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『ダビデの子はダビデの主』2023年7月16日

説教題:『ダビデの子はダビデの主』 聖書箇所: マルコによる福音書 12章35~37節 説教日: 2023年7月16日・聖霊降臨節第八主日 説教: 大石 茉莉 伝道師

■はじめに

さて、このマルコによる福音書において、「メシアの秘密」つまり、「イエス・キリストとは誰であるか」ということが、問われてきた、とお話してきました。それは人々に問いかけられ、弟子たちに問いかけられ、律法学者たちにも問いかけられました。人々には癒しの御業の後では、まだ明らかにすべきでないと思われて沈黙命令を出してこられました。そして弟子たちにはフィリポ・カイサリアで「あなたがたはわたしを何者だと言うか。」と主イエスご自身で、ご受難の道の直前に問われ、ペトロの「あなたはメシアです。」とい信仰告白がありました。そしてそこから、エルサレムへの旅、つまり、実際の十字架への道のりが始まったのでありました。さて、今日のこの箇所では、メシアとダビデ、そして主イエス、その関係性についての問答がなされております。いままでは明らかにするよりむしろ隠されていた「主イエスがメシアである、救い主である。」というこの大きな神のご計画は主イエスの十字架を前にして明らかにされつつあります。今日のこの箇所では、主イエスご自身によって、そのことが語られているのです。

エルサレムに入られてから、祭司長、律法学者、長老たち、ファリサイ派、ヘロデ派、サドカイ派、と多くの立場者たちとの論争が続いてきました。それはすべて、主イエスの権威を明らかにするためのものでありました。皇帝の権威ではなく、神の権威によるものであり、生きている者の神の権威であります。そして直前の「最も重要な掟」において、主イエスが律法と神の国の権威者であることが示されたのでありました。ここまでの論争で34節に「もはや、あえて質問する者はなかった。」と記されておりますように、論争において主イエスの完全さが示され、これ以上の論争を挑む者はなかったのでありました。それゆえに、今日の35節からにおいては、主イエスが聖書解釈をめぐって、律法学者たちに問いかけられたのです。


■ダビデの子の預言

主イエスは「メシアはダビデの子だ」という律法学者たちの主張への反論を取り上げられました。この箇所を以前の口語訳聖書では、「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子だというのか。」となっていました。つまり、キリストとは救い主、「救い主はダビデの子である。」と律法学者たちは言っていました。それは救い主キリストはダビデの子孫として生まれるという預言に基づいています。イザヤ書11章1節から10節です。少し長いのですが、お読みします。「1エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち/2その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。/3彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。/目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。/4弱い人のために公正な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。/その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いを持って逆らう者を死に至らせる。/5正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。/6狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。/子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。/7牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。/8乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。/9わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。/水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。/10その日が来れば/エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。/そのとどまるところは栄光に輝く。」

エッサイの株から救い主が生まれる、という預言がここに示されています。エッサイはダビデの父でありますから、ダビデの家系から平和の王、救い主が生まれ、そして平和の王として人々に平和をもたらしてくれる、というのです。人々は、ダビデの子孫として救い主キリストが生まれる、と信じておりましたし、これは人々にとっては常識ともいえることであったのです。このように当時の人々にとって、ダビデの子というメシア像は自分たちの歴史であり、そして希望であったのです。


■律法学者のメシア像

律法学者たちも当然この旧約聖書イザヤ書の預言に基づいて、救い主はダビデの家系から生まれると信じておりました。さらに彼らは力強い政治的な指導者をメシアと考えていました。ローマの支配から神の民イスラエルを解放するための権力ある、力ある者、ダビデ王国を再びもたらしてくれるような者、そのような者こそが救い主と考えていました。エルサレムに入城されるときに子ろばに乗ってお入りになった主イエスは、彼らの思い描くメシア、救い主とはかけ離れていました。ですから彼らは、「主イエスはメシアではない」そのように判断していたのです。律法学者たちの「メシアはダビデの子」はそのような思いに裏打ちされているものでありました。

律法学者たちは、「ダビデの子孫」を基準に判断をします。「来たるべき救い主は、ダビデの子孫。そしてその方は力によって自分たちを解放してくれる者。それゆえ、とてもそのようには見えない主イエスはメシアではない。」それが彼らの考え方でありました。彼らはその理論は間違ってはいないと思っており、自分たちが判断を下す者となっている傲慢さに気づいていません。神から遣わされる救い主、メシアはそのような人間の基準によって判定されるものではありません。救い主、メシアは人間の側からの期待される像、期待される姿を満たすものとして来られるのではないのです。ここで主イエスはこうして律法学者の期待する救い主を批判しておられますが、これは私たちにも当てはまることではないでしょうか。私たちも、自分に都合の良い救いを期待することがあるのです。ここに登場する律法学者たちと同じであります。


■ダビデの呼びかけ「わたしの主」

さて、そのような律法学者のメシア像を前提として、主イエスは神殿の境内で「どうして律法学者たちは『メシアはダビデの子だ』と言うのか。」に引き続いて、こう書いてあるではないか、と言って詩編110編1節を引用されました。「ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を/あなたの足元に屈服させるときまで」と。』」。「主」とあるのは、神さまのこと、「わたしの主」とあるのはメシアのことです。ですから、ダビデがメシアのことを「わたしの主」と呼んでいるということが示されています。自分たちの祖先を敬うという気持ちの強い民族でありますから、ダビデとダビデの子孫では、当然ながらダビデの方が偉いという関係性です。にもかかわらず、ダビデは自分の後に生まれる自分の子孫を「わたしの主」と呼んでいるのです。つまり、ダビデが救い主を「わたしの主」と呼んでいるのであるから、救い主はダビデの子ではなく、むしろ「ダビデの主」であるではないか。と主イエスが続けて言われた通りです。


■ダビデの罪

厳密にいえば、この詩編110編はダビデの作ではないとされています。しかし、ダビデの信仰が歌われたものとして理解されております。そのような意味で私たちはこの詩編をダビデが歌ったものであるとして聞くのです。主なる神がダビデに語りかけている場面が歌われています。ダビデが神から遣わされた救い主を讃え、その救い主を「わたしの主」と呼んでおります。ダビデ自身は、本当の救いは、自分のような地上の王の支配によってもたらされるものではないことを知っております。救い主は地上の王をはるかに超える神によって立てられる、王であるダビデもその前にひざまずき、主としてお迎えし、そのお方に聞き従う。ダビデはそれを望んでいたのです。ここにはダビデのそのような姿勢が示されているのです。

ダビデはたしかにイスラエルの王の歴史の中で、最も優れた王であったと言えるでありましょう。しかし、聖書はダビデの偉大さだけを記しているわけではありません。サムエル記下11章をみますと、ダビデの最大の罪が記されています。有名な箇所でありますから、ご存知の方も多いと思いますが、かいつまんで申し上げます。ダビデは自分の王宮からとても美しい女性が水浴びをしているのを目に致します。その女性は自分の部下、ウリヤの妻、バト・シェバでありました。自分の部下、ウリヤが戦場にいる間に、バト・シェバを奪い、彼女は身ごもりました。そしてそれだけでなく、自分を信頼する部下ウリヤを一番危険な戦場に送り、彼は戦場で死を迎えました。これはダビデが殺したということを意味しています。そしてダビデはバト・シェバを妻に迎え入れました。これは人間ダビデの弱さ、そして罪に満ちた姿であります。主イエスが「ダビデの子」であるという時、それは救い主が力に満ちた王としてのみならず、このような人間の罪の中にお生まれ下さったということなのです。それは新約聖書の始まり、マタイによる福音書の1章、主イエスの系図の中に6節、「エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、ソロモンはレハブアムを・・・」とはっきりと記されております。人間の欲望による罪の歴史のただ中に、救い主が来られたということが示されているのです。主イエスはダビデの子、として、人間の罪をその身にお引き受けくださって、その罪からの解放のため、救いをもたらすまことの王として来て下さった神の子なのです。


■「わたしの右の座に就くがよい」

すべてを支配しておられる全知全能の神は、救い主として主イエスをこの世に送られ、十字架への死の道をお定めになり、そして甦らせ、その後、天にあげ、そして父なる神の右の座におつけになりました。まさに詩編110編1節にあります「わたしの右の座に就くがよい。」と言われた神の言葉はこうして成就しました。それに続く神の言葉「わたしはあなたの敵をあなたの足台にしよう。」とあるように、主イエスはすべての敵を打ち破り、その支配を確立させてくださるということをすべての人々に告げておられるのです。ここに示されます「敵」とは、私たちを神の恵みから引き離そうとする力であり、それは悪の力、罪の力であります。そしてまた罪が引き起こす苦しみへ絶望へと私たちを連れて行こうとする力であります。そしてそれは死の力なのです。神は主イエスを右の座にお就けになり、そのようなすべての悪、罪、死から解放してくださいました。十字架にかかってくださった主イエスを、私たちの救い主であると告白する私たちは、もはや罪から解放されているのです。コロサイの信徒への手紙1章13節以下にこうあります。「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」


■結び

詩編には多くの「ダビデの詩」が出てまいります。そしてその多くに、ダビデが「主よ」と呼びかけ、ダビデが罪の赦しを求める姿が記されております。ダビデも主を必要としていたのであります。主イエスはダビデを始めとする、私たち人間の罪を負い、十字架にお架かりになり、そして三日目に甦りをされて、天に上げられ、天の父の右に座しておられます。今なお生きて働かれておられる救い主であられるのです。今日の御言葉の最後にはこのようにあります。「大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。」。主イエスのことを「私たちの主」とお呼びするところには、このような光景がある。これはまさに教会の姿です。主の言葉に喜ぶ私たちがある。私たちもまた、このお方を「主よ」と呼びかけることが許されております。十字架の死から復活されて、そして神の右に座しておられる主イエスは、ダビデの子孫であり、そしてダビデの主、私たちの主でいてくださいます。

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