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『キリストのかたち』 2024年5月5日

説教題: 『キリストのかたち』

聖書箇所: 旧約聖書 創世記1:26−27 (2ページ)

聖書箇所: 新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙4:12−20

説教日: 2024年5月5日・復活節第6主日

説教: 大石 茉莉 伝道師

 

■はじめに

私たちはこのガラテヤの手紙を読み進めてまいりました。前回のところ、つまり4章11節まで、パウロは例を用いながらもキリストの福音の真理を理論的に展開してきました。皆様もお感じの通り、ここまでこのガラテヤ書は、これでもか、というくらい、パウロは次から次へと、あなたがたが立ち帰る場所はここしかない、ということを伝えるための理論を展開してきました。パウロの告げる福音の正当性を、神の真理を、キリストの救いを、余すところなく伝えようと言葉を重ねてきたのでした。しかし、今日の箇所においては、パウロは情に訴えようとしています。「兄弟たち、お願いします。」という言葉に始まり、今日の最後では「あなたがたのことで途方に暮れている」とパウロが悄然とする様子が示されるのです。

 

■主に倣って生きる

「わたしもあなたがたのようになってのですから、あなたがたもわたしのようになってください。」12節はそのように始まります。これはパウロがユダヤ人であるにもかかわらず、律法を守ることを救いの条件とする生き方を捨てて、異邦人であるガラテヤの人々のようになったことを根拠として、ガラテヤの人々に「わたしのように」つまり律法から自由になってほしい、とパウロの心情が露わにされます。ここでもパウロはパウロが伝えた福音にガラテヤの人々が留まることを願っています。このパウロが伝えた福音に留まること、というのは、反対者の圧力、もっと言えば迫害に耐えるということでもあります。このような苦難、それをも甘んじて受けて生きていく、ということはキリストの生き様に倣うということがその根底に共通して流れています。ですから、この「わたしのようになりなさい」というパウロの言葉は、決して高圧的で権威主義的な命令ではありません。むしろキリストの献身的な生き方を共有するように、という招きの言葉なのです。パウロはこのことを、テサロニケの信徒への手紙Ⅰ1章6節ではこう言っています。「あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びを持って御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。」ギリシアの町、テサロニケで多くの人々がパウロの福音、キリストの救いを信じるようになりましたが、それを妬んだユダヤ人たちによって暴動が起こったということが使徒言行録17章に記されています。キリスト教徒は反政府運動をしている、というようなことを言って、民衆を扇動したのでありました。キリスト教徒となったヤソンという人の家を襲い、数人の信徒を捕らえて、町の当局者たちのところに引き連れて行って訴えたのでありました。テサロニケではそのような迫害が起こったのです。その後もそのような迫害は続いたようですが、テサロニケの人々はそれに屈することなく、信仰を保っていきました。保つのみならず、迫害と患難によってますます主への従順と信仰は成長したのです。このガラテヤの信徒への手紙はテサロニケの信徒への手紙Ⅰの少し後に書かれたものでありますから、パウロはおそらくガラテヤの人々をテサロニケの人々に重ね合わせていたことでありましょう。わたしのようになりなさい、それはつまり、主に倣ってください、ということなのです。

 

◾️パウロの病

パウロがガラテヤの人々に福音を告げ知らせた時、パウロは体が弱っていた、と13節にあります。この病気がなんであったのか、それについては諸説あります。このガラテヤのあたり小アジアの風土病であるマラリヤ熱にかかっていたという説もあります。また、第2コリント12章7節に「わたしの身に一つのとげが与えられた」とありますように、パウロは自分の身に持つ病気のことを「とげ」と呼び、苦しんでいました。それは発作を起こすものであったとか、もしくは目の病気であった、などとも言われています。ここで言われている「病」が何を指すのかについて、明確なことは分かりませんが、病気であったことは間違いがありません。そして当時の病気に対する人々の認識を今一度、新たにしておかく必要があるでしょう。「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」ヨハネ9章にそのような記述がありますように、当時、「病」というのは、悪霊に取り憑かれたもの、そして罪の結果と考えられていたのです。呪いと考えて、忌み嫌われたのでありました。ですから、パウロがガラテヤで福音を述べ伝えた時、パウロが病であった、その時に、ガラテヤの人々はパウロを退け、拒否したとしても当然と言えるような伝統であったのです。しかし、彼らがどうであったか、そのことが13−15節に記されています。彼らのパウロに対する態度には思いやりがありました。「さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスでもあるかのように、受け入れてくれました。」ここに示されているのは、単に、病気であるパウロ個人を拒絶しなかったということではなく、福音宣教の使者、神に召された人として尊重したということを意味しています。彼らはパウロの語る福音のメッセージを受け入れ、そこに確かな真理があることを認めたのです。そしてその意味は、ガラテヤの人々は福音に生かされることによって、病人に対する差別という律法の価値観からも解放されていたということなのです。

 

■幸福はいったいどこへ

そんなあなたがたであったのに・・・とパウロは15節から悲しみを表しています。律法の価値観から解放され、愛を持って労ってくれたこと、パウロはそれをキリスト者が味わう幸福であったと表現しています。キリストの救いを信じることによってキリスト者が与えられた自由でありました。しかし、そのような自由はどうして失われてしまったのか。それは、この1章からパウロが指摘してきた「別の福音」、偽教師たちによる誤った教え、パウロの教えと真逆のメッセージに彼らが耳を傾けたからです。異邦人であるあなたがたが救いに与るためには、ユダヤ人と同じように割礼を受けるべきである、そうでなければ救いはない、彼らはそのように主張していたのです。律法遵守以外に神に義とされることはないというのが彼らの教えであったわけです。主イエスによって、律法から解き放たれたはずが、再び律法のもとに閉じ込められてしまうとは・・・パウロは強く嘆きの言葉を投げかけるのです。

病気のわたしを避けるどころか、自分たちの目をえぐり出しても私に与えようとしたではないですか、あれは何だったのですか、とパウロはいうわけです。ここに具体的な「目をえぐり出して与える」という表現があることから、先ほどお話しいたしましたパウロの病気はやはり目の病気であったのではないか、とする見方もより具体性を持ってくるわけです。古代において、目は最も重要な器官と考えられていました。主イエスが「体のともしびは目である。」と言われたように、目は人間を人格的に表し、集約するものとして考えられていました。ですから、ここでのパウロの表現は、ガラテヤの人々がパウロに対して、ただ受け入れるだけでなく、自分たちの目、最も大切な器官を捧げるという犠牲をいとわない態度で接してくれたではないか、人格的な交わりを持ってくれたではないか、という理解もできるわけです。そのどちらの可能性も考えられますが、そのどちらだとしても、ここで大切なのは、パウロの福音を感謝と感動を持って受け取ったガラテヤの人々が、それらが消え去り、むしろ敵対するようにさえなってしまった、そのことが悲しみに堪えない、パウロはこのように感情をむき出しにしていうのです。これはパウロの個人的な自分に対する感情の話ではなく、主イエスからの離反であるということをつげたいからなのです。

 

■目を覚ませ

16節ではパウロは「わたしパウロはあなた方の敵になったのか」という強い表現を用いています。もしかしたら、ガラテヤの人々に対して「あの者たち」はパウロに対して「敵」という言い方をしていたのかもしれません。パウロは極端に敵対的な表現を用いて、「あの者たち」に翻弄されるガラテヤの人々の行動がいかに深刻なのかを示しているのでしょう。「あなたがたは彼らの教えに耳を傾けて、真理を語る私と敵対関係になることを望むのか」という問いかけをしているのです。

続けてパウロは「あの者たち」について語ります。彼らは熱心にガラテヤの人々に律法を教え、それに従うようにと指示していました。しかし、それは善意からではない、とパウロは断言します。その熱心さはかつてのパウロを彷彿とさせるものです。パウロは自身の経験上、それが神を迫害するということであり、教会を傷つけ、神の御心に反するものであるということをよくわかっていたからです。彼らの目的はおそらく、このようなものでありましょう、「自分たちに対して熱心にならせようとして」あります。つまり、自分たちの教えに引きつけ、そうしますと、教会の中での混乱が生じます。というかすでに生じています。その最終目的は、パウロがいうところの「あなたがたを引き離したい」のです。引き離すと訳されている言葉は、分かりやすく訳しますと「締め出す」シャットアウトする、ということです。彼らは、ガラテヤの人々を共同体、ないし教会から締め出す、つまり、彼らが自分たちのグループでの教会の乗っ取りを計画していたということでしょう。そのような危機を孕んだ切羽詰まった状況である、どうか目を覚ましてほしいということをパウロは訴えているのです。しかしながら、人間は一度、盲目的になるとなかなか目を覚ますということは難しいものです。「あなたに良かれと思って勧めているのです、教えてあげているのです」と言った情報に対して、惹かれてしまうのかもしれません。現代でもカルト宗教やさまざまな詐欺、「あなたにとって必ずや良い話なのです」という甘い言葉は、実は「あなたにとって」ではなくて、「話をしている人にとって」良い話であって、相手のためのものではありません。現代においてもそのような偽りは後をたちません。

 

■結び

パウロは、今日の結び19節で「わたしの子供たち」と愛を持って呼びかけています。この呼びかけには父としての愛情が感じられますし、そしてそれに続く「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいる」という言葉には母としての苦悩が感じられます。パウロはガラテヤの人々を、キリストへと導いたのでありますから、それはまさに母が子どもを産むように誕生させたのでありました。パウロは教会の父でもあり、母でもあります。教会を産み、宣教によって教会にキリストの形を刻み込む。そのパウロが「もう一度、産みの苦しみ」を味わおうといのです。それは、彼らを誤った律法主義から解放するための苦しみであり、さらには彼らのうちにキリストが形づくられるための苦しみであります。キリストが彼らのうちに形作られる、私たちのうちに形作られる。「キリストのかたち」それは、私たちが「神のかたち」に造られたという創世記の御言葉を思い起こさせます。もともと、私たちは神が神の似姿として神のかたちに作られました。それは神の呼びかけに応える関係性に生きるためでありました。そこから離れた人間に再び神のかたちを取り戻すために、主イエスはこの世に人としてこられました。フィリピの信徒への手紙2章6節、有名なキリスト讃歌で、新共同訳では「キリストは、神の身分でありながら」と訳されていますが、口語訳では、「キリストは神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事と思わず、帰って、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。」とあります。キリストによって生きる者は、律法によってではなく、キリストの救い、キリストの福音によって自由に生きるキリストのかたち、姿へと形作られることをパウロは求めているのです。そのためにパウロはなお、産みの苦しみをしようと語っております。私たちも日々、キリストが私たちのうちに形作られているか、そのために聖霊の働きを祈り願い、神との交わりの内を歩めるよう、自分自身を吟味したいと思います。

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