『不信仰な時代でも』2026年3月15日
- 3 日前
- 読了時間: 10分
説教題: 『不信仰な時代でも』
聖書箇所: 旧約聖書 申命記32:3-6
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書17:14-20
説教日: 2026年3月15日・受難節第4主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
今日与えられた箇所は、前回の箇所と深いつながりがあります。冒頭の「一同が群衆のところへ行くと」という言葉がそれを物語っています。主イエスは3人の弟子を連れて山に登られました。その山の上で、主イエスが光り輝く栄光のお姿に変わり、モーセとエリヤが現れたのでした。その山から降りてきた主イエスと3人の弟子たちが麓で待っていた弟子たちのところにきてみると、というのが今日の箇所の出来事です。すでに主イエスと3人の弟子たちが山の上にいる間に、麓では待っていた弟子たちと群衆たちの間で出来事は起こっていました。それはある人の息子が病で苦しんでおり、それを癒してほしいという願いでした。すでに残っていた弟子たちが試みたものの癒すことができませんでした。弟子たちはおそらく、主イエスが早く戻って来てくれないか、という思いでいたことでしょう。この人の息子はてんかんで苦しんでいた、とありますが、今、私たちが医学的に知っているてんかんという病気そのものであるかどうかはわかりません。協会共同訳聖書では発作となっています。いずれにしてもひきつけを起こして倒れるという症状が起こるということです。そして、その症状は、その後18節に記されているように、悪霊によって引き起こされているものでした。外からこの息子に入り込んで、この子を思うままにして、発作を起こさせて、火の中、水の中に倒れさせ、命を脅かしていたのです。父はそんな息子の様子にいてもたってもいられず、なんとかしてほしい、そう思い、主イエスのもとに連れて来ました。しかし、主イエスは山に登っておられて、そこにはおられず、それゆえに弟子たちに願ったのでした。
■麓の現実
このマタイ福音書の10章1節に「イエスは12人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。」とありますように、弟子たちは主イエスから悪霊を追い出す権能を与えられていました。それゆえに彼らはその権能によって、神に祈りました。そして悪霊に向かって、「この人から出てゆけ」と命じたのでありましょう。使徒言行録16章18節では、パウロが占いの霊に取り憑かれている女奴隷に「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」と命じている箇所がありますが、おそらくこの時の弟子たちも、主イエスの名によってと言ったのでありましょう。しかし、悪霊は出ていかなかった。主イエスが自分たちに権能を、力を与えてくださっているはずなのに、自分たちは悪霊に打ち勝つことができなかった、彼らは自分たちの無力さを思い知らされて、そしてそこにいる人々の手前、どうして良いかわからない、そのような弟子たちの姿が目に浮かびます。さて、今、私たちが生活するこの現実において、私たちも同じような無力さを感じることがあるのではないかと思うのです。主イエスを救い主と信じていても、私たち自身、また、私たちの周りにいる人々に、また、社会に、世界に、何か問題が起きて、なんとかしたいと思って祈ってもどうにもならないことがあります。病気に苦しむ人、家庭の中で起こるさまざまな衝突、子どもたちの中に起こるいじめの問題、DVに悩まされている人、職場で起こるパワハラ、介護と仕事との板挟み、経済的に困窮している人々、ただニュースで聞くだけではなく、自分たちの身近にそのようなことに悩む人、悲しむ人、苦しむ人がいます。何ができるのかと考えても、何もできないという自分自身の無力さを目の当たりにすることがあります。弟子たちが生きる山の麓で起きている出来事は、私たちが今生きているこの世界と何ら変わりはないのです。
■不信仰な時代
主イエスは言われました。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」口語訳聖書訳では「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。」また協会共同訳も「なんと不信仰で、ゆがんだ時代なのか。」となっています。「よこしまな」というよりも「曲がった」「ゆがんだ」という言葉の方がわかりやすいようです。「曲がった」と訳されるこの言葉は、真っ直ぐにいかず、違ったところに行ってしまうという意味の言葉です。ここで語られている主イエスのお言葉は明らかに嘆きの言葉でありますけれども、癒しの業をすることのできなかった弟子たちに対して嘆いておられるのではなく、時代を嘆いておられます。人々が曲がったところに行く、そのように人々が生きている。それは主イエスの時代も今も同じなのだということです。しかし、そのような中にあって主イエスは、「その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」と言われました。そして主イエスが悪霊をお叱りになると、悪霊は出ていき、その子は癒されました。ここに示されていることは、主イエスはそのような時代の中で、弟子たちの挫折を担い、引き受けて、弟子たちに代わって救いの御業を成し遂げてくださったということです。主イエスは「いつまであなたがたと共にいられようか」と言われます。このお言葉は出来の悪い弟子たちにもう我慢ができない、一緒にやっていられない、というような意味ではなく、弟子たちから離れる時が来るということを覚えながら、今の時代を憂いておられるのです。すでに主イエスご自身で第一回目の受難予告をなさった後なのです。主イエスはそのことをはっきりと意識しながらも、この時代にあって、救いの御業をなし続け、そして弟子たちと共にいてくださり、支え、担い続けてくださっています。
■共にいてくださる主イエス
今日の出来事は共観福音書、つまり、マタイ、マルコ、ルカに記されており、「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。」という言葉は、どれもほぼ同じように訳されていますが、実はマタイはマルコ・ルカと違う意味を含めています。マルコとルカは「近くに」、「そばに」とか「〜の方に」「〜のために」というような言葉です。つまり、「いつまであなたがたの近くにいられようか」、「いつまであなたがたのためにいられようか」という意味の言葉ですが、マタイで使われている言葉は、英語で言えば、with、明確に「共に」なのです。ここに福音書記者マタイの明確な意図が示されています。このマタイ福音書の冒頭、マリアに告げられた言葉「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる」という意味である。』」主イエスの存在は、我々と共におられることである、ということがこうして告げられています。そして福音書の最後、28章20節の甦りをなさった主イエスご自身によるお言葉は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」です。このように主イエスは「共にいる」ことが神のご計画そのものであり、主イエスご自身で約束してくださっているのです。マタイは、「共にいてくださる」このことこそが救いであり、そしてその救いは、私たちのために十字架におかかりになって死んでくださった主イエスが復活されて、世の終わりまで「共に」いてくださることによって実現すると告げているのです。ですから、今のこの不信仰な時代、ゆがんだ時代の中で、悪の力に脅かされる私たち、何もできない私たち、負けてしまいそうな私たち、であっても、主イエスは「共に」いてくださる。それがここで語られている強いメッセージです。
■からし種一粒の信仰
さて、何もできなかった弟子たちは、ひそかに主イエスに尋ねます。「なぜ、私たちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか。」と19節にあります。主イエスは言われました。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」この「信仰が薄い」、これもマタイが繰り返し使っている表現です。今まで出てきた箇所、ガリラヤ湖の嵐で舟が沈みそうになって怖がる弟子たちに、「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たち」とおっしゃいました。また、主イエスに願ってガリラヤ湖の水の上を歩いたペトロが、風を見て怖くなり沈みそうになったペトロを捕まえて、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われました。この「薄い」と訳されている言葉は「小さい」という言葉であるともお話ししてきました。主イエスは「信仰が小さいからだ。」と言われたということです。しかし、続く言葉は、「からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。」主イエスはこう言っておられるのです。からし種一粒というのは、世の中で一番小さいものを示す比喩の言葉です。「あなたがたの信仰が小さいからだ。」と言われたのに、「ちっちゃな信仰で山が動く」と言われました。どういうことでしょうか。私たちは小さな信仰を大きくしたいと考えます。しかし、私たちは自分の信仰を風船を膨らますように大きくすることはできるでしょうか。できないのです。主イエスは信仰とは小さいものという前提で話しておられます。大小、多い少ない、の問題ではなく、神から目を離さない、という神への向きを問題にされているのです。今まで「信仰が薄い」と言われた箇所もいずれも、主イエスから目を離し、共にいてくださる主イエスを見失った時に、溺れそうになり、沈みそうになりました。私たちの信仰は小さいのです。信仰を大きくしようとしたならば、私たちは自らの力に頼ろうとし、そして傲慢の罪へと陥ります。しかし、共にいてくださる主イエスを見つめ、からし種一粒でも信仰は十分な力を持つという主イエスの言葉に依り頼むとき、主イエスは「信仰の薄い者たちよ」と言いつつ支えて、守り、助けてくださるのです。ローマの信徒への手紙4章5節には「不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」という御言葉がありますが、まさに、信仰を持つことができない私、神から離れてしまう私であっても、そのような私のために主イエスは十字架にかかって死んでくださった、そのことを信じる限り、私たちは良しとされているのです。私の生きる世界はゆがみ、曲がっていて、私が真っ直ぐに歩けなくとも、主イエスが真っ直ぐな道を備えてくださるのです、その道を歩めと、示してくださるのです。
■結び
今日の旧約聖書、申命記32章はモーセが民に語り聞かせた言葉です。モーセは言います。「わたしは主の御名を唱える。御力をわたしたちの神に帰せよ。彼は造り主なる父/あなたを造り、堅く立てられた方。」ではないか、と。全ての力は神によるのであり、神が力を失ったのではなく、民が神を造り主、父であることを忘れた、これが問題だと言うのです。この申命記32章に繰り返されているのは、「神は岩であり、完全であり、そして真実であり、偽りがない。」という告白と、そして民がそれを忘れたという悲しい現実が示されています。悪霊を追い出せなかった弟子たち、彼らの問題は彼らの無力さではなく、忘却。つまり、彼らに力が足りなかったことではなく、神が誰であるのかを忘れてしまったことです。神は誰なのか、自分は誰の子なのか、誰に依り頼むのか、それを忘れた時、祈りはただの技術になり、信仰は成果を求めるものになります。山を動かす信仰とは、強い確信や、大胆な宣言などではありません。ただ、力あるお方と共に生きることでありましょう。病の息子を持つ父親は言いました。「主よ、息子を憐れんでください。」私たちは一人で立つことはできないのです。主イエスの支えと導きによって、やっと立つことができる存在なのです。「主よ、私を憐れんでください。」今日もそのように祈り願いましょう。
コメント