説教題: 『主に従って生きる』
聖書箇所: マルコによる福音書 8章31~9章1節
説教日: 2023年2月12日・降誕節第八主日
説教:大石 茉莉
■はじめに
今日はマルコによる福音書8章31節から始まる御言葉に聴きたいと思います。「イエス、死と復活を予告する」の場面のところです。主イエスが、ご自身で「十字架に架かり、死に、そして復活される」ということをお話されたということです。マルコによる福音書では、3回、主イエスご自身がそのことをお話になっていますが、今日の箇所がその始まりであります。
主イエスがなぜこの時に弟子たちにご自身の十字架の道について話し始められたのかということは、前回の27節「ペトロ、信仰を言い表す」の場面とつながりがあります。主イエスは弟子たちに、「人々は私のことを何者だと言っているか」とお尋ねになり、弟子たちは、洗礼者ヨハネとかエリヤ、預言者のひとり、というような人々の噂を口にしました。それを聞いた主イエスは、弟子たちに「それではあなたがたはどう思うのだ?」とお聞きになりました。この時まではもしかしたら、フィリポ・カイザリア地方の村の中を歩きながら、道すがらの会話だったかもしれませんが、主イエスはこの時、おそらく立ち止まり、弟子たちの目をしっかりと見て言われたのではないかと思うのです。
その時、弟子の代表ともいえるペトロが、「あなたは、メシアです」と答えました。まさにペトロの信仰告白です。
ローマの信徒への手紙10章10節にはこう書かれています。「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」私たちも礼拝において、信仰告白をするように、自らの口で言い表すことで、その信仰を確かめ、新たにされ、その信仰が養われていきます。ここで主イエスご自身が、弟子の信仰告白を求めておられ、ペトロの告白をお聞きになり、ご自身の向かわれる道について話す時が来たと思われたのです。主イエスがお聞きになりたかったのは、「弟子たち、あなたはわたしをどう思うのか」という信仰告白です。主は弟子たちをこの問いの前に立たせ、そして、私たちをも立たせます。
前回もお話しましたように、「メシア」とはヘブライ語で油注がれた者という意味ですが、人々はダビデのような、特別な力と権威を持ち、ローマに統治されたイスラエルの苦しい状況から救い出してくれる政治的な強いリーダーを望んでいました。人々だけでなく、弟子であるペトロもそのようなイメージを持っていたのです。ペトロが主イエスを敬愛する師、生涯の師と仰ぎ、どこまでもついていきたいと心から思っていることは、主イエスは十分にご存知でした。しかしそのような政治的なメシア像と主イエスの歩まれる十字架の道とには大きな隔たりがあり、それゆえに、主イエスは、ご自分のことを誰にも話さないようにと弟子たちを戒められたのです。ここまでが前回お話したことでありました。
■主イエスによる予告
そして、主イエスはおもむろに弟子たちにご自分の歩まれる道について、はっきりと教え始められました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」という31節のお言葉です。人の子と書かれていますのは、主イエスのことを指しています。主イエスは神様の独り子であられるのと同時に、処女マリアから生まれた一人の人間としてこの世に来てくださいました。主イエスはご自分について、苦しみを受け、排斥されて、殺され、復活する、ことになっている。と言われました。この「そのようになっている」という言い方は、ご自身のことでありながら、どこか他人事のようにも聞こえますが、これは、そのような神さまのご計画である、ということを明確に表す言葉です。「排斥され」と新共同訳で訳されている言葉は、以前の口語訳聖書を見ますと、「捨てられ」となっています。まさに、不要なもの、価値のないものとして、捨てられ、殺される。主イエスご自身の口で、救い主イエスはこれからそのような苦しみの道を歩むのだと語られたのです。それもはっきりと、あからさまに。神様が計画されていた救い主、メシアの道は、苦しみを受け、捨てられ、十字架にかけられて殺されて、そして三日目に復活する、というものでした。苦しみと死、そして復活、それが神様のみ心であり、独り子である主イエスはそのことに柔順に従うだけであるという意志を明確にお示しになられました。
■「わたしの後ろに下がりなさい」
それを聞いたペトロは「イエスを脇へお連れして、いさめ始め」たのです。
ペトロのメシアのイメージは強いリーダーです。「尊敬する先生がそんな惨めなことになっては困る、あるはずがない、あってはならない」と思ったのです。「先生のそのお考えは間違っています!」と正したのです。いさめるという日本語は、目下の者が目上の人に間違いを指摘する時に使う言葉ですから、まさにペトロは主イエスに対してもの申したのです。
それを聞いた主イエスはペトロを叱ります。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」。引き下がれと訳されている言葉は、直訳しますと、「私の後ろに下がれ」です。主イエスはペトロに「立ち去れ」ではなく、「私の後ろに下がりなさい」とおっしゃったのです。実はマルコ1章7節でペトロに向かって主イエスが同じ言葉を使われています。ガリラヤ湖の漁師のペトロとアンデレにお声をかけられました。その時と全く同じ言葉なのです。「わたしについてきなさい。」です。そして二人は主イエスに従う弟子となりました。ですから、主イエスは、イエスの前に出て諫めるペトロに向かって、「あなたはわたしについて来る者です。ですから後ろがあなたの正しい位置です。その正しい位置に戻りなさい」と言われたのです。これが「引き下がれ」というお言葉の意味です。そしてまた、マタイ福音書4章で、主イエスが荒野で悪魔からの誘惑を受けられた時、「退け、サタン」と全く同じ口調でまさにサタンに向かってこの言葉をおっしゃいました。ここでペトロがしたことは、神の御心から引き離そうとする誘惑でした。ですから神のご計画を邪魔するペトロに対して、主イエスはきっぱりと強い言葉を使われたのです。
ペトロに言われたように、主イエスの後ろを歩み、主イエスの歩まれる道を辿るのが弟子のあるべき姿です。それは当時、主イエスと共にいた弟子たちだけでなく、今、現在の私たちのあるべき姿でもあります。
■自分の十字架を負って
私たちに、主イエスは「わたしに従いたい者は、『自分を捨て』『自分の十字架を負って』『私に従いなさい』」と言われます。
「自分を捨てる」「自分の十字架を負う」。いずれの言葉もその後に続く「わたしに従いなさい」にかかる言葉です。「わたしに従いなさい」が、主イエスが一番おっしゃりたかったことです。私たちキリスト者の歩みは、主イエスの後ろを歩み、前を行かれる主イエスに導かれ、主イエスを見つめて歩むことです。それが主イエスに従うということです。
「自分を捨てる」というと、誰かの犠牲になるとか、自分を押し殺すとか、そのようなイメージが浮かんできますが、そうではありません。私たちはともすると、自分の考え、主張、欲など、自分が人生の主(ぬし)として生きようとしてしまいます。私たち自身の奥底には自己中心的な、自分本位の生き方が潜んでいます。それが私たちの持つ罪の現実です。そのような時に、主イエスを私たちの中心に置く、そのようにありたいと願う、自分中心の生き方ではなく、神を中心とした生き方へとくりかえし立ち帰る。それが自分を捨てる、ということです。私たちは「主が望まれていること以外は望まない」という決断を自らの意志で決断してゆくことが求められています。生きゆく中では、常に「これは主が望まれていることかどうか」を判断基準としていくのです。
そして、「自分の十字架を負う」とはどういうことでしょうか。主イエスは私たちのために何をしてくださったでしょうか。そうです、主イエスは私たちの罪の身代わりとして、十字架にお架かりになって死なれました。そして主イエスは私たちの前を、先頭を歩まれます。私たちの導き手です。その主イエスが十字架を背負って歩まれたのです。ですから主イエスに従う私たちは主イエスと同じように、その列に続く私たちも同じように十字架を背負いなさい、と言われています。頭では理解し、その通りと思っても、体がすくむような思いがするのではないでしょうか。
ところで、皆様は、マタイによる福音書の11章28節以下の聖書の箇所をお聞きになったことがおありだと思います。「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」そうです、よく教会への招きの言葉として入口などに示されている聖句です。この箇所から人は優しい主イエスをイメージします。私たちは様々な重荷、苦しみを負って疲れを覚える者たちです。そんな私たちに休ませてあげようと主イエスは言ってくださっているのです。しかし、休ませてあげよう、に続く29節以下には、こう書かれています。「わたしは柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」軛、それは二頭の牛を荷物を引くためにつなげる道具のことです。つまり、「私の軛を負う」とは、「私の軛を共に負う者になりなさい。そうすれば、その荷は軽いのである。」なぜなら、私が共に担うからである、という意味なのです。
「自分の十字架を負って」もこれと同じことではないでしょうか。私たちの背負う十字架は、主が共に背負ってくださることであり、主が傍らを共に歩んでくださることなのです。主イエスのお言葉はいずれも招きなのです。私の傍らを共に歩んでくださる主イエスがいて下さる、そしてその同じ姿で、というように思うと、恐さよりも安心の気持ちがわいてきます。そしてそれはやはり、私たちの決意、覚悟をも問われているものであります。
■新しい生
そして主イエスの十字架は苦しみと死の後に、復活という新しい生について語られています。主イエスのお言葉を聞いたペトロも、そしておそらく私たちの多くも、この最後の部分、「三日目に復活することになっている」という大いなる神の御業、喜びの御業について聞き漏らしているのではないでしょうか。私たちは苦しみと死のところで、恐れおののき、立ち止まってしまいます。主イエスの復活は永遠の命を約束するものであるにもかかわらず、主イエスを救い主と信じる私たちすべてにも約束されているものでもあるにもかかわらず、そこにたどり着いていないのです。
ですから、この31節で主イエスが語られたお言葉に今一度、ゆっくり、きちんと、耳を傾けてみますと、新たな言葉が聞こえてきます。「わたしの後に従いたい者は・・・」これは決してやさしい言葉ではなく、決意を迫る言葉ではあります。しかし、死に向かう主イエスに従えという招きではなく、今から後も永遠の命へと向かう主に従えという招きの言葉であることがわかるのです。
そして35節から、主イエスは主に従って生きる新しい生について語られます。
「わたしに従いなさい・・・なぜなら、自分の命を救いたい思う者はそれを失い、わたしのため、また、私の福音のために自分の命を失う者はそれを救うから。」
「わたしに従いなさい・・・なぜなら、人がたとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得もないのだから。」
「わたしに従いなさい・・・自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか、どうやっても買い戻せないのだから。」
私たちはまたまた簡単に自分を中心に考えます。生きていくことは、この世で自分を確立することであると考えて、頑張って一生懸命学び、働き、少しでも良い人生を送りたいと考えます。そしてそのためには地位やお金を手に入れたいと考えます。しかし、そのような自分によって、という生き方ではなく、「主イエスによって」「神によって」という生き方はどういうことなのか?そして自分が誰であるのか、自分らしく生きるとは、ということはどういうことなのか?それは今見えている景色の中には見出すことはできません。今、私たちが見ている視点を、えいやっと逆方向、全く見えていない所に目を向ける必要があります。私たちはまさに逆説的に考えるべきなのです。今のこの時代は神に背いた罪深い時代です。主イエスが語られた「あの」時代だけでなく、私たち人間が根本的に神に背く罪の中を生きているのですから、この世はいつも神に背いた罪深い時代なのです。そのような時代、この世の権力が支配しているこの時代の中で生きていく私たちは、ともすれば、主イエスに従う生き方を恥じ、やめてしまいたいと思うことがあるのです。しかし主イエスは、再び主の栄光が現れる時、それは神の国の完成であり、それを信じて歩みなさい、「私に従いなさい」と招き、励ましておられるのです。
■結び
自分を捨て、自分の十字架を負って、主に従う。
主イエスに従う歩みは、主イエスに出会って新しい生を生きる事に始まり、そして、ただただ先を行かれる主イエスを見て、その主イエスにしっかりと結びついていたい、という願いです。従うことは、大いなる喜びであり安心になります。なぜならば、自分で道を探すのではなく、誰よりも信頼できるお方が私たちを導いてくださるのですから。
そして主イエス・キリストの十字架の死による罪の赦し、そして復活という新しい命を信じる者は、自分の命は神によって与えられ、主イエスによって贖われたものであることを知ります。主イエスの十字架と復活の贖いによって、すべての罪人に神の恵みの支配が及ぶのです。そして新しい永遠の命を待ち望む希望をもって生きていくことができます。この上ない恵みが与えられているのです。
主は弱く愚かな私たちを招いてくださる。今、招いて下さる主に「お従いします」とお応えすることは、神の赦しの下で生きることを意味しています。そしてそのような私たちには永遠の復活に生きるという喜びが約束されているのです。主にお従いすることは主が共にいて下さることなのです。この大いなる恵みに感謝し、この弱い私たちが常に主イエスの歩まれた道に従って歩んでいけるよう、聖霊の導きを祈りましょう。
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