説教題: 『主にある喜び』
聖書箇所: 旧約聖書 詩編112:1-10
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書5:9-12
説教日: 2024年9月22日・聖霊降臨節第19主日
説教: 大石 茉莉 伝道師
■はじめに
主イエスによる山上の説教の8つの幸いをここ2回続けて共に読んでまいりました。今日は、その最後の2つの幸いの御言葉から共に聴きたいと思います。9節には平和を実現する人々の幸い、そして10節には義のために迫害される人々の幸いが記されています。はじめに9節の平和を実現する人々の幸いから聴きたいと思います。
■平和を造り出す
「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」主イエスはこのように言われました。私たちが今共に見ております新共同訳聖書ではこのようになっておりますけれども、以前の口語訳聖書、また新しい協会共同訳聖書では、「平和を造り出す人々は幸いである。」となっています。「実現する」という言葉よりも「造り出す」というこの言葉の方がリアルに迫ってくる言葉と言えるのではないでしょうか。英語の聖書でもpeacemakersとなっていました。もし、あなたは平和を願いますか?と聞かれたならば、何の躊躇いもなく、はい、私は平和を願います。と答えられるでしょうが、あなたは平和を造り出していますか?と問われた時、はい、私は平和を造り出していますと答えられるでしょうか。平和を愛する、平和を望む、ではなく、平和を造り出す者は幸い、主イエスはそのように言われました。平和の規模も世界の平和、日本の平和、地域の平和、隣人との平和、家族との平和、このように自分を取り巻く輪をどんどん小さくしていったとしても、私たち自身は「平和を造り出している」とは言えないのではないでしょうか。そのように考えていきますと、平和を願うことはできても、造り出すことの難しさに直面します。さて、それでは平和の反意語である対立、どうしてこれが起こるのでしょうか。旧約から新約の聖書の時代にも多くの対立がありました。以前ともに読みましたガラテヤ書でも異邦人とユダヤ人の対立が問題となっていました。そこから時は2千年、個人個人の対立から、国と国の対立、多くの争いが世界を覆ってきました。私たちの誰一人としてそのことに無縁な人はいません。なぜ争いが起こるのか、その原因は極めて簡単です。お互いが自分の正しさを主張することにより、争いが起こります。確かに価値観の違いや意見の相違などから食い違いが起こり、そのような小さなボタンのかけ違いが大きくなって争いとなるとも言えるでしょうが、いずれにしても相手がこちらの言い分を受け入れてくれたら、争いは終わる、決着を見る、とお互いが思い、お互いが譲らない。それゆえに争いは大きくなります。結局のところ、力の勝負ということになっているのが現実ではないでしょうか。そのように私たちは平和を造り出すということがいかに難しいことか、ということを突きつけられています。現在も続いている世界における戦争も、まさに自分の正しさを主張することによって終わることがありません。たとえ戦争という大きな争いでなくとも、小さな対立、また抑圧というような誰かを犠牲にしている状態というのは私たち自身にも当てはめて考える必要があるでしょう。このようにして考えてみますと、私たち自身の中には、何も平和を造り出すものは持ち合わせていないとしか言いようがありません。
■キリストの平和
さて今日の箇所の幸いでこの5章の始めから続けられてきた8つの幸いが終わるわけですが、この幸いは誰に向けて語られてきたのか、ということに立ち戻りたいと思います。5章1節、「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。」さらにその前、4章から振り返りませば、ペトロをはじめとする四人の漁師たちを弟子にされて、そして23節以下、主イエスはガリラヤ中を回って、教え、福音を宣べ伝え、そして人々に癒しの御業をなさいました。そして、「大勢の群衆が来てイエスに従った。」と4章25節には記されています。この8つの幸いはそのような人々、弟子たちや、主イエスの教えを聞いて、主イエスのもとに集まってきた人々に向けて語られたお言葉です。この人たちもいわば、私たちと同じ、自分たちの中には全くもって平和を造り出す要素は持ち合わせていない人々でありました。主イエスはそのような私たちをも含む大勢の人々に向かって、「あなた方は幸いである。」とこれらの8つの幸いを語られたのであります。ですから、私たち、平和を造り出すことのできない私たち、に向かって、あなたがたは幸いである。あなたがたは神の子と呼ばれるのだ、と言われたということです。そして私たちは神の子と呼ばれる、と主イエスは言われました。私たちは主イエス・キリストにあって、主イエス・キリストに繋がっていることで、神の子である主イエスと同じく、天の父の子としていただけるということです。だから、私に繋がっていなさい、私のところにいなさい、私を見なさい、私に近くありなさい。主イエスはそのように言っておられるのです。主イエスは「平和の君」と呼ばれるお方であります。そしてエフェソの信徒への手紙2章14節以下―354ページにはこう書かれています。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」「敵意という隔ての壁」と書かれています。私たちの持つ敵意という隔ての壁が平和を妨げています。ベルリンの壁も、イスラエルの嘆きの壁も、互いを対立させるものでありました。主イエスが御自分の肉において、つまり十字架の死を持って、壁を取り壊し、それによって神との和解が与えられたのです。人と人とを対立させるその根本には、神に対する敵意があった、と聖書は告げています。それは神を主人とするのではなく、自分が主人でありたいからです。しかし、主イエスによって開かれた新しい命においては、私たちは皆、主の僕なのであります。
■主にあって
キリストにあって、私たちは平和を造り出す者とされているのです。これは自分たちでは信じられないかもしれませんが、キリストを信じる時、神によって義とされた、よしとされた、ということと同じであります。自分たちの中には全くもって正しいものはなく、むしろ汚れしかない者たちでありながら、キリストを主であると告白する時、義とされるのです。キリストにあって、つまり、キリストに繋がっている私たちは、その実を結ぶことができる、自分たちでは決してその結ぶ実を大きくとか立派にとかできませんが、キリストと共にある限り、私たちは霊に導かれて歩むのであり、「霊の結ぶ実は愛です」とガラテヤ5:22も記している通りです。私たち一人ひとりの思いはちっぽけなものでしかありませんが、それを集めてくださるのは主イエスなのです。平和、そして平安、この言葉はヘブライ語ではシャロームです。神との和解のうちに置かれていることを表す状態がシャロームであり、そして私たちが「こんにちは」というような形で挨拶を交わすとき、お互いに「シャローム」と言い合います。「神の平和、神の平安があるように」という祝福しあうのです。
■弟子たちへ
11節で、ここで主イエスは一般的な語りから、弟子たちへの直接の語りかけに言い換えをされました。義のために迫害される、から私のために迫害される、へ。人々は幸いからあなたがたは幸いへと。弟子たちは主イエスを取り囲むように座り、主イエスが語られるのを聞いてきました。ここまでの間に主イエスが対象とされている人々、心貧しく、悲しんでいて、義に飢え渇いていて、そして義のために迫害される人々。それはいったいだれなのだろうか、どのような人々なのかと思って聞いている弟子たちに、イエスは「それはあなたがたなのだ、幸いなのはほかならぬあなたたちなのだ。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるときのあなたたちなのだ」と言われるのです。弟子たち、さらにそこで聞いている人々、誰一人として自分のことを言われているとは思っていませんでした。
そしてそれは今、この御言葉を聞いている私たちにもあてはまることであります。この山上の説教は、教訓的な教えであると言われたりします。そして幸せになるための教えであるとも言われたりもしますが、そうではないのです。この主イエスによって語られた「幸いの教え」は主イエスに従って歩む私たちに与えられた信仰の歩みのためのものなのです。
義のために迫害される、主イエスの名のゆえに迫害される、それはキリスト教の始まりからそうでありました。十字架に付けられて死を迎えた主イエスを救い主と信じるキリスト者たちは、ユダヤ人から異端視されました。そしてユダヤ人で主イエスを信じた者は同胞から、ユダヤ人の共同体から追い出されました。紀元1世紀、ネロ帝によるキリスト者迫害はローマ中心に起こりました。使徒ペトロやパウロもこの時に殉教したのでした。ドミティアヌ帝による迫害は小アジア中心に、そしてディオクレティアヌス帝による迫害では多くの殉教者を出しました。313年にコンスタンティヌス帝がミラノ勅令によってキリスト教を公認したことによって、やっと迫害の嵐はおさまりました。この300年もの迫害の間、人々を慰めたのがこの主イエスの「義のために、主イエスのために迫害される人々は幸い」という教えでありました。時代を経て、この地の果てである日本においても、キリスト教禁制の時代、迫害を受けた人々が多くいたことは皆様もご存知の通りです。
■喜びなさい
さて、そうして最後の節12節まで読んできますと、「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより先の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」とあります。私たちは今の世にあって、殉教するほどの迫害というものはないと思いますが、それでも様々な苦難や悲しみに直面しています。このような苦難に耐え、信仰を守るように頑張れ、と言われているように思い、それは無理!と思ってしまいますが、主イエスがおっしゃっておられるのはそのようなことではありません。旧約の時代、確かに迫害や苦難に耐えた、神への信仰を守り抜いた預言者はいたでしょう。しかし、主イエスこそが預言者の中の預言者、預言者の完成者としてこの世に来てくださったのです。まさに主イエスはこの世にあって、ののしられ、迫害を受け、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられて、そして十字架で死を迎えられました。私たちはその方を救い主とし、その方と共に生きているのです。私たちは主イエスに従う者たちであります。主イエスはすべての苦しみ、悲しみ、苦難、迫害、をその身にお引き受けくださいました。私たちの苦難はすべて主イエスがご存知であり、同時に共に痛み、悲しんでいてくださるのです。
■結び
3回にわたって、幸なるかな、から聞いてまいりました。「心の貧しい人」、「悲しむ人」、「柔和な人」、「義に飢え渇く人」、「憐れみ深い人」、「心の清い人」、「平和を実現する人」、「義のために迫害される人」、これをこうして改めて読みますと、一人のお方が浮かび上がってきます。それは主イエス・キリストであられます。これらすべてはすでに主イエス・キリストにおいて実現しているのです。ですからそれを主イエスご自身がこうして語られ、「私と共にありなさい。そうすれば、あなたも祝福される。」という招きの言葉なのです。主の招きに従い、大いなる恵みの祝福に与りたいと思います。
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