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『キリストの名のゆえに』 2023年3月12日

説教題: 『キリストの名のゆえに』 聖書箇所: マルコによる福音書 9章38~41節 説教日: 2023年3月12日・受難節第三主日 説教: 大石 茉莉 伝道師


■はじめに

本日与えられました御言葉は短い4節です。登場いたしますのは十二弟子の中のヨハネです。このヨハネはマルコ3章17節において、ゼベダイの子ヤコブの兄弟ヨハネと紹介されています。このヨハネは声が大きく、熱血漢、激しい性格の持ち主であったようです。それゆえに「ボアネルゲス」、雷の子、というあだ名が付けられていたというのです。このヨハネという名前を私たちは新約聖書の中に5つ見出すことができます。「ヨハネによる福音書」「ヨハネの手紙1・2・3」そして「ヨハネの黙示録」です。これらの文書を記したのが、この使徒ヨハネであったか、ということについては諸説あります。少なくともこの使徒ヨハネが関わってはいるけれども、このヨハネ単独によるものではなく、ヨハネをリーダーとするヨハネ教団の手によって複数の著者の手を経て、書き記されたと考える見方が有力です。また、ヨハネによる福音書とヨハネの手紙には類似性は見られるものの、ヨハネの黙示録はその文体、内容を異にしていることから、全く別の人物の手によるものであるとする考え方もあります。個人的には、理性的で神学的なヨハネ福音書と雷の子と呼ばれた素朴でちょっと子供っぽいところのある熱血漢のヨハネはなかなか結びつかない、そんな印象を持ちます。

弟子ヨハネは十二弟子の中で一番若く、主イエスに従った時はまだ十代であったようです。主イエスの地上でのお働きを目の当たりにして、何を感じ、何を学び取って行ったのでありましょう。主イエスの十字架と復活からどのような使徒へと変えられていったのでしょうか。伝説によれば、ヨハネは様々な迫害の中で、拷問などをくぐりぬけ、殉教せずに95歳まで生き抜き、長い信仰の人生を歩みぬいたとされています。ヨハネの手紙Ⅰ4章7節には「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」と記されています。ヨハネ福音書、そしてヨハネの手紙には「神は愛」という言葉が繰り返し使われています。今日の御言葉に登場するヨハネが、使徒として成長してキリストの愛に基づく行いを実践する者へと変えられていったことが示されているといえるのではないでしょうか。


■主イエスの名のもとに悪霊を追い出す者

さて、今日の御言葉における、まだ若いヨハネは主イエスにこのように申しました。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちに従わないので、やめさせようとしました。」十二使徒を代表してヨハネがそういったのです。「お名前を使って」というのは、「主イエスの名を呼んで」とか、「主イエスの名を唱えて」ということでありましょう。しかし、この人物は彼らの仲間ではありません。熱血漢のヨハネでありますから「私たちの先生のお名前を無断で使うとは断じて許されない!」といきり立って、まさに稲妻のように飛んで行ったに違いありません。その人に向かって、「あなたは何の権利があって私たちの主イエスの名前を使うのですか」「もし、主イエスの名前を使うなら、私たちに従ってきてもらいたい」もしくは「従わないならば、勝手に主イエスの名前を使わないでいただきたい」、おそらく雷が落ちたかのように大きな声で怒鳴り、その人に命令したのでありましょう。

当時、悪霊を追放するという業を行っていたのは、主イエスだけではありませんでした。そしてそのように悪霊追放を行う時、権威を持つ人の名前を口にすることも行われていたことでありました。そのような人たちの中に、主イエスの名を使っている人がいたということでしょう。そしてこの人は悪霊を追い出すことに成功していたようです。数回前にご一緒に読みました9章14節以下では、弟子たちが悪霊を追放しようとしたのでしたが、彼らはできなかったのでありました。それにもかかわらず、この人はそれを成していたというのですから、弟子の面目からしても許せないと思ったのであります。


■やめさせてはならない。

ヨハネはいきり立ってその人に命じ、そしてそれを主イエスに報告いたしました。おそらく、意気揚々と、「よくやった」とお褒めの言葉をいただけるぐらいに思っていたことでしょう。しかし、主イエスのお答えはヨハネには思いもよらないものでした。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」主イエスは穏やかな声でヨハネにそう言われました。そんなにいきり立つことはない、わたしの名を使うのはかまわないではないか、と言われたのです。主イエスはなぜに、快くご自分の名前が使われることをお許しになったのでしょうか。

この「悪霊追放」は、今まで読んでまいりましたマルコ福音書に度々出てまいりました。1章21節以下ではユダヤ教の会堂で汚れた霊を追放されました。人々は権威ある新しい教えを語る者として主イエスを見ております。また5章ではゲラサの地という異邦人の地において、悪霊を追い出され、「いと高き神の子イエス」としての圧倒的な主イエスのお姿が描かれております。それ以外にも多くの地で悪霊を追い出され、悪霊にものを言うことをお許しにならず、悪霊たちは「あなたは神の子だ」とひれ伏しました。そのように悪霊追放の出来事には、神の子としての主イエスの偉大さが示されております。それは主イエスのお働きでありますが、主イエスは神の子でありますから、それは神の働き、神の支配、神の国の実現への働きであります。


■主イエスの名による神の働き

神の国の実現のための働き、それは主イエスの名を語って悪霊を追放したこの人の中にも見ることができるのではないでしょうか。この悪霊追放を行った人は決してインチキをしたわけではなく、実際に悪霊追放を行っておりました。そこには悪霊に苦しめられている人たちがいて、そしてその家族がいて、周りにはそれを見守る人たちもいたでしょう。その人たちはすべて主イエスの名による神の偉大な働きを見たのです。そしてそれらの人々は主イエスの名によって、主イエスを信じ受け入れたのでありましょう。驚きから、神への畏れへと変わり、いわば信じる者へと変えられたのです。主イエスの名を通し、神がお働きになったのです。

主イエスは今やエルサレムへの道を歩んでおられます。ご自分が十字架にかかりこの世から離れられる、弟子たちと共に生活する時が終わりに近づいておられることを充分に知っておられます。そこから始まるこの先の大いなる出来事に目を向けておられるのです。人々が主の名を受け入れ、神の赦し、神の救いに与っていく。それは神の御心であり、主イエスの喜びでありました。ですから主イエスはご自分の名が受け入れられていくことを喜んでおられるのです。弟子たちには、想像もできない主の思いでありました。


■ヨハネも「主イエスの名によって」

さて、ここで今一度、ヨハネに目を向けたいと思います。ヨハネがこの悪霊追放をしていた人を止めさせようとしたとき、ヨハネもまた、「主イエスの名によって」自分たちに従うように、またやめないならば、二度と主の名を使わないように、これも「主イエスの名によって」命じたのでありました。ヨハネは自分にはその資格があると信じて、そのように行いました。主イエスは言われました。「わたしの名を使って、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。」しかし、誰よりも主イエスの名を使っていた弟子たちが、そしてまた、誰よりも自分たちにはその名を使う資格があると自負していた弟子たちが、この後しばらくして、主イエスの悪口どころか、主イエスを裏切り、主イエスに対する呪いの言葉さえ口にしたのでありました。主イエスが捕らえられた後、ペトロは三度、主イエスを知らないと言い、三度目には呪いの言葉さえ口にした、マルコ14章71節です。それが弟子たちの現実であり、そして私たちの現実でもあります。

ヨハネは最初に申しました通り、様々な迫害の中で、拷問などをくぐりぬけ、殉教せずに生き抜いたそうですが、キリスト教に対するローマ帝国の迫害が厳しい時代を生きたのでありました。どのような道を歩んだのか、はっきりと残されてはおりませんが、ペトロやヤコブと共に教会の指導者となったことは間違いがありません。そしてそれは伝道と迫害の繰り返しでありました。分派のようなものもできたことでしょう。身の安全のために仲間でないふりをして、迫害を避けた人もいたでしょう。そしてその逆もあったかもしれません。つまり、適当な時だけ、主イエスの名を使う、そのような様々なことがある中で、ヨハネの弟子たちが、かつての十二弟子の若き時代のヨハネのようにいきり立って、「主イエスのお名前が勝手に使われるなど、許されることではないでしょう。」と言ったかもしれません。おそらくヨハネは、「わたしの名を使うのはかまわないではないか」と言われたあの時の主イエスのことを思い出したに違いありません。そして穏やかに向けられた主イエスのまなざしも思い出したに違いないのです。「わたし」の名を使った後で、その「わたし」を一度は離れた自分をも苦々しく思い出しながら、教会の歩み、神の国の実現はそこからも始まり、そして進んでいるのだと弟子たちに語ったように思えるのです。


■結び

そのことが最後の41節に語られております。「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

この主イエスのお言葉はご自分が世を離れた後の弟子たち、そして教会を見据えて語られたお言葉でありましょう。新共同訳では今お読みしたように訳されておりますが、直訳しますと、「あなたがたがキリストのものだという名のもとにおいて」であります。ここでもキリストの名が強調され、主イエスの名が受け入れられることの喜びが語られているのです。

先ほども申しましたように、キリスト教迫害の時代にあって、当時の人々は洗礼を受けたとしてもそれを明らかにすることのできない状況にありました。表立って礼拝をすることも叶わなかったのです。キリスト者であることがわかると、あからさまに厳しい視線、態度、行動の中に置かれたのです。実際にその場での生活を追われることもあったのです。そのような中、実際に一杯の水を与えてもらえるということは貴重なことでありました。与えてくれる人というのは、キリストを思いつつも迫害を恐れてキリスト者にはなっていなかった人たちかもしれません、しかし、主の弟子とはなれなくとも、キリスト者の苦難を思って、こっそりと一杯の水を差し出してくれる。そのようなことは実際にあった事なのです。あからさまに主の名を呼ぶことができなくとも、そのような人々も神の救いのご計画の中に置かれていたのです。父なる神のみこころが行われるために、多くの者が用いられたのです。主イエスは父なる神のみこころが行われること、一人でも多くの人が神の御支配の中に生きること、そのことを強く願っておられました。

たとえ一杯の水、どれほど小さなものであっても、キリストの名がその人の中で受け入れられること、それが天の父のみ心であり、喜びであります。私たちも、神に招かれ、そして主の名を受け入れて、洗礼を受け、神の救いに与る、そのような道を歩み、一人でも多くの人々と、主イエス・キリストの御名をわかちあいたいと思います。それが主イエスの喜びであり、父なる神の喜びであります。

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