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『主の晩餐』 2023年9月10日

説教題: 『主の晩餐』 聖書箇所: マルコによる福音書 14章22~26節 説教日: 2023年9月10日・聖霊降臨節第十六主日 説教: 大石 茉莉 伝道師

■はじめに

前回から主イエスが十字架にお架かりになる前日、過越しの食事を弟子たちと共に取られた、その場面を共に読んでおります。この食事は主イエスが取られた最後の食事であり、そしてそれは主イエスご自身が弟子たちのために用意された食事でありました。「主の晩餐」と小見出しのついたこの食事は、過越しの祭りのための食事であります。何度も繰り返すようですが、過越しの祭りはエジプトで奴隷であったイスラエルの民を神が救い出して下さった事を記念するもの。小羊が犠牲として捧げられ、その血を鴨居に塗った家には神は災いを下すことなく過ぎ去ってくださった、というものです。この過越しの祭りには、傷のない小羊が捧げられなければなりません。そしてエルサレム神殿の庭で屠られた小羊を祭司からいただいて、食事をする、それがこの過越しの祭りの食事のしきたりであります。


■屠られた小羊

さて、主イエスが用意された、この主の晩餐において、このしきたり、つまり、小羊を食した、ということはこの福音書には記されていません。この福音書、マルコだけでなく、マタイにも、ルカにも、「小羊を食べた」という記述どころか、小羊という言葉もどこにもありません。福音書記者たち、マルコも、マタイも、ルカも、小羊を食したことを記す記述がないのです。逆に、ないことによって語ろうとしていることが浮き彫りになってくるといえるのではないでしょうか。それは、主イエス、主イエス・キリストこそが屠られる小羊であったということであります。前回読みましたところにありましたように、この食事の席、用意のできた二階の広間、それは主イエスご自身が備えてくださったのでありました。この広間だけでなく、贖いの小羊も備えてくださったのです。創世記22章8節、アブラハムが愛する子、イサクを連れてモリヤの地に行ったとき、イサクは言いました。「焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」アブラハムは答えます。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」主イエスは、ご自身を十字架で、神が備える贖いの小羊とされたからです。


■「取りなさい。」

「一同が食事をしている時、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」この言葉を月に一度の聖餐式において聞く御言葉であります。パウロがコリントの教会に宛てた手紙に記されております箇所、コリントの信徒への手紙Ⅰ11章23節以下にも記されており、聖餐式ではその箇所が読まれます。このマルコの箇所においては、とても印象的な言葉があります。それは「取りなさい。」という言葉です。主イエスは弟子たちにそのようにお命じになって、「パンを取りなさい」と言われたのであります。この言葉は主イエスが弟子たちに、「弟子であるならば取りなさい」という命令なのです。ですから、わたくしたちも聖餐式において、同じように主イエスから言われているのであります。聖餐式の序の言葉に「ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。」とも読まれますので、時に私たちは、聖餐のパンを取ることは今のわたしにはふさわしくない、神を裏切っている、取る資格がない、と思い、と取らないことの方が、神に対して誠実であるかのように思うことがあります。しかし、この過越しの祭りの食事、主の晩餐も、主イエスご自身が、自分を裏切っていく弟子たちのために食事を用意してくださったのです。ですから、「取りなさい」と言われる主イエスのお言葉をそのままに、私たちは取るべきであり、それが主イエスが望まれていることなのです。


■命のパン

そして、「イエスがパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。」と書かれておりますこの表現、すでに私たちが読んでまいりました箇所にとても似た表現があります。有名な「五千人に食べ物を与えられる」その時、主イエスがなさったこと。それは6章41節であります。そこにはこのように記されております。「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。」マルコはこの2箇所を明らかに対照させるかのように同じような動詞を用いて表現しています。このマルコの意図はなんでしょうか。

この五千人の人々に食事を与えた時、主イエスは天を仰いで賛美の祈りを唱え、つまり、天の父に感謝し、そうして与えられたパンを裂き、そしてその食べ物でそこにいた人々すべてが満腹した、満たされた、という出来事が語られていました。満腹したということは、それは身体的な満腹であるのと同時に、精神的な満足であるのです。主イエスの祝福に与ること、それは大いなる喜びであるからです。この五千人の食事と今日の過越しの祭りの食事、共に主イエスが神に感謝し、主イエスによって備えられた食事、そしてそれによって多くの者たちが満たされるものなのです。

こうしてこの最後に主が用意される食事の意味は、五千人の食事の時にすでに示されていました。

そして、この過越しの食事において、主イエスが献げた「賛美の祈り」とは、これは出エジプトの出来事に由来する感謝の祈りです。出エジプト16章12節にあるように、主はモーセに言われました。「あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。」

そうして与えられたのがマナでありました。それは必要な分、必要に応じてすべての者が満腹になるように与えられたのです。そしてその苦しい荒れ野の40年の旅について、申命記8章2節以下にはこのように書かれています。「あなたの神、主が導かれたこの四十年の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」神はこのように、人々を肉体的に、そして精神的に養ってくださったのでありました。単に口にする食事よりも、主の口から出る言葉によって養われる、そのことを知りなさい、と言われているのです。「これは私の体である。これは私の血である。」主イエスのこのおことばは、本当の命の糧、命のパンは、主イエスご自身なのだということを弟子たちに知らせるためでありました。


■新しい契約

主イエスは「これは、多くの人たちのために流されるわたしの血、契約の血である。」と言われました。この「契約」とは出エジプト24章において主がモーセと結ばれた契約を指し示しています。選ばれた民であるイスラエルの民は、「主が語られたことをすべて行います。」と約束し、そして祭壇には雄牛を捧げました。モーセはその捧げた雄牛の血を祭壇に振りかけ、契約の書を民に読んで聞かせました。そして雄牛の血を民に振りかけ、約束の言葉に基づいてあなたがたと結んだ契約の血である。」と言いました。祭壇に振りかけた血を民にも振りかける、この意味は、もし、契約を守らなければ、私たちはこの捧げられた動物のように裂かれ、血を流すことになるということであります。こうして彼らは主なる神の民となったのでありました。主イエスは、ご自分の血、つまり、十字架によって、十字架上で流す血が、多くの人のための契約の血である、と言われました。それは主イエスが十字架で死んでくださることによって、神は多くの人々と新しい契約を結んでくださるというのです。それは主イエスは私たちの救い主であると信じ、告白する者たちとの間に結ばれる契約であります。かつてイスラエルの民は、罪を犯した時、自らが実際に死ぬという代わりに、身代わりの動物を犠牲として捧げるということをしてきました。これが贖罪であります。罪を贖う、つまり、罪の清算です。この身代わり、犠牲としての捧げもの、主イエスが自ら、そのことを約束してくださいました。この裂かれる犠牲、流す血の契約の責任を一方的にお引き受けくださったのです。これが救いであります。通常、契約というものは、約束でありますから、その約束をする者同士が相互に交し合うものです。しかし、ここで主イエスは「これは契約である。」と言いながら、一方的に約束をしてくださったのです。それは「わたしがあなたがたの主になる」という約束でありました。

この約束ゆえに、主イエスの十字架の後、弟子たちは再び主を思うこの食事を繰り返し、力を得ることができたのであります。

そもそも、主なる神がイスラエルをお選びになった時、神がイスラエルの民を選んだのは、他のどんな民族よりも数が多かったからではなく、他のどの民よりも貧弱であった。ただ、主の愛のゆえに、先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもって導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出したのだ、と言われました。神が特別に愛された民は、地上のどの民よりも貧弱であった、その貧弱な民を神は愛している、というのです。主イエスの弟子たちも同じであります。主イエスは知っておられたのです。ここで共に食卓を囲む十二人の弟子たちがどれほど貧弱な者たちであるか、ということを知っておられたのであります。口では「すべてを捨ててあなたに従います」とそれぞれに言っていても、その舌の根も乾かぬうちに、全員が見棄てて逃げてしまうことを知っておられたのです。それでも主イエスは彼らを選び、愛してくださったのであります。それが絶対に変わらない神の愛し方なのです。


■結び

主イエスが言われた25節のお言葉、「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から造ったものを飲むことは決してあるまい。」主イエスはその福音を告げた最初に「神の国は近づいた。」と語られました。主イエスが再び来られて、大いなる力と栄光に満たされて神の国の救いが完成する、その世の終わり、神の支配の完成のその時、主イエスは弟子たちと、私たちと、杯を共にしよう、と言っておられるのです。神の国が完成するその時、神の国では盛大な宴会が開かれます。私たちはそれに招かれていると言われるのです。今、私たちがこの地で毎月、与る聖餐、それはこの神の国において開かれる宴会、主イエスと杯を共にする、その先取り、予告であります。聖餐において、この地における信仰の養いと支えが与えられるだけでなく、神の国での恵みの食事を先取りさせていただいているのです。主イエスのこのお言葉は、この世での最後の食事になるということだけを言っておられるのではなく、神の国において、再びこの食卓が備えられていることを宣言してくださっているのです。聖餐もまた、死を超えた神の国の際限ない広がりの希望を告げてくれるものであるのです。

私たちはここでのユダのように、また主イエスを見捨てて逃げ去った弟子たちと同じでありながら、同じ食卓に招かれる。主イエスの十字架の死によって、私たちの裏切りの罪は主イエスの贖いの恵みによって、呪いは祝福へと変えられ、背きは赦しへと変えられるからです。そして私たちは聖餐に与ることによって、主イエスの十字架の死の恵みだけでなく、復活して永遠の命を生きておられる、その新しい命の恵みにも与るのです。主のからだと主の血にあずかることで、私たちの信仰が養われ、主の復活の命に与る希望を与えられていることに心から感謝いたしましょう。


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