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『キリストを携えて』 2022年10月16日

説教題: 『キリストを携えて』 聖書箇所: マルコによる福音書 6章6節b~13節 説教日: 2022年10月16日・聖霊降臨節第二十主日 説教: 大石 茉莉 伝道師

■はじめに

今日の御言葉は6節後半から13節です。「それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。」というところです。このみ言葉が7節ではなく、6節後半とされている、ということは、6節の前半と繋がっている、ということを意味しています。6節の前半はといえば、先週与えられた主イエスの故郷での人々の不信仰の出来事であります。ですから、今日与えられている御言葉「十二人を派遣する」という小見出しのついたところは、6章1節からと時間的にも、そして内容としても深いつながりがあるのです。主イエスは弟子たちを伴われて、故郷ナザレに帰られました。そこでは主イエスを知る人々の拒否にあわれました。故郷、家族、親戚への伝道の困難さが記されていたわけです。この箇所を踏まえて今日の御言葉に目を向けるとき、主イエスは故郷での拒絶を既にご存知で、これから派遣する弟子たちに見せようとされたのではないか、と思えてなりません。


■主イエスに従う弟子たち

主イエスの故郷、ナザレでは「ごくわずかの癒しのほかは、何もお出来にならなかった。」主イエスが人々から拒否されて、そして癒しの御業も行うことができなかった、その姿を弟子たちはそばで見ていたのです。いままで主イエスの癒しの御業ゆえに集まってくる群衆、救いの数々、弟子たちはそれらを目の当たりにしてきました。そのような主イエスを受け入れる人々の姿だけでなく、主イエスに一番近いはずの人々の拒否の姿をも弟子たちは目の当たりにしたのです。そしてそれから、主イエスは故郷を離れ、付近の村々を巡り歩かれ、お教えになられました。そのように巡り歩く主イエスのお姿を弟子たちはまたそばで見ていました。主イエスはいつも弟子たちに先立って歩かれるお方であり、そうして旅を続けられました。弟子たちが従うのは、旅を続ける主イエスであり、その旅の姿が弟子たちの姿となるのです。


■二人組みにして

3章12節で、主イエスは12人を使徒として任命されました。その目的は、そばに置くため、派遣して宣教されるため、悪霊を追い出す権能を与えるため、でありました。12という数字の持つ意味はすでに何度かお話していますが、イスラエルの十二部族に始まる失われたイスラエルを指し示し、主イエスによる新しいイスラエルの成立を意味しています。新しいイスラエルは主イエスを中心とする共同体であります。そばに置かれた使徒たちは、中心である主イエスと同じ使命に生き、そばに留まるだけでなく、派遣されていくのです。

主イエスは彼らを遣わすことになさいました。そして二人組、それぞれをペアにして遣わされました。二人の弟子の姿、と聞いて思い出されるのが、ルカ福音書24章13節からのところです。エルサレムからエマオへと向かう二人の弟子、復活された主イエスが彼らと道行きを共にされ、お泊りになり、食事をされるのです。この目に浮かぶような印象深い光景は、当時の弟子たちがペアになって派遣されていく姿と重なります。主イエスはひとりずつ、ではなく、二人ペアで遣わされました。遣わされる者を孤独にされることはなかったのです。困難を分け合い、助け合い、支え合うためです。そしてまた、独りよがりにならず、人がひとりで傲慢にならないようにするためでもありました。自分の思いによるのではなく、主イエスのみ心を尋ね求めるため、そのためにも仲間は必要なのです。そしてまた、彼らはお互いに、弟子として行う活動の証人ともなったのです。旧約聖書コヘレトの言葉4章にもこのような言葉があります。「ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。」たとえ一人が絶望しても、もう一人は希望を持ち、その希望を分け与えることができるのです。教会は代々、そうしてきました。あの偉大な伝道者パウロも一人で伝道しようとはしませんでした。牢に捕らわれたとき、同労者であるテモテに、早く来て支えて欲しいと手紙を書き送っているのです。主に遣わされた者たちは、こうして共に歩み続けてきました。


■旅支度

そして8節、9節には派遣される弟子たちの旅支度のことが記されています。「杖一本の他は何も持たず、パンも袋も、また帯の中に金も持たず、履物は履いて、下着は一枚だけ」と指示されています。パンを持ち、お金を持ち、ということは、先々の生活の目処、計画を建てることです。そしてここで弟子たちに与えられた権能は、悪霊を追い出し、病人を癒すことのできる力でありました。それは主イエスがなさってきたことです。その同じ権能を弟子たちに与えたのです。ですからそれは、弟子たちが優れているとかいないとかいうものではなく、またお金で買えるものでもなく、努力で得られるものでもありません。もし、自分が病人が癒せたら…それは自分の力のように思いたくなるものです。この私ができた!この私が!そう思いたくなるのが人間です。しかし、宣教は、弟子たちが派遣されていく先々でなすことは、神様から受けたものを神様に捧げるものです。自分のことを伝えるのではなく、神様の御言葉を、福音を宣べ伝えるものなのです。何かができた自分を誇るのではなく、神様を誇るためのものなのです。宣教は神様の御言葉を宣べ伝えるものであり、神様の恵みを分かち合うためのものであります。そのために、自分では何一つ持っていない、ということを主イエスは弟子たちに示すためにこのような旅支度を指示されました。

履物は履いてよい、これは何を意味しているかと言いますと、当時の宣教のためにはひたすらに歩いて出かけて行く以外に方法はありませんでした。当然ですが荒れた地を歩くしかないのです。危険を回避するためにも履物は必須のアイテムであります。

後にパウロは言います。ローマの信徒への手紙10章14節「信じたことのない方をどうして呼び求められよう。聞いたことのない方を信じられよう。また、宣べ伝える人がいなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。『良い知らせを伝える者の足は、何と美しいことか』」。弟子たちは良き知らせを告げるために歩き続けるのです。そのように行く彼らは杖を手にしています。杖は獣を追い払い、草を分け、体の弱きを助けてくれるのです。杖は実益面だけではなくて、主イエスから託された権能のしるしでもあります。モーセがエジプトの王の前に立ち、イスラエルの民を荒れ野の旅に導いた時、その手には神から与えられた杖がありました。杖は信仰の象徴なのです。そうして彼らは歩き続けました。この旅支度の指示の中で「下着は二枚着てはならない。」だけが括弧付きです。主イエスが語られたお言葉の中でも強調されているのです。普通は下着は1枚身につけます。それを2枚着てはならない、とわざわざおっしゃるということは、そうしようと考えた者たちがいたということです。わたしたちも旅をするとき、今は現地で何でも調達できる便利な時代になったとはいえ、下着の予備は荷物に入れるのではないでしょうか。ここでは袋も持つことを禁じられていますから、もってならないのであれば、身につけて・・・という備えをしようと考えたということです。主に仕える私たちも、下着を二枚重ねることをする、小賢しさを持っています。持つのでなく着るのだから、そして何より外から見えないから、と自分が持つことに執着する愚かな者たちなのです。自分の持てるものではなく、ただただ主に依り頼む。そのことのために、主イエスはこのような旅支度をお命じになったのでした。


■キリストを携えて

弟子たちが遣わされたのは、主イエスによる福音を宣べ伝えるためでありました。そのためには、お金もパンも袋も持たず、ただ杖のみをもって主に信頼して歩むのです。何も持たないということは無力です。不安でもあります。人間は何かを持てば持つほどにそれに執着し、それを手放すことが怖くなるのです。パウロはフィリピの教会の人々に向かってこう言っています。3章7節です、「わたしにとって有利であったこれらのことを、(ここでは自分の経歴や生まれ育ちのことを言っていますが、いわば自分の持てるもののことを指しています)キリストのゆえに損失とみなすようになったのです。そればかりか、私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたとみなしています。」パウロは経歴や出生、自分の知識、財産、能力、そのようなものを持っていること自体が損失だと、自分を誇ることになるから、と、そこまで言うのです。パウロはただただ主を誇れ(Ⅰコリント1:31)と言います。パウロから言わせれば、キリストゆえに、他の全てのものは塵、ゴミなのです。ただただ主イエスのみ。弟子たちは主イエス・キリストだけを携えて、主イエス・キリストだけを指し示すよう、求められているのです。

「そうして彼らは出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒した。」そのように彼らの成果が書かれております。


■予行演習

先週、与えられました聖書の箇所、ナザレでは受け入れられない、では人々の不信仰が書かれておりました。弟子たちにそれをお見せになり、そして、「あなたがたも行きなさい、不信仰の中へ出ていきなさい」と弟子たちを送られたのです。そして、彼らは成功と言える伝道を行ったように書かれておりますが、この後続いていきますマルコ福音書をずっと読んでまいりますと、決して彼らが主イエスと同じ権能を与えられた立派な伝道者となったわけではないことがわかってまいります。罪の悔い改めを説く弟子たちはどのような信仰を持っていたのでしょうか、ただただ主に依り頼むことができていたのでしょうか。

ユダの裏切りによって主イエスが逮捕された時、弟子たちはどうしたでしょうか。マルコ14章50節ははっきりと記します。「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げ去ってしまった。」弟子たちの不信仰が明確に書かれております。二人組になって行った伝道の時、おそらくリーダー格であったペトロは、主イエスを三度も否認しました。このことも聖書ははっきりと記しているのです。そしてそのように挫折をした弟子たちですが、主は復活された後、再び弟子たちに言われるのです。マルコによる福音書16章14節以下です。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」ナザレでの不信仰を見せて、二人ペアで遣わされたのは、いわば予行演習でありました。主イエスはこのお言葉の後、天に上げられて、父なる神の右の座につかれました。そして、「弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。」のであります。


■結び

最後に11節の御言葉に触れておきたいと思います。「あなたがたを受け入れず、あなたがたに耳も傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の塵を払い落としなさい。」彼らの派遣の前に主イエスがナザレでの拒否にあっているように、弟子たちもある所では受け入れられ、あるところでは拒否されます。パレスチナは乾燥した地域です。ユダヤ人は外国を旅してパレスチナに帰る時、国境で足の塵を払う習慣があったそうです。それは異教の汚れを聖地に入れないという意味だそうです。ですから、塵を払うという行為は異教の汚れを払う、ということを意味しています。弟子たちの伝道において、神の国の福音を彼らが受け入れないなら、それは彼らの責任であり、そのしるしとして「足の裏の塵を払いなさい」というのです。神の平安の中を歩むか、歩まないか、それは祝福の中を生きるか、そうでないか、という大きな分岐点なのです。神の国の福音を受け入れるか、受け入れないか、それはどちらでもよい、というようなものではなく、救いと裁きの分岐点という厳しさも持っているのです。

主イエスはわたしたち人間全体をお救いになるため、父なる神からこの世に遣わされました。そして主イエスは12人を遣わされたのと同じように、私たちにも、「この世の不信仰の中へ出ていきなさい。」と言われるのです。弟子たちが出かけて行ったように、わたしたちも派遣されて参りましょう。大丈夫です、主は常に共にいて下さり、そして主が共に働かれます。

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