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『キリストへ導くために』 2024年3月24日

説教題:  『キリストへ導くために』

聖書箇所: ガラテヤの信徒への手紙 3章19~22節

説教日:  2024年3月24日・受難節第6主日

説教: 大石 茉莉 伝道師

 

■はじめに

今日の御言葉は前回の続きの箇所でありますから、前回のところでパウロが何を伝えたかったのか、というところをまず押さえておきたいと思います。15節からの前半部分でパウロは律法よりも神の約束が先にあったということを明らかにいたしました。モーセに与えられた律法、十戒より以前に、神の約束ありき。神の民は律法を守るから神の民なのではなく、約束が与えられたから神の民なのである。そのことが述べられておりました。

そうなりますと、律法の役割とはなんなのか。これが今日19節から22節でパウロが説明しようとしていることであります。

 

■律法の役割

律法よりも先に、約束が与えられ、そしてその約束こそが大切である、となるのであれば、律法には何の意味があるのか。なくても良かったのか、いいえ、そうではない、とパウロは説明します。パウロはこのようにいうのです、「律法は約束を与えられたあの子孫が来られる時まで、違犯を明らかにするために付け加えられた。」律法は神の民が神の民として歩むための道しるべであります。モーセに神が十戒を与えられた時、出エジプト記20章以下、民は神が来られたことを雷鳴や、稲妻、角笛の音、山が煙に包まれる有様を見て知りました。民は恐れ慄き、モーセに語ってくれるようにと願います。モーセは民にこたえます。「恐れることはない。神が来られたのは、あなたたちを試すためであり、また、あなたたちの前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである。」律法は神の御心として民に示されなければなりませんでした。本来、律法は主イエスが言われたように、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛する。」「隣人を愛する。」ためでありました。しかし、ここでパウロが言うように、人間はその律法を違犯を明らかにするため、という道へと舵を切ってしまったのでした。神の民は神を愛し、神の民としての歩みの道標として律法を与えられたのでありましたが、民の意識は「守るか」「守らないか」となってしまい、愛の実践のための律法という形から離れるものとなったのでした。ルール、それは守ることが良いことであり、それを守らないことは違犯として裁きの対象となったということです。パウロはここで律法主義の問題点を指摘しています。

 

◾️期限つきの律法

そのような律法は期限がある、と言っています。それは約束を与えられたあの子孫が来られる時までである、と。つまり、主イエス・キリストによって、人々は律法から解放された、とパウロは言うのです。十戒は「〜してはならない。」という命令形によって示されていますが、これは全て神との愛の関係を保つためでありました。民が神との交わりの中に生きるため、神を愛するためでありました。しかし、人間は「〜してはならない。」「〜しなくてはならない。」という制約の中では人は心から愛するということはできないのです。愛は義務ではないからです。それは自らの中に湧き上がってくるものであり、「愛さなくてはならないから、これを行う」というのでは、本当の愛を実践することはできないのです。主イエスはそのような人間を律法の縛りから解放してくださったのです。分かりやすい例を申しませば、主イエスが手の萎えた人を癒されたこと。マルコ3章1節以下。ここでは愛の業を行うことと、安息日が対立していました。つまり、神の愛と、律法とどちらが優先されるか、ということです。主イエスはマルコ3章5節で「イエスはいかって人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら」と書かれています。彼らは父なる神の御心から離れ、単に律法を守ることに意味を見出してしまっている、主イエスはそのことに怒りと共に、強く悲しみを持たれたのです。主イエスは安息日に会堂の真ん中で、片手の萎えた人に手を伸ばすようにと言われました。そしてその手は元通りになったのでありました。主イエスはこのようにして、愛を実践されました。律法を守ることよりも、愛を実践することを神が喜ばれることを示し、人々を律法から解放されたのです。パウロはこの主イエス・キリストが来てくださったことによって、律法は期限付きであった、と言うのです。

 

■約束の強調

さて、パウロは続けて律法は天使たちの手を通し、仲介者の手を経て制定されたものだ、と19節後半で言っています。このことは何を説明しているのかと言いますと、モーセが神から律法を与えられた時、先ほども見ました出エジプト記20章、この律法がどのように与えられたのか、といいますと、まずモーセは40日間山に篭り、そして2枚の契約の板に書き記された神の戒めを民の元へ持ち帰りました。つまり、律法はモーセという仲介者を通して民に取り継がれたのでした。出エジプトの20章に天使は登場致しませんが、それより前、モーセの召命の時、あの有名な燃える柴の話のところです、出エジプト記3章2節にこのようにあります。「そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。」この主の御使いがここで言われている天使であります。また、使徒言行録7章30節以下にも「四十年たったとき、シナイ山に近い荒れ野において、柴の燃える炎の中で、天使がモーセの前に現れました。」と天使のことが語られています。さらに38節、「この人(モーセ)が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれたのです。」つまり、命の言葉である律法は、神から天使、御使いへ、そしてモーセへ、そしてモーセから民へともたらされたと言えるということです。

パウロがここでこのことを持ち出したのは、約束との比較のためです。約束は20節にあるように、仲介者を必要とせず、神がお一人でことを運ばれたのだ、と強調したいことはこちらなのです。アブラハムへの約束は、神がアブラハムに直接になさった約束、誰も仲介者を挟まず、お一人でなさったこと。この比較によって、アブラハムへの約束はモーセ律法よりもはるかに優位である、大切である、ということを言おうとしているのです。神の救いの約束が先立ち、その約束のもとにある者たちに生きる指針としての律法が与えられた、この順序が大切なのです。

 

■罪に傾く本性

21節には、こうあります。「それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。」以前にもお話しいたしましたが、修辞疑問文というパウロらしい表現が取られています。反するものなのでしょうか。と疑問形になっていますが、「決してそうではない。」ということを強調するための表現です。パウロは続けます。「万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。」ここで人間とはそもそも人間とはどのような存在であるのか、ということをお話ししなければなりません。神は人間を自由な存在として造られました。それは旧約聖書の始まり、1ページ以下、創世記2章16節にあるように、「園の全ての木から取って食べなさい。ただし善悪の木からは、決して食べてはならない。」神はこのように人間に自由とルールをお与えになりました。しかし、人間の本性には、罪に傾く傾向があるのです。人間は神ではないので、なんでも思い通りにできるわけではありません。しかし、人間の心には、物事を自分の思い通りにしたいという根強い欲望があるのです。この欲が罪となって現れます。創世記3章には蛇が登場し、その蛇がアダムとエバをそそのかします。人間はこの蛇の誘惑に対して、自分の欲を優先し、神が定めた法、ルールを破りました。このように外から人間に罪を犯すように働きかける力があります。この世には様々な誘惑があり、罪に傾く心を持つ人間は、その誘惑に負ける弱さがあります。こちらをすることが正しい、良いことだとわかっていてもできないのです。パウロはそのことを、新約聖書283ページ、ローマの信徒への手紙7章18節以下でこう言っています。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行なっている。」これを今の私たちの現代生活に当てはめて考えてみます。私たちの世界に定められている法律、それを犯せばそれは明らかに犯罪であります。それが悪いことだとわかっていても、止めることができない。薬物中毒、性犯罪、盗み、詐欺など、挙げ出せばいとまがありません。人間がそれに従って、止めることができれば、犯罪は無くなるということになります。しかし、人間はそれができない。そして明らかな犯罪として罰せられないことでも悪はたくさん存在しており、それらと無縁な方はありますでしょうか。今はタバコを吸う方も減りましたから、その吸い殻もほとんどなくなりましたが、それでも道端にポイと捨てられていることはあります。それだって、本来、良いことではないとわかっているのに、そのようにする人がいるのです。そのような目にみえるものでなくとも、自分の心の中での悪と無縁な方はありますでしょうか。誰かよりも自分の方を優位に置きたいと思う気持ちや、人の成功を妬ましく思ったり、また、悪意を持った行いや、怒り、など、パウロの悪徳表に列挙されるような思いや行い、それらはすべて悪として存在し、私たち人間に働きかけます。第一ヨハネ2章16節にこうあります。「すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。」私たちがこの世の悪に対して、そのように罪に傾く傾向、それは決してなくなりません。神が律法を定められたのは、わたしたち人間の罪を明らかにし、傲慢な心を打ち砕いて、神の前に頭を垂れ、謙遜な者とされて、主イエス・キリストの救いを求めさせるためなのです。人間の罪はなくなるのではなく、主イエスへの信仰によって赦されるのです。そしてそれは日毎の祈りと悔い改めの中で、エフェソの信徒への手紙の中にありますように、高ぶらず、柔和で、愛を持って行う者であるようにと変えられていくのです。

 

■結び

今お話ししたことをパウロは今日の最後の箇所22節にこのようにまとめています。「聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。」神は律法を与え、律法によってすべての人の罪を明らかにしています。そこには神の壮大なご計画があります。神は私たち人間を愛するが故に、すべての人間が救われることを願っておられます。しかし、人間は傲慢であり、神から離れ、神を忘れるのです。それ故に神は、すべての人を罪の支配下、罪の中に閉じ込めたというのです。それは救うためであります。主イエス・キリストと出会い、自身の傲慢さを砕かれ、罪の自分に死んで、新しく生かされる。そのためであります。自分の罪深さを知り、絶望するのではなく、神の子として生き、永遠の生命の希望に生かされるようになるためなのです。神の言葉である律法を通して、キリストへと導かれ、神の愛を知り、神を愛し、隣人を愛する生活へと導かれる。神への感謝が蓄積され、そして神に委ね平安を与えられる生活へと私たちは日々、変えられていくのです。それがキリスト者の自由であり、キリストと共に生きる生活であります。そのことをこの後、パウロはさらに続けて語っていくのです。私たちも共に導かれるようにと願います。

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