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『主イエスにある幸い』 2024年9月8日

説教題: 『主イエスにある幸い』 

聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書61:1-3

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書5:1-6

説教日: 2024年9月8日・聖霊降臨節第17主日

説教: 大石 茉莉 伝道師

 

はじめに

この5章から主イエスの様々な「教え」が語られていきます。「山上の説教」と呼ばれています。前回の4章23節で主イエスがなさったこと、教え、宣べ伝え、癒やされた。この教えの部分が5章からに記されるサンドウィッチの具の部分であると申し上げました。ですから、このサンドウィッチの具はそれを挟むためのパンとセットになっているわけです。そのパンの部分が4章17節の「悔い改めよ。天の国は近づいた。」であり、19節の「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう。」でありました。主イエスの語る福音は、滅びゆく人間に救いを与え、天の国における永遠の祝福が与えられることです。そしてこの山上の説教の最初において、天の国に入ることのできる人々はどういう人であるのか、そのことが語られていきます。この説教の聴き手は1節にありますように、近くに寄ってきた弟子たちです。しかし、弟子たちだけではありません。弟子たちを取り囲むように、直前に記されている大勢の群衆、主イエスに従った者たち全てに向けて語られているのです。

 

■山上で語られる

さて、マタイのこの山上の説教と同じような内容の教えが、ルカによる福音書の6章20節以下にあります。ルカでは6章17節に「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らなところにお立ちになった。」とあります。そして語られたことから、ルカのこの教えは「平地の説教」と言われています。福音書はその福音書記者の意図によって編集されたものですから、どちらの場所で語られたのか、というようなことを詮索するのは意味がありません。それよりも、なぜマタイは山の上で語られた、ということを言いたかったのか、このことに意味があります。山の上で神の言葉が語られるということで思い起こされるのは、モーセがシナイ山の上で十戒を与えられたという出来事です。出エジプト記の20章には十戒が記されていますが、十戒はモーセが山の頂に呼び寄せられて神がモーセにお与えになったものでありました。イスラエルの民に十戒が与えられたのは、神がイスラエルの民をお選びになり、エジプトから救い出すという救いの御業における民との契約のためでありました。救われて神の民とされた者たちが、神の恵みに感謝し、神と共に生きる、神に従って生きるための指針が十戒であり律法でありました。

 

■新しい契約

マタイはこのことと主イエスが御言葉を語られたこととを重ね合わせているのです。ここでもマタイの旧約を意識した、旧約から主イエスという新しい契約、新約へのつながりが示されているのです。5章17節には「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく完成するためである。」と主イエスが言われたように、主イエスはシナイ山で与えられた律法を受け継ぎつつ、それを完成するものとしてご自身の教えを語っておられるのです。

エレミヤ書31章31節には「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。」33節「来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。」とあります。エジプトの奴隷からの解放においてシナイ山で結ばれた契約とは違う新しい契約を神が結んでくださり、その実現は主イエスにおいてである、ということが語られているのです。

私たち人間は、神から離れ、神を中心とせず、自分を中心とするという罪を犯し続けています。そして罪ゆえに私たち人間は死という報酬を免れることはできません。罪と死の奴隷となっているのです。しかし、主イエスがすべての者の罪をお一人で背負ってくださり、私たちの身代わりとなり十字架で死なれたこと、そのことゆえにキリストを救い主と信じる者たちを罪の支配から解放してくださいました。そして父なる神は主イエスを復活させてくださった、それにより主イエスの十字架と復活を信じる者たちは罪と死の奴隷から解放されたのです。それが主イエスによる贖いであり、私たちに授けられた新しい契約なのです。主イエスは私たちをご自分の民としてくださいました。その新しい神の民とされた私たちが、神の恵みに感謝し、神に従い、神と共に生きる、そのために語られた御言葉、それが山上の説教なのです。

 

■心の貧しい人々

ここから「幸いの教え」が8つ語られます。今日はその前半4つ、貧しさ、悲しみ、柔和、義に飢え渇く、この幸いから聞きたいと思います。まず語られているのは、「心の貧しい人は幸いである、天の国はその人たちのものである。」このように語られているわけですが、私たちの頭の中には、富める人=幸せ、貧しい人=不幸という構図が描かれるのではないでしょうか?なぜ、貧しい人が幸いなのか?この逆説的思考を理解することは簡単なようで意外にもなかなか納得がいかないことのようです。言葉そのものはとても簡単な言葉で語られていますが、その意味するところはなかなか難しそうです。まず、「幸い」という言葉ですが、この言葉、私たちは普通、幸せ、幸福と理解いたします。旧約聖書の時代から、この言葉は多く用いられてきました。詩編1編1節、「いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいにしたがって歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず/主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。」ここに示されますように、神との交わりにある者は祝福を受けるのです。つまり、幸いとは祝福を受けるということなのです。ですから、ここでは富める者が祝福を受けるのではなく、貧しい者が祝福を受ける、ということが言われています。「心が貧しい」という日本語は器が小さい、とか、寛容さがない、というような意味に置き換えられることが多いと思いますが、ここで言われている貧しさとは、まさにまずは外面的な貧しさ、つまり、お金を持っていない、とか、抑圧されているとかに始まり、「心の」が付けられていることから、心が傷んでいるというような意味をも含んでいます。つまり、貧しいが故に、自分では何も持っていない、自分ではどうすることもできない欠けがあることをわかっている人。そのような人は神の恵みをいただくしかないのです。自分の貧しさを知っている人は、神からの恵みをいただく、神はそのような人と共にいてくださり、そのような人は神から祝福を与えられるのだ、というのです。神がその貧しさを満たしてくださる、それゆえに貧しい人は幸いであるのです。私たち教会に属する者たちは例外なく、貧しさを知っている者でありましょう。自分では満たせず、ただ神の恵みによって生かされている、と知っているからです。先ほど詩編の1編1節にありましたように、主の教えを昼も夜も口ずさむ、それによって満たされるのであります。神の民とされた者たちは、神の国に属している者たちなのです。ですから天の国を受け継ぐ相続人であります。

 

■悲しむ人々

4節の「悲しむ人々は幸い」は、悲しい状態が幸いなのではありません。ここで使われている「悲しむ」という言葉は、本来、嘆き悲しむというように訳されるほうが良い言葉であります。悲しみを表す言葉の中で、もっとも深い悲しみを表す言葉なのです。誰でも悲しみのどん底に陥り、涙を流すことはあるでしょう。その時、慰められるから幸いなのです。慰めは恵みであり、神の祝福なのです。ヨハネ黙示録21:3節以下「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」とあります。神が、主イエスが、私たちの涙を知っていてくださり、それをぬぐい取ってくださるのです。これは大いなる祝福です。主イエスは人の痛み、悲しみに寄り添って歩まれました。ヘブライ人の手紙4:15にありますように、主イエスは「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」そして同じくヘブライ人の手紙2:18「御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることができるのです。」主が涙を拭ってくださり、わたしたちは主によって慰められます。そうして与えられるものは、平安と喜びです。繰り返し、繰り返し襲ってくる悲しみも苦しみゆえに流す涙は、主が日毎にぬぐってくださいます。悲しみを背負い、悲しみに押しつぶされそうになっている時に、主イエスは傍に来てくださり、語りかけてくださるのです。それゆえに、主イエス・キリストによる慰めの中で悲しむ者は幸いなのです。

 

■柔和な人々

5節では柔和な人々は祝福を受け、そして地を受け継ぐと宣言されています。ここで「柔和」という言葉が使われており、私たちは普通、この言葉を穏やかである、というような内面的な性格を表す言葉として理解しますが、本来、この言葉は「力がない」とか「権力がない」というような客観的な状態を表しています。ですから、当時のユダヤ教では、3節にある「貧しい」と同義とされていました。この5節は詩編37編11節の引用ですが、そこにはこうあります。「貧しい人は地を継ぎ/豊かな平和に自らをゆだねるであろう。」ですから、この5節は3節を言い換えたものであるとも言えます。そしてこのマタイ書では

主イエスご自身が「柔和」である、として使われています。11章29節、「私は柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。」と主イエスは私たちを招いておられるのです。主イエスに従う者はこうして柔和の道を歩む者となるのです。主の教えに従って生きる者たちは、聖化から栄化へ、最後には主イエスと同じ姿に変えられる者たちなのです。このような人は「地を受け継ぐ」という約束が与えられます。この約束は単に終末におけることではなく、現在の私たちの生きるその場、現実生活において実現するのです。神の国はこの地において実現するからです。

 

■義に飢え渇く人々

「義に飢え渇く人々は幸いである、その人たちは満たされる。」前半最後の幸いはこのように示されています。義とは社会的な不正が克服されて、秩序が回復されて生活が保障されることであり、そして何よりも神によってよしとされる、ということです。ですから、義を求める者、神の救いを求める者、その者たちは祝福される、神によって満たされるからである。ということです。主イエスは6章33節でこう言っておられます。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」

 

■結び

これら四つの祝福は、苦しみ、悲しみ、抑圧、痛みの現実の中で神を求める者たちに向けられています。貧しさ、悲しみ、それら自体は悲惨であります。しかし、闇が深ければ深いほど、星の輝きが明るさを増すように、この世における破れ、どん底においてこそ、神の約束は力強く、確実に宣言されるのです。パウロが第二コリント12:10で「弱い時にこそ強い」と言いましたように、私たちキリスト者は弱く、貧しく、悲しみの中にある時ほど、神の祝福に触れることができるのです。私たちには主イエスにおいて祝福が与えられるのです。この幸いに感謝いたします。

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