『主イエスに従う』 2025年4月27日
- NEDU Church
- 4月28日
- 読了時間: 10分
説教題: 『主イエスに従う』
聖書箇所: 旧約聖書 詩編1:1-3
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書8:18-22
説教日: 2025年4月27日・復活節第2主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
2025年度の教会標語は先週行われました教会総会でお知らせいたしました通り、詩編第1編1節前半と2節「いかに幸いなことか/主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人」といたしました。現在、私たちはマタイによる福音書から続けて聴いており、今日は8章18節以下「弟子の覚悟」という小見出しがついたところです。この主イエスのお言葉は当時従っていたペトロたちだけではなく、現在の私たちに向けて語られたお言葉でありますから、今日はこの箇所と、これから1年間、常に覚えたい教会標語と重ね合わせ、御言葉に耳を傾けたいと思います。
■群衆から離れて
今日のマタイ18節で、明らかに示されていることがあります。ここまで5章から8章まで主イエスは大勢の群衆に囲まれて、小高い山に登り、皆に教えを話されました。5章の始まりでも大勢の群衆が近くに来たことが示されておりましたし、その小高い山を降りられた8章の始まりでも大勢の群衆が従ってきた、とありました。さて、今まではそのように主イエスを取り巻く人々、大勢の群衆が周囲にありました。主イエスもそれをよしとされていました。しかし、今日の18節で主イエスはこのように言っておられます。「イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた。」つまり、ここで大勢の群衆と弟子たちとを明らかに分けることを意図しておられます。さて、何で弟子たちを、向こう岸に行くように命じられたのでしょうか。ここまで主イエスはあちらこちらで教え、語り、癒しをなさって、大勢の群衆が主イエスについてきていました。それをさらにお続けになれば、ますます主イエスについてくる人は多くなったことでありましょう。しかし、ここで主イエスは群衆たちと離れて、「向こう岸」に弟子たちと行こうとされたのです。この「向こう岸」とは28節によれば、ガダラ人の地方ということになります。聖書巻末の地図6.新約時代のパレスチナを見ますと、ガリラヤ湖の東南、地図ではガリラヤ湖の右下、デカポリスとして囲まれたところに見つけることができます。主イエスと弟子たちはカファルナウムにおられたわけですから、まさに向こう岸、対岸です。日本で一番大きな湖である琵琶湖は圧倒的な大きさ670平方キロメートルで、第2位の霞ヶ浦が167平方キロメートルです。ガリラヤ湖はこの霞ヶ浦とほぼ同じ大きさです。そのようにイメージしますと、ガリラヤ湖がいかに大きいかがわかります。時は二千年前でありますから、その対岸へ行くというのは、まさに異国、この地から離れて、外国へと旅立つというようなことでありました。
■主イエスと同じ舟に
この後の23節を見ますと、主イエスが舟に乗られ、弟子たちも共に乗ったことが記されています。ですから、ここで弟子たちと共に向こう岸へ行く、群衆から離れて湖へと漕ぎ出すということは、本当に主イエスに従ってくる者を見極めようとされたということであろうと思います。群衆の中には、教えよりもただ癒しを求めている者もありましたし、なんだか良さそうだ、みんながついていくから自分も、というような者たちもいたのでありましょう。なんとなくついていくというような曖昧な人も多かったのです。しかし、主イエスと同じ舟に乗り込むということは、今までのようにカファルナウムの町の中で主イエスのいかれるところにぞろぞろとついていくというようなわけにはいかないのです。主イエスに従うということは、主イエスと同じ舟に乗るということです。最初の弟子、シモン・ペトロとアンデレが網を捨てて従ったように、ヤコブとヨハネが舟と父親を残して従ったように、そこには新たな一歩があります。今の生活、今いるこの地、陸から離れるということは、このお方を信頼してついてゆくという決心、覚悟が必要なのです。主イエスが舟でこの地を離れる、というその行為には、本当に私に従って来る者は誰か、という問いと招きがなされているのです。
■律法学者の申し出
さて、そのような状況の中で、ある律法学者が主イエスに近付いてきて、そしてこう言いました。「先生、あなたがおいでになるところなら、どこへでも従って参ります。」私もあなたと同じ舟に乗って向こう岸へ参ります、という申し出です。この人はそれまでは大勢の群衆の中の一人として、主イエスの教えを聞き、癒しの御業を見ていたのでありましょう。このような群衆の中に律法学者がいたということは驚きであります。律法学者は神がご自分の民イスラエルにお与えになった律法を研究し、そしてそれを守ること、それが神の民として生きることであると教えていたわけですから、そのような立場にある人が、主イエスの教えに従うということは、律法よりも主イエスの教えが神の教えに適うものであると認めるということです。ここまで読んでまいりましたマタイ福音書には直接的な主イエスと律法学者の対立はまだ記されておりませんけれども、主イエスの山上の教えの中で「『あなたがたも聞いているとおり・・・』と命じられている。しかし、私は言っておく」という表現が何度も出てまいりました。つまり、これは律法ではこのように書かれているが、私の教えはこうである、という律法と対立するものをお示しになっておられたわけです。マルコ福音書ではその早いうちから、安息日に主イエスが手の萎えた人を癒されたことで、ファリサイ派の人々が「どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。」とありますように、律法学者たちは主イエスの教え、行動、全てを苦々しく見ていたに違いないのです。ですから群衆の中に律法学者がいたこと、そしてまたこのような申し出をしたのがこの人であったことは注目すべきことでありましょう。しかし、主イエスは律法学者の申し出に対して、とても厳しいお言葉を返されました。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
■律法学者の思い
あなたについていきます、と申し出た律法学者に対して、主イエスはこのような厳しい御言葉を返されました。そもそもこの律法学者はどうしてこのように申し出たのでしょうか。律法学者は、律法を守ることによって神の民としてより正しい者となり、そのようにして自分を高めてゆくことによって、神の祝福をより多く受けることができると考えています。彼は主イエスの教えを聞き、その御業を見て、主イエスに従うことで更に自分を高めることができると思ったのでありましょう。そのためには苦労も厭わず、努力もしなければならないであろうが、より良い人間になるためにはそれは必要なことであると思い、そのような覚悟があることを表明したのでありました。しかし、主イエスは「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」このお言葉を表面的に聞きますと、私に従ってくるのは辛く苦しい大変な生活であるというように聞こえますけれども、主イエスが意図しておられるのはそのようなことではありません。
■空の鳥をみよ
「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。」という主イエスのお言葉から、山上の説教に戻りたいと思います。6章26節以下に「空の鳥をよく見よ」と書かれていました。その意味は、鳥は種も蒔かず、刈り入れもせず、そして倉に納めもしないけれども、天の父なる神はそのような鳥たちを養ってくださっているということでした。また、狐や他の動物たちは皆、神の養い、守りのうちに生きている、それぞれの生を神に委ねているということです。しかし、人間はどうであるか。「人の子には枕する所もない」つまり、何を食べようか、何を着ようか、と思い悩む。そのような不安や心配、思い煩いで安心して眠ることができないということが、言い表されていました。それはなぜなのか、といえば、人間が自分で自分をなんとかしようと考え、神よりも自分を頼りにし、自分で自分を生かし、自分で養おうとしているからです。律法学者の考えは更に自分を高めるため、自分の人生をより良くするため、安心を得るための手段として主イエスに従おうと思ったということです。神に委ねるのではなく、自分の力によって安心を勝ち取ろうとする考え方は、結局は思い悩みから解放されることはありません。本当の平安はないのです。この「人の子には枕する所もない」とは、神に委ねるのではなく、自分で安心を勝ち取ろうとする私たちの姿を表している言葉なのです。
■人の子・イエス
そしてこの「人の子」という言葉は、主イエスがご自身のことを指す言葉として使われています。ですから、「人の子には枕する所もない」と主イエスご自身が言われたその意味は、「私こそがあなた方が待ち望んでいる人の子、救い主、メシアである」という宣言でもあります。罪に捕らわれ、平安を得ることのできなかった私たち人間のために、主イエスはこの世に来てくださり、そして私たちの思い悩み、苦しみを背負ってくださいました。今日の御言葉の直前17節「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」というイザヤの御言葉の成就として主イエスが来てくださった、とある通りです。私たちは自分の力、自分の思いという人間の業によって生きようとします。そしてそこにあるのは、不安と苦悩、苦しみ、思い煩いです。しかし、自らの力ではなく、ただ神に委ねて生きる、そこには、主イエスが共にいてくださり、共に生きてくださって、私たちは天の父の養いのもと、神の愛と、恵みをいただくことができるのです。あなたの苦悩は私が背負う、だから、ただ私に従いなさい。これが主イエスが律法学者に言われた御言葉の真の意味でありました。しかし、自分の力によって生きようとする律法学者にとっての救いは、そのようなものではありませんでした。自分を向上させ、誇りを持って生きようと考えていた彼にとって主イエスのお答えは期待外れであり、彼は去っていくことになるのです。
■父の葬り
更に主イエスは弟子の一人の言葉にも厳しいことを言われました。「主よ、まず父を葬りに行かせてください。」親を丁寧に葬ること、これは人間としての基本であり、愛に満ちたものであり、当然のことであります。しかし、主イエスは「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」と言われました。親の葬式よりもわたしを優先させなさい、というこの言葉はとても厳しく、躓きになりかねないお言葉であります。しかし、主イエスは真のいのちを見つめておられるのです。主イエスはヨハネ11:25でこう言っておられます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」主イエスのもとにとどまることにこそ、いのちがあるのです。主イエスと共にあることによって私たちは本当の意味で生きていると言えるのです。主イエスから離れてしまったら、私たちを支配しているのは死なのです。ですから、主イエスの元から離れて、親を葬ったとしても、死んでいる者が死者を葬っていることにしかならないのです。私たちが主イエスに従い、主イエスに留まっているならば、私たちは永遠のいのちのもとにあり、それでこそ、命と希望と慰めのもとにあると言えるのです。
■結び
今年度、私たちの教会で常に覚える標語は、詩編1編1節2節、「いかに幸いなことか/主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人」です。私たちは日々、様々なことを行い、様々なことを考え、決めて実行していかなくてはなりません。悩みも苦しみも不安もあります。しかし、主イエスのお言葉に従う、主イエスの教えを口ずさむ。そのことによって私たちは生き生きと、喜びを持った生き方へと導かれるのではないでしょうか。この世の中にあって、御言葉に支えられる生き方、それが神が与えてくださる私たちへの大いなる恵みなのです。この後、讃美歌124番を讃美致しますが、「住みたまえ、きみよ、ここに、この胸に」と歌われます。パウロが「キリストがわたしのうちに生きておられる」のだとガラテヤ書で言ったように、私たちのうちに常に主イエスが生きてくださるよう、私たちは祈りを持って養われたい、そのことを覚えて祈りと御言葉に生かされる日々を送りたいと願うのであります。
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