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『与え尽くす決意』 2024年8月11日

説教題: 『与え尽くす決意』

聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書42:1(旧1128ページ)

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書3:13-17(新4ページ)

説教日: 2024年8月11日・聖霊降臨節第13主日

説教: 大石 茉莉 伝道師


はじめに

洗礼者ヨハネはヨルダン川のほとりで人々に洗礼を授けていました。前回の5節には「エルサレムとユダヤの全土から、またヨルダン川沿いの地方一帯から人々がヨハネの元に来て・・・」と記されています。大勢の人が集まり、洗礼者ヨハネは人々に悔い改めを語っていたのです。そして今日の箇所ではその洗礼者ヨハネのところにいよいよ主イエスが来られました。「イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。」とあります。それは洗礼をヨハネから受けるためであると書かれています。

 

■すべての義を満たす

主イエスが「わたしはあなたから洗礼を受けるために来た」と言われたのでありましょう。それを聞いたヨハネは思いとどまらせようとした、と14節にあります。「わたしこそ、あなたから洗礼をうけるべき者であります。」ヨハネはそのように言います。ヨハネは、自分は後に来られる方のための道備え。主イエスのための準備をしていると思っていました。ですから、主役が登場した時には、脇役として道を譲る、そのようにわきまえていました。それにもかかわらず、主イエスはこの自分から洗礼を受けるなどとおっしゃる、とても驚いたことでありましょう。それに対して主イエスはこう言われました。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」新しい協会共同訳聖書では「今はそうさせてもらいたい。すべてを正しく行うのは、我々にふさわしいことです。」とあります。主イエスが洗礼を受けるという強い意志、強い願望が伝わってまいります。そして「すべてを正しく行う」と訳されている言葉は直訳しますと、「すべての義を満たす」であります。この「義」という言葉はマタイ福音書にはよく出てくる言葉です。この先もマタイ福音書を続けて読んでまいりますけれども、まず5章の山上の説教の中に、6節「義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる。」、10節「義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」、また、20節にもこのようにあります「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」また、6章33節「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」これらの箇所から分かることは、「義」とは人間が行うべき正しいこと、という意味であることがわかります。「行うべき正しいことのために迫害される人は幸い、天の国はその人のもの。」「まず神の国と人間として行うべき正しいことを求めなさい。そうすれば与えられる。」つまり人間が行うべき正しいこと、それは神の御前に罪を告白し、悔い改め、そして赦しのしるしとして洗礼を受けるという、これが行うべき正しいことの最も基本、正しいことの始まりであると言えましょう。私たちがそのようにすれば、それは神によって与えられる、と聖書は言います。しかし、私たちは何が正しいことなのか、そしてそれをどのように表せば良いのか、その方法もまたどうやって神の方を向けば良いのか、そのことがわからなくなってしまっているのです。主イエスは神の子であられますから、罪のないお方であり、そして洗礼を授けるべきお方であると言えましょう。しかし、それにも関わらず、主イエスは罪ある人間が神の前でなすべきことを、まず先頭に立ってしようとなさったのでありました。救い主であられる主イエスは、人として歩まれる。その始まりとして、人間がなすべきこと、正しいこと、を自らが示そうとされたのです。

 

■わたしの心に適う者

主イエスのお言葉に従い、ヨハネは洗礼を授けました。主イエスの全身をヨルダン川に沈ませたのです。そして主イエスが水から上がられると天が開きました。主イエスはご自分の上に神の霊が鳩のようにご覧になったのでした。さらに神の声が天から聞こえてきました。神はこう言われました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。人間としてなすべき正しいこと、悔い改めのしるしである洗礼を受けたこの主イエスこそ、わたしの愛する子であり、そしてわたしの心に適う者である、と神は言われました。この主イエスの洗礼の出来事はマルコ1章9節以下、ルカ3章21節以下にも記されていますが、少し表現が違います。マルコとルカでは「あなたはわたしの愛する子」と書かれています。つまり、主イエスに神が語りかけておられる言葉であると言えましょう。しかし、今日のマタイの表現は、主イエスへの語りかけではなく、そこにいるヨハネをはじめとする大勢の人々に向かっての宣言であると言えるでしょう。

今日、旧約聖書はイザヤ書42章1節を読んでいただきましたけれども、「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。」とあります。イザヤ書において、神はご自分の御心に適う僕を指し示し、この人によって私の救いは実現する、と宣言されておられます。今日の主イエスの洗礼の場面において、語られた神の言葉とまさに重なる宣言であります。このイザヤ書42章の小見出しには「主の僕の召命」と書かれています。イザヤ書にはこの42章以下に「主の僕の歌」と言われる箇所が4箇所あります。49章1-6節、50章4-9節、そして52章13節以下です。こうして神に召し出された僕は、どうなったのか、と言いませば、最後にはこの僕が自らを投げうち死んで、罪人の一人に数えられたのであります。主の僕は多くの人の過ちを担い、背いた者たちのために執り成しをしました。こうしてこの僕が私たちの罪を全て担ってくださったことで、私たちに平和、救いが与えられる、主の御心に適う僕は自らの死によって、私たちの救いを実現する、とイザヤは預言しているのです。預言者イザヤがこれを語ったのは主イエスがお生まれになる700年以上も前のことです。しかし、主イエスはこの「主の僕の歌」に示されている通りの歩みをなさいました。私たちキリスト者はこのイザヤの語った「主の僕」が主イエスであり、こうして主が預言者を通して言われていたことが成就した、とここでも旧約の預言の実現者としての主イエスを見ることができるのです。主イエスは人としてこの世に来てくださいました。罪なき神の子でありながら、私たち人間と同じ姿としてまず、洗礼を受けるという神への悔い改めの道を示してくださいました。それは全てを正しく行う、つまり、神が正しいとする、という神の義を示してくださったということです。マタイは主イエスの洗礼に始まる人としての道には、イザヤ書に示されている主の僕の道を重ねて見ていたに違いありません。

 

■天が開いた

そして主イエスが洗礼を受けられた時、「天が開いた」と書かれています。天が開く、というのはどういうことでしょうか?この地球上で私たちは地に住み、天というのはこの地上を覆って広がる無限な空間と言う認識ではないでしょうか。その天が開くのです。地が開く、というのは私たちはイメージできることのように思います。まさにちょうど数日前に宮崎県で大きな地震がありました。南海トラフ巨大地震の注意喚起がなされています。あちらこちらで大きく地割れした被害の様子が映し出されていました。詩編24編2節に、「主は大海の上に地の基を置き/潮の流れの上に世界を築かれた。」という御言葉ありますように、創造主であれらる神は混沌から空と水を分けられました。そして水と地、その地の上にこの世界を築かれたのでありました。この地は潮の流れの上、大海の上に置かれたものであり、地の下で起こる地震についても私たち人間には計り知ることはできません。私たち人間がいくら研究を尽くしても、神によって創造されたこの世界を究めることはできないのです。空、天はさらに私たちにとっては無限の空間であります。天はこの地からは開くことはできず、天からのみ開くことができるのです。私たちの創造主であられる神、父なる神様は天におられる、私たちはそのように理解し、祈りにおいても言葉にいたします。そこが開いたとき、つまり、主イエスが洗礼を受けられた、主イエスが人としてこの地に来てくださった、その時は父なる神がこの地に介入してくださったということなのです。神様ご自身がこの私たち人間の歴史に介入してくださり、そして天と地が結ばれたのです。なぜ、神様はそうなさったのでしょうか?先ほどもお話しいたしましたイザヤの預言をもう一度、振り返りたいと思います。神は僕をお選びになりました。喜びを持って選ばれました。その僕の上に神は霊をおかれます。その僕が選ばれたのは何のためであるかといえば、それは全ての民の裁きを導き出すためでありました。しかし、民はその僕を軽蔑し、その人が見捨てられたのは、その人が神に背いたからだと思っていました。しかし、そうではありませんでした。その人が刺し貫かれたのは、私たちが神に背いたからであり、その人が私たちの罪を全て担って死んでくださったということを知ります。私たちの背きのために、神に執り成しをしてくださったのはその僕であった。そのように書かれています。

主イエスはその始まりのとき、つまり、この地に人として来てくださったその時から、すでにこの神のご計画を知っておられました。神と人間とを執り成すために来られました。罪ある人間が神に悔い改める、神の前によしとされる、それは洗礼を受けることによって始まる、とその方法を自ら示してくださいました。なぜ、神はそこまでなさるのでしょうか。ヨハネ福音書3章16節、167ページ、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」これが神の愛なのです。人間は神にかたどって創られました。神と人間との関係は本来、そのような絶対的な関係だったのです。それにもかかわらず、人間はその絶対的な関係から離れました。そのような人間に対して、神は変わらぬ絶対的な愛を注ぎ、そうして創られた人間が罪人として滅びることを望んでおられないのです。それゆえに神は天に留まっておられず、神ご自身が人としての形となり、この地に直接に罪人として裁かれるために立ってくださった、ということなのです。神は父、子、聖霊、三位一体の神であります。主イエスが洗礼を受けられた時、聖霊が鳩のように降り、そこには神ご自身がおられたことがこうして示されているのです。

 

■結び

神はその絶対的な関係性の回復のために、与え尽くす決意をなさっておられます。神はこの罪ある私たちのためにご自身をも与え尽くす決意をしておられます。神は正しいお方、義なるお方であります。私たちが神に向き合うためには、罪は清算しなければなりません。しかし、罪ある私たちがいくら何かの犠牲を捧げても、それはあくまでも一時凌ぎ。完全なる支払い済みとはならないのです。そのために神は汚れのない、罪のない神ご自身によって清算しようとしてくださったのです。それが主イエスであり、主イエスの十字架として私たちに示されています。主イエスは「まことの神であり、まことの人である」と私たちは信じ、告白しております。まことの神であるお方が、私たちと同じ人間に、まことの人となってくださったのです。私たちはこの神の絶対的な、ご自身をも与え尽くす愛、そしてまた、その父なる神の決意を受け止めて、最後まで従順に歩まれたお方、主イエスを知るとき、自らの罪の大きさに慄くとともに、そこまでしてこの私を愛してくださる父なる神の大きさ、強さ、深さに深く頭を垂れ、感謝して受け取ることしかできません。しかし、神が望んでおられるのは、ただ、感謝して受け取ること、そのことなのです。そして主イエスが私の救い主であると力強く告白し、主イエスのなしてくださったことを証ししていく者として用いてくださるよう、祈り願い、主イエスに従って参りたいと思います。

 

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