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『主は近い』2025年11月30日

  • NEDU Church
  • 11 分前
  • 読了時間: 9分

説教題: 『主は近い』

聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書51:4-14

聖書箇所: 新約聖書 マルコによる福音書13:21-37

説教日: 2025年11月30日・待降節第1主日 

説教: 大石 茉莉 牧師

 

はじめに

教会では今日から待降節、アドヴェントに入りました。アドヴェントとはラテン語の「アドヴェントゥス」に由来する言葉です。「到来」という意味です。主イエス・キリストの到来、誕生を待ち望む時です。アドヴェントのこの時は、ここにありますクランツのろうそくに毎週1本ずつ火を灯していきます。クリスマスには全てのろうそくに火が灯ります。ヨハネ1:9に「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」とありますように、主イエスが「世の光・まことの光」なのです。このろうそくの光は、主イエス・キリストの光であり、私たちはこのアドヴェントの時、週ごとにより強く、まことの光の到来を待ち望むということです。

私たちは去年の7月からマタイ福音書を丁寧に連続して読んできておりますけれども、この待降節の時期は、そこからしばし離れ、聖書日課から御言葉に聴き、主の到来の喜びを味わってまいりたいと思います。

 

■希望を語る預言者

本日、私たちに与えられた聖書はイザヤ書51章4節から14節です。今日のイザヤ書の箇所51章は第二イザヤの言葉です。イザヤ書40章から55章までが第二イザヤと呼ばれる預言者の預言とみなされています。第二イザヤはバビロン捕囚時代の末期、紀元前546年から538年ごろにバビロニアで活動しました。エルサレムがバビロニアによって紀元前586年に滅ぼされ、南ユダ王国の人々はバビロニアに連れて行かれました。異国の地で捕囚の民としての生活を余儀なくされました。神の民として生きてきたイスラエルの民にとっては屈辱の時、神から見捨てられたのではないかという絶望の時代です。第二イザヤはそのような中にあって、神の言葉を告げました。49:14にありますように「主はわたしを見捨てられた/わたしの主はわたしを忘れられた。」のではないかという問いも人々から投げかけられ、また、イスラエルの神よりもバビロニアの神々が勝利したのではないかと思い、偶像礼拝に傾く人々もいました。この第二イザヤによるものは40章からと申しましたけれども、40章の1-2節にはこのようにあります。「慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。」このように始まる第二イザヤの預言、この40章の始まりは、神による慰め、神による永遠の救いと希望の確信が語られているのです。今日の11節には「主に贖われた人々は帰ってきて/喜びの歌をうたいながらシオンに入る。喜びと楽しみを得/嘆きと悲しみは消え去る。」と第二イザヤは民の心を鼓舞するメッセージを語ります。このような強い励ましは、人々の心が消沈し、不安と怖れの中にあったからです。バビロン捕囚という出来事は、イスラエルの民のよりどころであった美しい、麗しのエルサレム、シオンを破壊し、全てをなきものとし、そして人々は神からも見捨てられたという絶望のどん底に突き落とすものでした。そのような民に向かって、第二イザヤはだからこそ、力強く神の救いの約束を告げるのです。10節に示されている御言葉、「海を、大いなる淵の水を、干上がらせ/深い海の底に道を開いて/贖われた人々を通らせたのは/あなたではなかったか。」これは出エジプトの出来事を思い出せというメッセージです。捕囚からの帰還、救いは第二の出エジプトとして、重ねられているのです。イスラエルの民の原点、神の救いのシンボルは出エジプトの出来事。奴隷として苦しんでいたイスラエルの民はエジプトを後にするも、エジプトの軍勢が攻め寄せてくる。前は海が広がり、後ろには剣がある。希望がない、光がない、人々はそのように思っていました。そのような時、神はモーセにお命じになり、その杖が高く挙げられると、海は左右に分かれ、そこに道ができました。神がそのように救いの道を開かれたのです。この捕囚の絶望の中にいる民に向かって、第二イザヤは我々の原点を思いだせ、神はそのようなお方なのだという希望を語りました。

 

■不信仰な者たちの恐れ

さて、イスラエルの民はバビロンへと連行され、すぐに神様は帰還させてくださると信じていましたが、実際には何年経っても実現しませんでした。そのような状況で人々は希望を失い、そして神への不信が募っていったのでありました。そうして60年、ペルシアがバビロニアを滅ぼし、時の王キュロスによってイスラエルの民は帰還を許されました。しかし、彼らはすでにバビロンでの第二世代になっていました。捕囚とはいえ、基本的な生活は守られていました。そこに生活基盤ができて、もはやそこでの暮らしが当たり前になり愛着さえ持っていたのです。また、自分たちの故郷、エルサレムが廃墟と化し、捨て置かれていることも聞こえてきていました。そのような状況の中でエルサレムの再建のことも考えると、なかなか立ち上がれませんでした。戸惑いや恐れ、不安がありました。その根底には祈っても祈ってもなかなか実現させてくださらない神への不信があったのです。そんなイスラエルの民に預言者第二イザヤは告げます。「なぜ、あなたは恐れるのか」12節にある御言葉です。恐れと不信仰は背中合わせです。この変わることへの恐れ、不安、現状が決して良いわけではないのに、神に委ねることへの恐れ。このような思いは現代の私たちも同じです。自分の人生設計が変わること、また単に変化を恐れる気持ち。神よりも自分を信じたいという神への不信仰。全知全能であられる神様に委ねきれない私たち、一番に躊躇わせるのは恐れです。そのような私たちに、第二イザヤは「なぜ、あなたは自分の造り主を忘れ/天を広げ、地の基を据えられた主を忘れたのか」と告げます。13節です。私たちは神が私たちの声を聞いてくださっておられるのなら、なぜもっと直ぐに応えて下さらないのかと思います。しかし、これはとても自分都合です。私たちは自分の願いよりも、神の御心を求めるべきであるし、必ず適っていくのは神の御心なのです。ですから、もっともっと神を呼び求めて、神がなそうとされていることを尋ね求めていかなくてはならない。神が時に私たちに応えてくださらないように見えることは、私たちの知恵に頼らず、神に信頼するように仕向けておられるということです。今日の4節以下、神は繰り返して言われます。「わたしに聞け」(4節・7節)、答えがない、救いがこないと考える私たちに「速やかに解き放たれる」(14節)と約束されます。そして、5節・7節に「正義・正しさ」、6節・8節に「恵みの御業」という言葉が記されていますけれども、これは元のヘブライ語では同じ言葉です。預言者第二イザヤはただただ、神の正しさを強調するのです。自分の正しさ、もしくは他国に頼るというような計算では帰還できる状況ではないのだ、というのです。ただ神の正しさ、神の示されること、そのことに信頼して歩む、そこに光がある、というのです。そして、その神の救いは、イスラエルの民のみならず、全ての世界に及ぶ、と4、5節で第二イザヤは告げています。「神の救いをすべての人の光として輝かす」と神は言われます。それはまさに主イエス・キリスト、すべての人へのまことの光の到来を告げているということです。

 

■信仰の目を覚まして

救い主の到来、それはいつなのか、神がお定めになるその時を私たちは知らない、と主イエスは言われます。だから、「気をつけて目を覚ましていなさい。」と主イエスは弟子たちに今日のマルコ13章で繰り返して告げておられます。しかし、私たちは弱く、鈍く、主イエスに目を注ぎ続けることができません。それは眠ってしまうということであり、私たちの罪深さでもあります。私たちは自分の力では「気をつけて、目を覚ましている」つまり、主イエスを見つめ続けることはできないのであり、ただ、神の恵み、主イエスの救いによって主イエスの方を向くことができるのです。私たち自身では、ふさわしく目を覚ましている力を持たず、その力の源はただ主イエスご自身であられるのです。ですから、この御言葉は「私を信頼しなさい。私に委ねなさい。私から目を離さないでいなさい。」という強いメッセージです。心の目、信仰の目が閉じてしまったら、私たちは自分に対しても、また、他者に対しても鈍感になります。光を求めることをせず、暗さの中にいることに何も感じなくなるのです。そして痛みを感じず、痛みを分かち合えず、悲しみや辛さが周囲に満ちていても、無視し、無視され、その存在すらなかったもののようにされてしまう。しかし、私たち、一人一人、それぞれはさまざまな悲しみを抱え、痛みを抱えて生きているのが現実です。誰もが痛み、悲しみ、辛さを癒してほしいと心の底では願っているのです。そのような私たち一人一人を見つめ、それぞれの痛みを見過ごさず、その苦しみを無かったことにはなさらないお方、それが神です。神の正義、神の正しさ、神の救いは一人一人に及ぶのです。

 

■主は来られる

神は預言者イザヤの口を通して、「わたしの正義は近い」と語っておられます。主イエス・キリストを通して神の正義が示されるのです。御子イエス・キリストがまことの光として来てくださり、この世界に光をもたらしてくださる。その光は隅々まで照らし出します。暗さの中にいる人、悲しみの中にいる人、苦しむ人にとって希望の光となるのです。「わたしは瞬く間に/わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。」一部の選ばれた人のための光ではなく、すべての人の光として、輝く光なのです。それぞれの人の苦しみ、悲しみ、痛みをなかったことにしないために、一人一人を照らし、痛み、苦しみ、悲しみを受け止め、そして癒し、そして共に歩んでくださるのです。私たち一人一人のために、主は来られます。暗闇に輝く光として主は来られます。それは悲しみから喜びへと変わることでもあります。イザヤはその喜びをこう語ります。11節です。「主に贖われた人々は帰って来て/喜びの歌をうたいながらシオンに入る。頭にとこしえの喜びをいただき/喜びと楽しみを得/嘆きと悲しみは消え去る。」主に贖われた人々、まさに私たちは主イエスの十字架によって贖われた者たち。主イエスは私たちすべての者の悲しみ、苦しみ、辛さを担って生きてくださり、死んでくださった苦難の僕。イザヤ書53章にありますように、「軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、痛みを知っておられる方」なのです。その方によって神の正しさ、正義、恵みの御業がこの地に示されたのです。そうして主イエスによって自由にされた人々は帰ってきて、喜びの歌を歌いながら、聖なる都に入るのだとイザヤは語ります。もはや、嘆きと悲しみは過ぎ去り、喜びと楽しみが満ちるのです。

 

■結び

アドヴェント第一主日、それは教会暦の始まりです。過ぎた一年を振り返る時、さまざまなことがあったことが思い出されるでしょう。悲しみ、苦しみ、苦労、別れ、痛み、言葉にできなかったこともあるでありましょう。神の御声を聞きたくて、祈り続けた日々もあったことでしょう。捕囚の民のように絶望と不信があったかもしれません。それでもこの新たな始まりのとき、神は私たちに「わたしの救いは近い。わたしの恵みの業はあなたにすみやかに近づく。」と告げておられるのです。たとえ闇が深くとも、先が見えなくとも、私たちは確信を持って、神に信頼し、歩む。その想いを新たにしたいと祈り願います。

 
 
 

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