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『主イエスに従う』 2024年9月1日

説教題: 『主イエスに従う』

聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書46:3-4

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書4:18-25

説教日: 2024年9月1日・聖霊降臨節第16主日

説教: 大石 茉莉 伝道師


はじめに

神からの召し、召命というのは旧約の時代から圧倒的な力を持っていたと言えるでありましょう。アブラムの召命も創世記12章に記されるように、「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。」というものでありました。それを聞いたアブラムは、「主の言葉に従って旅立った。」そう記されています。預言者エレミヤを召し出された時、エレミヤは「わたしは若者にすぎません」と抵抗いたしました。しかし、神は「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す。」と言われました。エレミヤはその言葉に従い、そして預言者として立てられたのでありました。このように神の召しは一方的です。わたしたちの能力や状況に関係なく、神は呼びかけてこられるのです。今日の箇所においても、主イエスがこれから伝道を始めようというその時に弟子に招いたのは、漁師でありました。

 

■弟子へと招く

主イエスはガリラヤ湖のほとりでシモン・ペトロ、その兄弟アンデレに声をかけられました。彼らが湖で網を打っているときでありました。まさに彼らの生活の場、その只中に主イエスは入ってこられました。本来、その日も彼らにとって何ら変わりない日常となるはずでした。網を打ち、魚を取り、そしてその魚を売りに行ってお金を得る、さらに網の手入れをして、明日に備える。毎日、そのように繰り返されてきたのです。しかし、その日は違いました。主イエスが近づいてこられ、そして彼らに言われたのです。「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」前回も「時」、「時間」、クロノスとカイロスの話をいたしました。いつもと変わらない場所、いつもと変わらない時間、彼らの日常生活が特別な場所となりました。主イエスがここにいらっしゃり、つまり神が彼らのクロノスに介入なさって、カイロス、特別な時となったのです。

そして「二人はすぐに網を捨てて従った。」と書かれています。その後さらに別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをも呼ばれました。彼らもすぐに主イエスに従った、とマタイは記しています。

並行箇所のルカ福音書では、夜通し漁をして何もとれなかったシモンの舟に主イエスが乗り込まれて、網を降ろすように言われ、主イエスのお言葉に従ったシモンとその仲間の舟が魚でいっぱいになった。その出来事があって、彼らは主イエスに従った、と書かれています。ルカは時系列に沿って記述することを大切にしていましたから、実際にはこのマタイが記すような突然ではないのかもしれません。

また、ヨハネ福音書では彼らは洗礼者ヨハネの弟子であったと1章35節以下にあります。彼らは漁師として働きながら、洗礼者ヨハネのもとで学んだり奉仕をしたりしていたと考えられます。

マタイにおいて「すぐに」と記されているこの言葉は、確かに時間的に「即座に」という意味でありますけれども、ここでいう「すぐに」というのは時間的な意味ではなく、主イエスが呼びかけ、そして彼らが従った、ということ。神と私は一本のまっすぐな線で結ばれているのだということを自覚させられた時、それはまさに「すぐに」ということなのです。本質的な意味で、「すぐに」ということであろうと思います。神の召しというものは、それだけ強いものなのです。そしてさらに言えば、主イエスは「私を信じなさい」と言われたのではなく、「私についてきなさい」と言われたのです。

時々、教会にいらっしゃる方の中で信仰の確信が得られないので、洗礼をためらっているということを聞くことがありますが、ついていくうちに、従っていくうちに信仰は養われていくと言えるのではないでしょうか。実際、ここで主イエスに従ったシモン・ペトロが信仰を言い表したのはこのマタイ福音書で言えば16章16節の「あなたはメシア、生ける神の子です」であります。従っていく中で、この方がだれであるか、悟っていったのです。

 

■捨てることと従うこと

さて、こうして召された者たちは、何らかのものを「捨てた」と聖書は記しています。20節、「二人はすぐに網を捨てて従った。」22節「舟と父親とを残してイエスに従った。」捨てる、と残す、と日本語の表現は違いますが、ギリシア語では同じ言葉です。そして面白いと思うのは、同じ漁師なのに、捨てるものが違うということです。ペトロとアンデレは網を捨てました。ヤコブとヨハネは舟と父親を捨てたと書かれています。同じ漁師ですから、舟と網と一括りにしても良さそうですが、そうは記されていません。主に従うということは、これなら捨てられるけれど、これは捨てたくない、というように何を捨てるかを自分で選択するものではないということです。そもそも、私たちの持てるもの全てが神からいただいたものなのです。全てが神の恵みであり、全てのものの本来の所有者は神なのです。ですから、その本来の所有者に委ねること、お任せすること。そこに固執する自分こそ手放さなければならないのです。さらにはこの自分そのものが本来、自分のものではなく、神のものであるということにまで進めて考えなければなりません。今日お読みしましたイザヤ書46章3節にありますように、「あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負っていこう。わたしはあなたたちを造った。/わたしが担い、背負い、救い出す。」神が私たちを造られ、常に私たちを担っていてくださるのです。私たちはこのことに気づかず、自分の足で立ち、自分の力で何かを所有しているかのように思い、しがみつきますが、この私そのものが神に背負われていると知る時、その方に全てをお委ねし、その方に従うことに躊躇いはなくなるはずです。捨てることと従うこと、これは一つのことの裏表なのです。

 

■教え、宣べ伝え、いやす

今日の箇所の後半では、「おびただしい病人をいやす」という小見出しで、主イエスがガリラヤ中をまわって人々を癒されたことが記されています。それにより、「大勢の群衆が来てイエスに従った。」と今日の箇所が締めくくられています。これらの人々は癒されただけでなく、主イエスに従う歩みを始めたということです。小見出しでは、癒しだけが強調されていますが、23節にありますように、主イエスがなさったことは、教え、福音を宣べ伝え、そして癒した、ということです。福音を宣べ伝え、とは、すでにありましたように、「悔い改めよ。天の国は近づいた。」という宣言でありましょう。そして「教え」たのは何であったのか、ということがこの後の5章から7章に記されています。そしてその後、8章から9章には主イエスによる癒しの御業が詳細に記されています。9章の35節をみていただくとこうあります。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」今日の23節とほぼ同じです。聖書の学問的なことを少しお話ししますと、これをサンドウィッチ構造と言います。つまり、今日の23節と9章の35節がサンドウィッチのパンです。そして5章から7章、及び8章から9章がそのサンドウィッチの中身なのです。ですから私たちは今、やっとサンドウィッチを食べ始めたところで、中の具材は何かな、ということをこれからじっくりと味わっていくということなのです。

 

■従う者の生き方

今日の箇所で主イエスの最初の弟子たちが召命を受け、そして主イエスに従う者たちとなりました。また主イエスによって癒された人たちも主イエスに従う者たちとなりました。そのようにして「呼ばれた者たちの群れ」が教会となっていきました。教会のことをギリシア語でエクレシアと言いますが、この意味は「召され、呼び集められたものたち」です。「わたしについてきなさい」と主イエスに呼ばれて従った者たちは、主イエスに従う者たちを大きくする、主イエスの教えを広めるという使命を負っているということです。こうして集められた弟子たちは、主イエスに遣わされて、全世界へ出ていき、そしてあちらこちらに教会が建てられたのです。それが2000年の歴史であり、今もこれからも続いていくということです。

私たち一人一人も、主イエスと出会い、主イエスに呼ばれ、そして主イエスに従う者となりました。さて、私たちはシモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネという2000年前の彼らと何が違うのでしょうか?確かに、私たちは人として歩まれた主イエスに直接触れることはできません。直接に教えを乞うことも癒しの御業を見せていただくこともできませんでした。彼ら直接に主イエスに接した弟子たちの使命はその全てをあらゆる形で伝え残すことでした。さらにはそれを語り、そして教会が全世界にできたのです。彼らに与えられた使命がマタイ福音書の最後、28章19節に語られています。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことを全て守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」この言葉をいただき、弟子たちは地の果てまでも主イエスの福音を伝えました。それが今の私たちにまで続いているわけです。ですから、わたしたちに与えられた使命はそれを継承することであります。

おりしも、教会の2024年度の標語は「キリストの証し人として生きる」であります。この「キリストを証しする」とはどういうことでしょうか。主イエスと共に生きた弟子たちから私たちが継承するものは何でしょうか。私たちは、「昔々、あるところに」という語り部の役割が求められているのではないのです。主イエスが言われた最後に記されているお言葉「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」イコール、インマヌエル、「神は我々と共におられる」。そうです、今も生きて働いておられる神が私たちと共にいてくださる。そのことを私たちは伝えなければならないのです。

 

■結び

今も生きて働いておられる神がおられる。主イエスは復活されて今も生きておられ、私たちと共にいてくださる。そのことを論理的に語るのはとても難しいことでもあります。しかし、私たちもそれぞれに主に招かれ、そしてキリストに従う者になりました。神から与えられる恵みは過去の産物としてでなく、今も常に弛みなく与え続けられるということを私たちは身をもって体験している者たちなのです。その恵みの豊かさを、今、生きている私たちがそれぞれに証しすることで、主に招かれる人が新たに起こされていくのではないでしょうか。私たち一人一人も主によって招かれ、弟子にしていただいたように、その連鎖は脈々と続いてきたことであり、これからも続くのです。それが、神が私たちに求めておられることであると思います。それには正解はありません。方法も異なるでしょう。それでも私たち自身が主は生きておられる、神は働いておられる、その証し人として用いられるのです。そしてそれは私たち自身が頑張って成し遂げることではありません。なぜならば、主が私たちを担い、背負ってくださっているからです。ただ、いただく恵みに応答する者として、働き人として用いていただくように、自らを神に捧げ、神に従う歩みを続けたいと思うのです。

一人一人の賜物が豊かに用いられ、そして主イエス・キリストは今も生きておられるということの証し人となることを祈り願います。

 

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