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『不信から生まれる信仰』 2023年2月26日

説教題: 『不信から生まれる信仰』 聖書箇所: マルコによる福音書 9章14~29節 説教日: 2023年2月26日・受難節第一主日 説教: 大石 茉莉

■はじめに

受難節に入りました。今年のイースターは4月9日です。それまでの受難節の間、主イエスの十字架の死を思い、悔い改めと真摯な祈りの時間を持ってまいりましょう。

さて、今日与えられております御言葉9章14節から29節、これは前回ともつながりのある箇所です。

有名なイタリア・ルネサンス期の画家、ラファエロの最後の大作、そして代表作と言われておりますものに、「キリストの変容」という作品があります。ヴァチカン美術館に所蔵されております。この絵の構図は上半分に、主イエスが真っ白な服に身を包んで輝く姿が、そして下半分には今日お話しいたします汚れた霊に取りつかれた少年と群衆が描かれております。この絵はまさに天と地、上半分が山上での栄光を、そして下半分がこの現実の世界において罪の中にある人間を、主イエスのお言葉によれば、人間の「不信仰」がはっきりと対比されて描かれているのがわかります。山と平地、光と闇、静と動、信仰と不信仰、聖霊と悪霊、聖なる世界と俗なる世界、神の栄光と人間の苦悩・・・みごとなほどに対照的に描かれているのです。インターネットではすぐに出てきますから、どうぞ後程じっくりとご覧になってください。


■地上の現実

さて、ペトロ、ヤコブ、ヨハネと主イエスは山から麓に残してきた他の弟子たちのところに戻ってまいりました。主イエスは山上において父なる神から与えられた祝福をたずさえて、敵意に満ちた現実のただ中へと入って行かれるのです。戻ってまいりますとそこでは、残っていた弟子たちが律法学者たちに議論を仕向けられていました。どのようなことが論じられていたのかと言いますと、弟子たちの無力さが非難され、そしてその師である主イエスの無力さをも批判されていたのであります。主イエスが何を議論していたのか、と尋ねますと、今日の主人公となる汚れた霊に取りつかれた少年の父親が答えます。「お弟子さんたちに、汚れた霊を追い出して欲しいとお願いしましたが、できませんでした。」そのため、それができなかった弟子たちは律法学者から責め立てられていたのです。


■弟子たちの失敗

主イエスは弟子の中から十二人を任命された時、悪霊を追い出す権能をお与えになりました。3章13節以下にそう書かれております。そして弟子たちは実際に派遣され、そして宣教し、多くの悪霊を追い出し、多くの病人を癒した、と6章13節にはあります。そのような経験をもつ弟子たちでありましたから、主イエスが3人の弟子を伴って山に行かれている間に、残った弟子たちのところにある父親が汚れた霊に取りつかれた息子を連れてきて、癒していただきたいと願った時、主イエスがお戻りになるまで待ってくださいとは言いませんでした。自分たちで汚れた霊を追い出そうとしたのです。しかし、今回、それができず、子供は癒されませんでした。この息子はものが言えず、霊が取り付いたら、ところかまわず地面に引き倒し、口から泡を出して歯ぎしりし体をこわばらせてしまう、という状態でした。この息子はてんかんであったと想像できます。医学的には脳内細胞に異常な神経活動が発生して、発作を引き起こすというものであります。近年は、医学、薬の進歩によって、そのような症状を起こされる方が減ったと思われますが、薬もない2千年前、それは霊に取りつかれたものと考えられていたと思われていたことは理解できます。この少年は幼い時から、てんかんの発作に悩まされてきたのです。弟子たちは何とかこの霊を追い出そうと、おそらく何度も試みたことでしょう。しかし、弟子たちが命じても、汚れた霊は言うことを聞かず、癒すことができなかったのです。おそらく追い出そうとするその様子を多くの群衆も見守っていたことでしょう。もちろん、律法学者も一緒に見ていました。そしてできなかったそのことに対して、多くの群衆の失望のため息と、それ見たことか、という律法学者たちの責めの言葉が弟子たちに向けられたのです。14節には「議論していた」とありますが、おそらくは議論というものではなく、一方的にやり込められた状況でありましょう。できなかった弟子たちのみならず、師である主イエスのことも非難していたのです。


■不信仰な世

それらをお聞きになった主イエスはこう言われました。19節です。「なんと信仰のない時代なのか。」という嘆きの言葉であります。この「時代」と訳されている言葉は「この同じ時に生きている人間全部、人々」という意味を持っております。ですから、弟子たちへの嘆きであり、群衆や律法学者への嘆きでもあります。続いて主イエスは「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。」ともおっしゃっています。主イエスはご自身がもうすぐ十字架にお架かりになることを弟子たちにお話しになったばかりなのです。それは8章31節以下に記されておりました。主イエスは十二人の弟子を選び、権能を与え、派遣しました。それらはすべて弟子たちへの訓練でありました。主イエスは十字架への道を歩まれるのです。その後の弟子たちのために、五千人の人々に食事を用意したときも、彼らの手から人々にパンと魚を渡されました。四千人の人々にも、弟子たちが食べ物を配りました。そのように主イエスはご自分が実際に彼らと共にいなくても、弟子たちが主イエスに従う道を歩めるように訓練してこられました。しかし、今回、彼らは主イエスが離れていたのは少しの間であったにもかかわらず、汚れた霊を追い出すことができなかったのです。そんな弟子たちへの嘆きの言葉でありました。そして共にそこにいた群衆、また、律法学者に対する嘆きの言葉でもありました。彼らは主イエスを信じるどころか、否定し、非難していました。主イエスは人々を罪から解放するために救い主としてこの世に来られたのです。その主イエスを彼らは信じず、非難します。人々は罪の中にあり、この世は罪に満ち満ちています。弟子たちは悪しき霊に取りつかれた子供を解放することができず、律法学者を含む人々は罪の中に生き続ける。主イエスはそのような人々のことを嘆かれたのです。

そしてこの主イエスのお言葉は現代の私たちにも投げかけられているお言葉であると言えるでしょう。なぜならば、私たちも様々な困難にあえば、すぐに主を忘れ、すぐに祈りを忘れ、すぐにあきらめ、すぐに主を見失うからです。


■わたしのところへ

嘆かれるだけの主イエスではありません。主イエスは言われました。「その子をわたしのところへ連れてきなさい。」このお言葉も私たちに与えられた主イエスの招きの言葉でありましょう。招きの言葉であり、主イエスのご命令のお言葉でもあります。私たちをあきらめから立ちあがらせ、私たちを力づけ、私たちを神の前に立たせる言葉です。ヘブライ人への手紙4章7節にはこうあります。「今日、あなたがたが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない。」主イエスの招きの言葉を聞いたなら、それに従うことも求められているのです。

汚れた霊はその力を見せつけるかのように少年を地面に引き倒し、転び回って苦しませました。ここには神の力と悪霊の力が描き出されています。悪霊の力は人間を破壊し、憎しみ、そして殺そうとする力なのです。「霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。」と父親は言っています。22節です。それに対して、神の力は人を生かす力であり、愛の力であります。

主イエスはそのような少年をご覧になり、父親にいつからこのようになったのか、とお尋ねになりました。父親は答えます。「幼い時からです。」「おできになるなら、わたしどもを憐れんでください。」と申しました。この「おできになるなら」という言葉に、父親の今までの悲しい経験が示されていると言えるでしょう。父親はこの子の癒しを願ってあらゆる手段を講じてきたのです。しかし、そのたびごとに、その期待は裏切られ、更なる絶望を重ねてきたのです。ですから、その苦しみの中で用心深くなり、期待を裏切られた時のショックが少しでも小さく済むように、「もしできるならば」という表現をしたのでありましょう。

しかし、これは信仰的な態度ではありません。神様に対して「おできになるなら」というのは、神を信頼している言葉ではなく、神を信じている言葉ではありません。それに対して主イエスは言われました。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」

主イエスは、きっぱりと「あなたは信じていない」と父親の不信仰を指摘されました。


■父親の不信仰

「信じる者には何でもできる。」このお言葉は不思議な表現です。信じる者、それは誰を指すのでしょうか。信じる者、それは父なる神に自らを委ねている者、主イエスのことです。主イエスは父なる神にすべてを委ねておられました。父なる神に従い、父なる神の御心のままに歩まれました。それは十字架への道でありました。それによって人々を、私たちを罪から解放してくださったのです。ですから、私たちは、自分自身の中に「不信仰」しか見いだせなくとも、信じる者、父なる神を信じる者でいてくださる主イエスによって救いに与ることができるのです。

この主イエスのお言葉を聞いて、父親はすぐに叫びました。「信じます。信仰のない私をお助け下さい。」この父親の言葉は明らかに矛盾しているのがおわかりでしょう。「信じます」と告白するこの私は「信仰のない者だ」と言っているのです。父親は自分がどんなに信じようとしても、信じられない、真の信仰を持つことができないことを知っています。しかし、主イエスは真実な方である、そのことに信頼する、というまさにそれは叫びとなって表れるものなのです。

私たちは信仰を自分自身の中になにか確信を持つことであると思っているのではないでしょうか。しかし、信仰の確かさは自分自身の中に持つことではないのです。ヘブライ人への手紙11章の冒頭にありますように、信仰とは「望んでいる事柄の実質、実体」なのです。信仰とは「主イエス、お助け下さい」「信仰のない私をお助け下さい」という主イエスへの叫びから始まるのではないでしょうか。

この父親の叫びを聞いて、主イエスは汚れた霊をお叱りになりました。「この子から出ていけ。二度とこの子の中に入るな。」そのお言葉によって、霊は叫び声をあげて出ていきました。そして主イエスは死んだようになっているその子の手を取って起こされると立ち上がった、と27節に記されています。主イエスが「手を取って」とあります。これは主イエスの愛の行為でありましょう。すでに見てまいりましたマルコ1章31節、シモンの姑が熱を出して臥せっていた時、主イエスが手を取って起こされると癒されました。そして5章41節、ヤイロの娘を死から生への奇跡、ここでも、主イエスは子供の手を取って、と書かれております。主イエスは手を取って、その人と一対一の関係を築いてくださるのです。

さて今日の説教の始めにラファエロの絵の話をいたしましたが、この絵には実にたくさんの人々が描かれています。しかし、中心におられる主イエスを仰ぎ、見上げているのはこの少年だけであるように見えます。ラファエロは少年が救いを求める姿をこの視線に込めたのではないでしょうか。主イエスと少年との一対一の信頼関係、それがこの絵には描かれているような気がいたします。


■結び

さて、弟子たちは、主イエスにひそかに尋ねます。「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか。」

6章に示されている二人一組にして派遣されたところを振り返ってください。その時弟子たちは悪霊を追い出し、そしてそれができた後、弟子たちはどのように思い込んだのか・・・その自らの力への過信が6章では五千人の人々に食事を用意することを「私たちにはできません」と言わせ、8章でも四千人の人々への食事を「できません」と言わしめたのです。

今日の結びの29節に主イエスはこう言われました。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ。」さて、弟子たちは祈らなかったのでしょうか。いえ、間違いなく祈ったでしょう。おそらく「神さま、どうか私たちがこの子から汚れた霊を追い出し、この子を癒すことができますように。」と祈った事でしょう。きっとそのように熱心に祈ったと思います。この祈りの何が違っているのでしょうか。

6章で主イエスが最初に弟子たちを二人一組にして遣わした時、彼らは何一つ持たず、本当に無力でありました。そして自分たちの無力ゆえに、依り頼むのは神の力のみでありました。自分たちにそのような力があるはずもなく、それができるのであればそれは神の聖霊の働きによる御業であって、自分たちはそのために用いられる者であると思っていました。しかし、それが現実となった時、彼らはそれらが自分の力であるように思うようになったのです。

祈りにおける主語は神様であります。先ほど弟子たちが祈ったであろう祈り「神さま、どうか私たちがこの子から汚れた霊を追い出し、この子を癒すことができますように。」この祈りの主語は「私たち」もしくは「私」であります。自らの思いが叶うようにとか、自らの力で何とかしようとするのではなく、主イエスが何度も何度も父なる神との祈りの時に父なる神の御心を問われたように、神さまの思いを問い、神様の御業に用いられますように、と願うことを忘れずにありたいのです。


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