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『与えられた平和の計画』 2024年12月22日

  • NEDU Church
  • 2024年12月23日
  • 読了時間: 9分

説教題: 『与えられた平和の計画』

聖書箇所:旧約聖書 エレミヤ書29:11-14a

聖書箇所: 新約聖書 Ⅱコリント5:17-21

説教日: 2024年12月22日・待降節第4主日

説教: 大石 茉莉 牧師

 

はじめに

今日お読みいただいたエレミヤ書29章はバビロン捕囚となっているユダの民に向けて書かれたエレミヤの手紙です。列王記下24章は、イスラエルが紀元前597年にバビロニアに国を占領されて、主だった人々、王や貴族、祭司、技術者など1万人が捕囚として首都バビロンに連れていかれたことを伝えています。このエレミヤの手紙は捕囚後4年経った頃に書かれたと言われています。甘い言葉に誘われるな、今を生きよ、神の言葉をきちんと聞きなさい、神を求めよ。エレミヤはそのように告げたわけです。しかし、それを聞いた民はどう思ったか。エレミヤの言葉には従わなかった。単純にいえば、それが結論です。今日の箇所の直前、29章4節以下にはこう書かれています。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない。わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。」バビロンに連れていかれたイスラエルの民が、一番最初に考えること、それは、「いつ帰れるか」でありました。それに対して、「家を建てなさい。」つまり、この地に長くいるということですか?「果樹を植えてその実を食べなさい」桃栗三年柿八年、というのは日本で言われる言葉でありますけれども、果物の成熟ということに関しては、世界的にある意味共通でありましょう。実がなって食べるに至るまでにはどれだけかかりますか?「妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。」世代交代、代替わりするまでここにいるのですか?というように、エレミヤの言葉は、彼らの考える未来とはかけ離れていました。実際、8節にありますように、預言者や占い師たちは、早々に帰還できると告げる者たちもあったのです。連れていかれた民にとっては、そのような言葉に縋りたくもなり、そうあって欲しいと考えるのも、至極当然な気持ちであると言えます。10節に「バビロンに70年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。」主はエレミヤを通してそのようにいわれたわけです。70年という月日は当然ながら、納得できるはずはありませんでした。自分は異国で死んでしまうではないか。結局、捕囚民たちはエレミヤの言葉を無視して、祖国に残った人々と結託し、バビロニアに反乱を起こしました。しかしながら、その結果はエルサレム陥落、南ユダ王国の滅亡となったわけです。紀元前586年のことです。そして捕囚の民が帰還を許されるのは、紀元前538年、ペルシアがバビロニアを侵略したのち、ペルシア王キュロスの勅令によるまで長い長い年月を要することになるわけです。

 

■エレミヤの手紙が示すこと

さて、今日の箇所、11節以下では、主の慰めに満ちた言葉が語られます。あなたたちのための計画は平和の計画であって、災いの計画ではない。と言われるのです。そもそも、7節には「あなたたちを捕囚として送った」と記されていますように、この捕らわれの民となること自体が神の計画であると示されています。

旧約聖書には、神の計画がその始まり、創世記から記されています。天地創造と人間の創造。そして人間が罪に堕ち、罪と死に支配された人間の歴史。アブラハムの選びと召命。エジプトでの奴隷。モーセによるエジプトからの脱出。シナイ山での十戒の授与。ダビデによる王国。そしてこのバビロン捕囚。その後、究極の救いの啓示がイザヤ書53章の苦難の僕に示されます。これらの神のご計画全てが今日のエレミヤ書29章11節に集約されていると言っても過言ではないでしょう。「あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」神の変わることのない祝福が語られています。

そのためにわたしを呼びなさい、わたしに祈り求めなさい、と神は言われます。それは神との一対一の関係性の中に生きなさい、と言っておられるということです。神を尋ね求めるならば、見出す。祈り求めるならば、神はその声を聞いてくださる、というのです。神の御名を呼ぶ、呼び続けることで救われるのです。神を呼ばないでもやっていけると思うこと、それは人間の最大の罪と言ってよいでしょう。ただ神を呼び求め、心を尽くして祈ることで神は私たちを顧みてくださるのです。13-14節には「わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。」とあり、見出し、出会う、と同じ動詞を繰り返して、「私はあなたがたと会う」と神の熱情、神の私たちへの思いが強調されています。

彼らが連れて行かれたバビロンは異教の地であり、汚れた土地と考えられていました。彼らにとって神を礼拝する場所は神殿でありました。彼らはこの汚れた場所に神殿を建てることもできないし、主なる神への礼拝を行うことはできないと考えていたのです。しかし、エレミヤはこの手紙で、そのような場所であろうとも、神の民として生きることができる、礼拝を捧げることができるということを示していました。どのような場所であっても、主が共におられ、主が支配しておられることを信じて、祈るということは不可能ではないということです。祈りによる霊的な礼拝を捧げることができるのです。このことは、私たちも数年前、コロナによって、礼拝堂で礼拝をお捧げすることが難しくなった時、苦痛を覚え、悲しみを覚えましたけれども、祈りを、礼拝を捧げることは可能であったのです。主イエスも言っておられます。マタイ18:20「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」まさに私たちにはこの言葉が与えられており、私たちの祈りは天の父が聞き届けてくださるとある通りです。

 

■迫害する者のために祈れ

さらにエレミヤは捕囚の民に対して、「その町のために」祈りなさい、という勧めをいたします。捕囚となっている民にとっては、全くの想定外のことを求められたということですが、ちょうど共に読んでまいりましたマタイ福音書、主イエスが山上の説教で教えておられること、5章の最後「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」という祈りにつながる真の平和を求める祈りであります。捕囚として連れて行かれた異教の地、そこで絶望にある民が、その異教の地は神に祝福されている地であり、神の祝福を受けて繁栄するように、と祈りなさい、というのです。それは神の支配がそこでも実現する、どこにあっても神を讃え、礼拝を捧げることができるということに他なりません。そのような心からの礼拝をお捧げすることによって、それは彼ら自身が絶望から解放されることでもあります。さらにはこの、まだ、ここには主イエスがこの地にいらっしゃる以前から、神の御心は全ての人間の平安であるということが示されています。この預言者エレミヤの預言は、この時代にあって、すでに主イエスの時代の到来を予感させるものであり、主イエスによって私たちの間に実現する神の支配が、すでにこのバビロンにおいて示されているのです。時代や国境を越える普遍的な神の臨在、神の支配を見ることができます。神が民をバビロンに捕囚として送った、と4節に示されていたように、神はイスラエルとバビロンの間にあって、その壁を超える支配と平和の実現を計画し、そしてエレミヤを通して民に示しておられるのです。

 

■新しい民の始まり

こうして罪の中にあったイスラエルの民はバビロン捕囚によって、神へ立ち帰る機会を与えられました。民の新しい始まりといえるでしょう。神が望んでおられること、それは人間が平安のうちにあることです。神に背くのではなく、神から離れるのではなく、神に向き合い、神との和解によって生きるということです。イスラエルの民は、こうしてバビロン捕囚を新たな時として与えられましたが、残念ながら神の御心に沿った祈りを捧げ続けることはできませんでした。依然として力で圧するメシアを待ち望み続けたのです。ダビデやソロモンのような繁栄が再びイスラエルに与えられる。そのためには強いメシア、力に満ちた王が来られると願い続けたのです。そしてこの後、500年経って与えられた本当のメシア、主イエス・キリストをイスラエルの民は指導者とともに拒否し、十字架にかけるということをしてしまったのです。ユダヤ教からキリスト教への分岐点です。こうしてユダヤ人の躓きによって異邦人への救いがもたらされることになりました。そのことはパウロがローマの信徒への手紙11章でこのように記しています。1節「神はご自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。」続く11節「ユダヤ人がつまずいたということは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。帰って、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。」つまり、神は異邦人への救いを示すことを通して、イスラエルの民、ユダヤ人が真に立ち帰ることを願っておられるということをパウロは主張しています。

 

■結び

主イエスのご降誕、それは暗い夜のことでした。まことの王であられる主イエスの誕生は、煌びやかな神殿のふかふかのベッドではなく、泊まる宿屋を手当できなかったヨセフとマリアに与えられた馬小屋の中のがさがさな藁を寄せ集めた飼い葉桶でありました。そしてそこで礼拝を捧げたのは、貧しさの象徴とも言える羊飼いたちです。

万物の始まりから神と共にあった主イエスはここまでのイスラエルの、人類の全てをご覧になっておられ、そして神と人とをとりなすために、人となってくださいました。神から離れる民のために、唯一の神を知らずに罪を重ねる人々のために、神と人とを和解させるために人となり、全ての人の救いのために、一番低いところに身を置いてくださったのです。そしてどのようにして神と私たちを和解させてくださったかといえば、十字架におかかりになってくださり、そのご自身の命を捧げることで神の赦しを私たちに与えてくださったのです。主イエスは十字架上で言われました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」私たちは今や、主イエスがそのようにして神に祈り、神に執り成し、そして私たちの罪をお一人で引き受けてくださったことを知っております。ですから、キリストと結ばれる者は誰でも、キリストと共に新しく生きる者とされているのです。この神との和解のうちに生きること、これが真の平安であります。神のご計画は平和の計画、私たちに平安を与えるご計画です。それが主イエスによって与えられております。キリストに結ばれ、キリストに従い、キリストによって神に罪赦される。この大いなる恵みの分岐点が主イエスのご降誕、お誕生でありました。このことを改めて覚え、心からの感謝を持って、主が来てくださったことを祝いたいと思うのであります。

 
 
 

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