説教題:『主は出ていかれる』
聖書箇所:マルコによる福音書 1章29節~39節
説教日:2022年5月29日・復活節第七主日
説教:大石 茉莉 伝道師
■はじめに
前回は、主イエスがカファルナウムの会堂で教えられたこと、男から汚れた霊を追い出し、人々が主イエスの権威ある新しい教えに驚いた、と書かれたところから聴きました。主イエスの評判はそうしてガリラヤ地方の隅々にまで広がったのです。
その会堂での男の癒しのあと、「『すぐに』一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。」と今日のみことばは始まります。ここでわかることは、ガリラヤ湖畔で4人の漁師を弟子にしたことと会堂で男を癒されたことがうまくつなげられていることがわかります。時間的には同じ日の出来事ではなく、数日経過していたでしょうが、マルコはここでも「すぐに」という言葉を使うことで、これらの一連の出来事の時間的な流れをつなげています。マルコは「すぐに」という言葉を意図して使うのです。それは「時は満ち、神の国は近づいた」からです。ゆっくりしている時間はないのです。そのようにして主イエスの公生涯を、先を急ぎ走るように書きとどめます。
会堂を出た一行はシモンとアンデレの家に行った、とマルコは記します。ですから、主イエスが「お前の家に行こう」と言われたのか、シモンが「私の家が近くですから、先生、いらしてください」と言ったのか、はわかりません。しかし、彼らはガリラヤ湖畔で漁をしていた時に、主イエスから「わたしについてきなさい」と言われて、妻にも母にも断らずに、網を捨て主イエスに従ったのです。彼らは家族をも捨てたのです。そんな彼らがのんきに家に帰れるとは思えません。ですから、主イエスが「お前の家はこの近くだったな、連れて行ってくれ」と言われたのではないかと思うのです。
そうして戻った家では、妻の母、しゅうとめが熱を出していました。主イエスは熱を出して寝ている姑のことを聞くと、手を取って起こされました。そして姑はいやされたのでした。ここでは悪霊祓いという大業だけでなく、家庭における治癒という優しさに満ちた主イエスが描かれています。そして男も女も主イエスの救いに与ることが示されているのです。
■もてなし
熱が去ったしゅうとめは、一同をもてなした、と書かれています。この「もてなした」という言葉は、食べるものを用意したという意味です。そしてここで「もてなした」と訳されている言葉は、奉仕をする、という意味にも訳すことのできる言葉です。さらに興味深いことは、日本語には反映されませんが、ギリシア語の文法的には、完了していない出来事、つまりずっと続いている、という動詞の形をしています。ですから、シモンの姑は、この日だけではなくて、その後もずっと主イエスと弟子たちをもてなすようになった、いつもお仕えするようになった、という意味が含まれているのです。こうしてシモンの家も主イエスの御手によって救いの中に置かれることになったのです。
シモンは主イエスの「わたしに従ってきなさい」というお言葉に「すぐに」従いました。主イエスはそのような厳しさを求めておられます。しかし、そのシモンを家族のもとに連れ帰ったのは主イエスでありました。主イエスは、自分のために家族も財産も捨てるよう求めておられますが、わたしの名のために家も財産も捨てるならば、何倍にもして返すとおっしゃいました。その約束は、もうこうして始まっているのです。
■メシアの秘密
さて、そのようにしゅうとめが主イエスによって癒されたことは瞬く間にカファルナウムの町中に広がりました。ここで、夕方になって日が沈むと、と書かれていますのは、その日が安息日であったからでした。安息日には、癒しの行為も禁止されていたのです。ユダヤの暦では、日没によって日が変わります。ですから、日が沈むと人々は皆、シモンの家に病人を伴って押し寄せてきたのです。主イエスがどのくらいの時間をかけて癒しをなさったのかはわかりませんけれども、連れて来られた大勢の人たちを癒されました。
そして、病気だけでなく、悪霊をも追い出されました。マルコは記します。「多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。」悪霊はイエスを知っていた、何を知っていたのかと言えば、イエスが神の子であることを知っていたということであります。この時、人々はまだ主イエスが神の子であることは知りませんでした。まだ隠されていたのです。今はまだ主イエスは、癒しのような奇跡をおこなうかもしれないけれども、私たちと同じ人間として存在している、そのようなお方として人々の中におられました。そのお方が実は神の子である、というそのことはまだ秘密にしておかなければならないのです。だから、それを知っている悪霊たちに、「お前たちは黙っていなければならない」と主イエスはお命じになられました。
このことは「メシアの秘密」として、これから先、読み進めていく中で関係してくる重要なキーワードですので、どうぞ覚えておいてください。マルコ福音書を推理小説に例えるとしたら、あちらこちらで、この「メシアの秘密」についてのヒントが与えられるのです。丁寧にひとつずつ見つけて読み進めていきたいと思います。
■祈り
ペトロの家にお泊りになられた主イエスは、翌朝、まだ暗いうちに起きられて、人里離れた所へ出ていき、そこで祈っておられました。まだ暗いうちに、何時ごろにお出かけになられて、主イエスはどのくらい離れた所まで歩いて行かれたのだろうか、と思ってしまいます。人里離れた、という言葉のイメージから、主イエスがおられたカファルナウムの街中から、かなり歩いて行かれたのではないかと想像いたします。しかし、この「人里離れた」という言葉は、元の言葉を見ますと、孤独な、という意味を持っている言葉であり、そして何よりも、主イエスが荒れ野で試みを受けられたというところを数回前に読みましたが、その「荒れ野」と同じ言葉です。主イエスは祈るために荒れ野へと出ていかれたのということなのです。
前の晩、群がってきた村中の人々は、主イエスの癒しの御業に衝撃を受けました。主イエスに対する認識は、「ナザレのイエスは我々の待ち望んでいたメシアかもしれない!」「驚きの癒しの御業をする人物だ!」という驚きや興奮に満ちたものでした。多くの人が癒しを求めて殺到してくるのと同時に、悪霊も主イエスに立ち向かってきました。
主イエスは、まだ夜明け前の静かな時に、神の御前に立ち、神から示されているご自分の使命をもう一度確かめられたのです。闘いに向かうために、祈られたのです。人々への主イエスの評判が高まれば高まる程に、主イエスは闘うというお気持ちが深まっていきました。主イエスは一人静かに神に向かい、父なる神の力と導きを求められたのです。
シモンをはじめとする弟子たちは、朝、敬愛する先生がいらっしゃらないことに気付きます。慌てて、どこへいらしたのだろう、と探します。昨晩の癒しの御業は更に町中を駆け巡り、朝からまた、癒しを求める人々は次から次へとシモンの家に押し寄せてきていたに違いないのです。ここで「後を追い」と訳されている言葉は、「非難、敵意、をもって」という意味を含んでいます。主イエスにお従いする立場の弟子たちであるはずが、「先生、黙って勝手に出かけちゃって」というような主イエスを責めるような気持ちで主イエスを探し、そして父なる神との祈りの時間の邪魔をする者たちとなったのです。弟子となった彼らも、私たちも、いつも自分の都合に神様を合わせようとするという愚かな罪の中にいるのです。「主が望んでおられることは何か」このことをすべての物事の規準とするように、心に留めておかなければなりません。
■出ていかれる主
主イエスを見つけたシモンを始めとする弟子たちは、昨晩のように主イエスが病人や悪霊に取りつかれた者達を癒して下さることを求めて、「癒しを求めている人たちが待っています、お戻りください。」という意味で、「みんなが捜しています」と言いました。
町中の人たちと同じように、弟子となった彼らも興奮していました。ましてや、シモンは自分の家で奇跡の癒しの御業が行われて、評判になっているのですから、得意顔です。あわよくば、このような奇跡の御業を、ここカファルナウムを拠点として行えば、多くの群衆の期待に応えることができるはず、という構想を描いたのではないでしょうか。そのような誘惑が彼の心にあったに違いないのです。そのような利己的な願いが混ざっていたに違いありません。
しかし、主イエスは言われるのです。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出てきたのである。」主イエスはすでに十字架への道のりを充分にご存知でした。ここカファルナウムに安住してはいられないのです。すべての人へ神の救いを宣べ伝えるためには、出て行かなくてはなりません。主イエスの究極の道はエルサレム、そして十字架です。主イエスにとって、癒しの御業や、その語りによって人々の心を捉えることは、常に誘惑であり続けたのです。主イエスのご生涯において、最も大きな誘惑は、ご自身の神の子としての権威をそのまま発揮することによって、人々の心を捉える事ではなかったでしょうか。主イエスは十字架に至る最後の日々まで、静かに神の前に立ち祈りの時を持たれ、人々の心を捉えるという誘惑と闘われていたのです。
シモンと仲間たちが目の前に起こっていることに夢中になり、そのことに囚われているそんな思いを打ち破るように、主イエスは「外へ出よう」と言われるのです。
シモンとその仲間、そして人々、彼らの思いや願いは、イエスの神の国の宣教を、病人の癒しや、悪霊の追放という奇跡的な業として受け止めていました。主イエスの「外へ出よう」というお言葉は、そのようなカファルナウムへ引き戻そうとした人々の願いへの拒否であったのです。
■結び
今日のこの箇所はルカに並行箇所があります。ルカとマルコとの大きな違いは、主イエスを探したのが、マルコではシモンとその仲間であるのに対して、ルカでは群衆となっています。主イエスの「近くの他の町や村へ行こう」というお言葉は、ここマルコでは弟子たちに向けて語られたお言葉なのです。「我々はこうしよう」という弟子たちへの呼びかけの言葉なのです。主イエスお一人が行くのではなく、弟子たちと一緒に、福音を告げ知らせるという使命を果たしていかれようとしています。「そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出てきたのである。」とありますように、もちろん、主イエスがその働きの中心におられるのですけれども、主イエスはその宣教の働きに弟子たちを伴っていかれようとしておられるのです。主イエスの早朝の祈りは、ご自身の神の御心を問う祈りであるのと同時に、これから先の弟子たちの宣教の働きのための祈りでもありました。今日の最後の39節には「そして、ガリラヤ中の会堂へ行き、宣教し、悪霊を追い出された。」とあります。これはもちろん、主イエスの御業でありますけれども、その傍らには弟子たちがありました。主イエスの御働きを共に担うことなど、到底できない弟子たちであったと思いますが、将来、主イエスによって派遣されて、神の国の宣教を宣べ伝えるための備えはこうして始められていたのです。
ガリラヤ湖畔で「わたしについてきなさい」と言われた主イエスは、4人の漁師たちだけでなく、私たちをも招いて下さり、主イエスに従う弟子のひとりに加えてくださいます。そして私たちのために祈ってくださり、私たちに伴っていてくださいます。主イエスに従い、その御跡をたどるのが私たち信仰者の道です。自分たちだけに主イエスをとどめておこうとするのではなく、主イエスが出ていかれるその先々までもお従いして、その宣教の業を傍らで見させていただく者でありたいと願います。私たちは自分一人では、何もできない弱い者ですけれども、常に主イエスが共にいて下さり、主イエスのすばらしい御業を目の当たりにして、私たちをも必要な宣教に用いて下さるのです。そのことを覚え、主がでていかれたように、私たちも、ここから派遣されて参りましょう。
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