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『キリストの証し人として』 2024年4月7日

説教題: 『キリストの証し人として』 

聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書6:8(1070ページ)

聖書箇所: 新約聖書 ヨハネによる福音書15:16

説教日: 2024年4月7日・復活節第2主日(教会総会)

説教: 大石 茉莉 伝道師

 

■はじめに

今日は2024年度の始まりであり、礼拝後に教会総会が予定されております。教会総会のある主日は今年度の教会標語となる聖句についての説教をさせていただいておりますので、今日は新約聖書ヨハネによる福音書15章16節の御言葉から聴きたいと思います。

 

■神がわたしたちを選んだ

さて、今年度の教会標語は「キリストの証し人として」といたしました。この「キリストの証し人として生きる」このことを私たちは今年度、どのように心に刻み、どのような思いを持って受け止めたら良いのでしょうか。今日の聖書箇所ヨハネによる福音書の15章16節、ここはとても有名な御言葉でありましょう。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」さて、この「選んだ」、「選ばれた」ということについて、皆様はどのようにお考えになるでしょうか。洗礼を受けておられる方は自分で選んで教会に行って、そして洗礼を受けた、と自分の「選び」を思われるでしょうか。また、まだ洗礼をお受けになっておらず、礼拝に出席しておられる方は、今日、ここに来る、そのことは自分で選んだ、と思われるでしょうか。それとも神に選ばれて今日、ここにいる、と思われるでしょうか。結論を申しますと、教会に「よし、行こう!」とご自分で決めていらっしゃり、そして「洗礼を受けよう!」と決意して受けられた方も、それは全て神の選びであります。私にも同じ経験があります。それはキリスト教主義の中学校に入った時でした。その入学式の祝辞で学園長から与えられた御言葉がこの箇所でありました。その時、私は自分でこの学校を選んだと思っておりましたから、神の選びということを理解することはできませんでした。しかし、その後、かなり経ってから、教会に導かれ、洗礼に導かれ、そして献身へと導かれて、これまで歩んできた道のりは自らの選びのように見えて、実は神の選びであったということを実感いたします。今日のこの16節で主イエスが力強く宣言しておられる通りです。そして主イエスはこの15章の始まりにおいて、「あなたがたはわたしに繋がっている。」とこれも宣言してくださっています。そのことはぶどうの木とその枝というとてもわかりやすい譬えを用いて、主イエスはお話しくださいました。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」主イエスという木につながっていなければ、わたしたちは決して実を結ぶことはできないと言われるのです。枝は枝だけでは実を結ぶことはできません。それゆえに、私に「とどまり続けなさい」と主イエスは言われます。主イエスにつながり、とどまり続けることは、父である神につながることであり、父なる神と主イエスの愛の関係の中に置かれることである、と主イエスは言っておられるのです。

 

◾️主イエスにとどまり続ける

主イエスに留まり続けるとはどのようなことを言うのでしょうか。私たちと主イエスの関係はどのようなものでしょうか。「日曜日だけの主イエスでないように」これが一番大切なことです。日々、主イエスに語りかけているでしょうか。常に主イエスの御声が聞こえますでしょうか。私たちは弱い存在です。だからこそ、これは主の望むことであるかどうか、を判断基準にして物事を考え、主に語りかけること。これが神の御心にかなった歩みへの第一歩です。私たちは日常生活のさまざまな事柄に心が奪われます。そうするとすぐに主の望むことではなく、自分の望むことを行い、そして神から離れるのです。そうすると、心に喜びがなくなり、喜びを持って主に仕え、人に仕えることができなくなります。私たちは簡単にマリアでなくマルタになってしまうのです。ルカ10章42節(新約聖書127ページ)、「必要なことはただ一つだけである。」と言われました。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」のであります。私たちも主の御前に行き、そして、主の御言葉に耳を傾けること、主の御言葉が私たちのうちにとどまるなら、私たちは実を結ぶことができるのです。

 

■その実が残るために

さて、そのようにして父なる神と主イエスとつながっているために選ばれた私たちキリスト者に何が求められているのか、それが示されているのが、16節の後半です。「あなたがたが出かけていって実を結び、その実が残るようにと、わたしがあなたがたを任命した。」主イエスはこのように言われます。私たちが実を結ぶ、それはその実が残るためである、と言われるのです。この「実が残る」と言うことの意味は、福音を宣べ伝えると言うことであります。パウロはコロサイの信徒への手紙1章6節で、福音宣教が広まって、多くの人が救われることを「世界中至るところで実を結んで成長しています。」と表現しています。つまり、他の福音書の言葉を借りれば、マルコ16:15「全世界へ行って、すべての造られたものに福音を述べ伝えなさい。」であり、マタイによれば、28:19「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」と言うことであります。私たちが結ぶべき「実」とは、人々に福音を宣べ伝え、救いへ導き、弟子にする、と言うことです。主イエスは人々の救いという「実」が一つでも多くなることを切に願っておられるのです。それは神の国がこの地になることでもあります。

 

■神の囁き

そのように「みなさんお一人お一人に宣教の業が託されています」と私が申しましたら、皆様、「はい、わかりました」とおっしゃるでしょうか。おそらくほとんどの方は、「いえいえ、私にはそのようなことはできません」とおっしゃるのではないでしょうか。さて、先ほどイザヤ書の一節をお読みいただきました。神はイザヤに向かって直接、呼びかけたわけではありません。「だれが、われわれのために行くだろうか」という主の声をイザヤが耳にしただけであります。神のこのような呼びかけや囁きは、預言者などの限られた人のためのものではありません。神はすべての人へ呼びかけ、語りかけておられるのです。マタイによる福音書22:14に「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」とありますが、これは神の招きに対して、自分が選ばれていることを自覚して、それに対する応答をする人が少ないという意味です。選ばれた人は、主イエス・キリストに結ばれ、主イエス・キリストに留まっている人。つまり、主イエスの御言葉に親しんでいる人、ということであり、主イエスを通して神と親密な関係を保っている人ということです。そのような関係にある時、「だれが、われわれのために行くだろうか」という神の囁きが聞こえるのです。神はイザヤに「あなたが行きなさい」と強制されたわけではありません。しかし、イザヤは「ここにわたしがおります。私を遣わしてください。」と申しました。イザヤはこのように言わずにはいられなかったのです。

主イエスが弟子たちを召されたときも、決して逆らえないように圧力をかけたわけではありませんでした。「わたしについてきなさい。」という力強くも静かな主の呼びかけが、彼らに向けて語られただけでありました。そして弟子となった彼らはそれに従ったのでありました。私たちも教会に来る、洗礼を受ける、それらのさまざまな時、神から強要されたことはあるでしょうか。私たちは誰もが、主イエスが私たちの罪の清算のために、十字架におかかりになって死んでくださった、ということを自らのこととして受け止めた時、この方が私を救ってくださったことへの感謝と応答して、自らをお捧げするという洗礼へと導かれたのではなかったでしょうか。それはイザヤの「ここにわたしがおります。私を遣わしてください。」という応答と同じであります。神の愛に触れ、主の語りかけに応答し、聖霊に導かれた時、私たちは自らを差し出さずにはいられなかったのです。

 

■結び

今、私たちはガラテヤの信徒への手紙を共に読んでおり、そこで繰り返されていることは救いは行いによらない、ということであります。実を結ぶために何か頑張って成していかなければならない、ということではありません。先ほども共に見ましたヨハネ福音書15:4にありますように、ぶどうの実は、自分で大きな実になろう、とか、果実たっぷりな実になろう、と言ってできるものではないでありましょう。それに重ねれば分かることであります。私たちは、何かに熱心に励めば立派な信仰者になるということではないのです。「キリストの証し人として生きる」ということは、預言者イザヤのような働きや、ペトロやパウロのような伝道者として働く、ということではありません。私たちそれぞれに与えられている場があり、人との関わりの中で生きていきます。主日ごとに私たちは、教会から派遣され、それぞれの場で生活します。最後に祝福を受けますが、その言葉は「主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しい交わりがあなたがたにあるように。」

であります。このように私たちが神からいただいているものは全て神からの一方的な恵みであります。主イエスは弟子たちに言われました。マタイによる福音書10章9節「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」主イエスが弟子たちをあちらこちらに派遣するときに言われた御言葉であります。主イエスに留まり、主イエスの御言葉に親しむ時、私たちは父なる神と親密な交わりの中に置かれます。そして聖霊の導きによって、愛の業を成してゆくことができるのであります。神との交わりの中に生きるとき、主のみ声が聞こえます。そしてそれにお応えしたくなるのです。ただでいただいたものを再びただで差し出すのです。その連鎖は一人一人の業としては小さくとも、必ず大きくなっていきます。「私を遣わしてください。」それはそれぞれの場において、何か立派なことを語るというようなことではなく、それぞれの生活の中にあって主にある喜びが溢れ出るということなのです。自らを差し出すことに躊躇いなく、むしろ、それが喜びとなります。それがキリストに満たされるということであり、神の御心を願って生きる生き方であり、それがキリストの証し人としての生き方であります。そのような者たちの集まる共同体が教会であり、一人一人がキリストの証し人となることが、神の御国の完成のための働きとなるのです。救いの完成を共に祈り願いつつ、主が共にある喜びを共有しつつ、差し出しつつ歩む群れでありたいと願うのです。共に主キリストの証し人として働いてまいりましょう。

 

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