヘロデは心を痛めたものの、誓ったことではあるし、客の手前、娘の願いを退けたくなかったので、ヨハネの首をはねるよう命じたのでありました。

ここで注目したい言葉があります。ヘロデが娘に「欲しいものがあれば言いなさい」と言ったとき、マルコはヘロデと書かず、「王」と記しています。この22節から27節は「ヘロデは」ではなく、「王は」となっているのです。ヘロデは、ローマの帝国が支配するガリラヤの領主でした。領主といっても、ローマ帝国から統治を任されているだけの監督者です。しかし、彼はすべてを手にしているかのように、「なんでもやろう」と言うのです。ましてや、「この国の半分でもやろう」と言うのです。ヘロデにはそのような権限はないにもかかわらず、ローマ皇帝の持つ権限を、自分の権限のように語っています。ここには権力者の驕りが示されます。この22節において、「ヘロデ」から「王」に切り替わったとたんに、ヘロデは王として振る舞おうとしています。マルコは意図してこの箇所で「王」と言う言葉を使っているのです。マルコが「王」と呼ぶ人物は、王らしく振舞おうとするが、かえって王を演じているに過ぎないことを明らかにしています。絶大な権力を誇る王であるようなことを言いながら、自分が正しいと思うことを貫くこともできず、客人を気にし、ヘロディアのいいなりになり、その場の状況に押し流されることになり、ヨハネを殺すこととなってしまいました。これが洗礼者ヨハネの死に至る顛末です。


■ふたたび神の言葉が

さて、マルコはなぜ、この洗礼者ヨハネの死の出来事を、6章のこの位置に置いたのでしょうか。今日の御言葉の始まり14節にはこう書かれています。「イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。」その直前には12人を派遣し、彼らが多くの悪霊を追い出して、多くの病人を癒したことが記されていました。主イエスの宣教活動は今や、主イエスだけでなく、弟子たちへと広がっていったのです。そしてそのような主イエスのことを、「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返った」とか「エリヤだ」、「昔の預言者のような預言者だ」など様々なことをいう人々の声はヘロデの耳に入ることとなりました。ヨハネの再来であるという人々の言葉を聞いたヘロデは、恐れを抱きました。「わたしが首をはねたあのヨハネが生き返ったのだ。」と言う言葉からは、ヘロデがヨハネを殺してしまったことを悔やんでいるヘロデのささやかな良心を聞くことができます。ヘロデはガリラヤ地方の領主でありますから、主イエスについての人々の言葉だけでなく、主イエスの語られた言葉も届いていました。主イエスのお言葉が、かつて洗礼者ヨハネから聴いた言葉と重なったのです。ヨハネは埋葬されて、もはやヨハネの口から神の言葉は語られることはありませんでしたが、主イエスの口を通して、ヨハネよりさらにはっきりと神の言葉が語られたのです。


■結び

今日のこの聖書箇所を境目として、主イエスの宣教活動がより大胆に、より大きな規模となっていきます。30節以降に有名な「五千人の給食」が記されていることがそれを物語っています。

マルコにとって、ヨハネは主イエスの先駆けでありました。ヨハネのたどった道をこのように示すことで、マルコは主イエスがたどられるこの先の道を暗示しているのです。その道は受難と死の道であります。

この洗礼者ヨハネの死に至る経緯、その成り行きは主イエスが時の指導者ポンテオ・ピラトによって十字架を宣告された時と重なります。ヘロデとポンテオ・ピラト、二人の支配者は二人のユダヤ人宗教家、ヨハネとイエスに惹かれました。それゆえに、命を助けようという気持ちもないわけではなかったのです。しかし、二人とも自分の対面を守り、自分には権力があるようにふるまい、そしてその場にいた者たち、群衆を満足させようとしました。結局は周囲の勢いに操られて、二人の義人を殺すことになったのです。こうして二人の指導者は神の言葉を殺してしまいました。しかし、神の言葉を殺したのは、ヘロデ、ピラトだけではありません。民衆もまた、イエスを殺せ、十字架につけよ、と叫び、神の言葉を殺したのです。そしてこの二人に示されている姿は、決して横暴な権力者だけでなく、私たちの姿であります。人間はいとも簡単に、主を裏切ってしまう弱い存在なのです。

この洗礼者ヨハネの宣教と死は、この先に示される主イエスの宣教と受難の先取りです。そしてまた、ここには復活もすでに示されているのです。人々、そしてヘロデは主イエスのことを「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。」と言っているのです。死者の中からの生き返り、それはまさに復活であります。主イエスのご復活はこのように示されているのです。聖書は私たちにヨハネを通して、主イエスを指し示し、そして主イエスの宣教、ご受難、ご復活を通して、神の言葉を語り続けてくれるのです。神の言葉はとこしえに絶えることがありません。

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