説教題: 『キリストと共に』
聖書箇所: ガラテヤの信徒への手紙 2章17~21節
説教日: 2024年2月25日・受難節第2主日
説教: 大石 茉莉 伝道師
■はじめに
今日の御言葉は15節「すべての人は信仰によって義とされる」と小見出しにある箇所の後半部分です。人が救われるのは、律法の行いによるのではない、ただ神の一方的な恵みによるのだ、と言うことが繰り返し強調されています。それが、パウロが主イエス・キリストの十字架の死と復活の出来事の中にみた真理でありました。そしてそれはただ神の一方的な恵みによるゆえにユダヤ人であろうが、異邦人であろうが変わらず、すべての人が救いの対象となっているのだ、ということ。これがパウロの宣べ伝えた福音であります。今日の箇所は、そのパウロの宣べ伝えた福音が神学的に語られています。この手紙の宛先であるガラテヤの人たちのみならず、今、これを読む私たちにとっても、一度読んだだけでは理解の難しい箇所であろうと思います。そのため、前回はその前半部分のみとしましたので、今日はこの17節以降の御言葉から聴きたいと思います。
■パウロの主張
17節にはこう書かれています。「もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。」この言葉の後に、「決してそうではない。」と続いていますように、この決してそうではない、という強い否定の言葉を伝えるために記した疑問形の文章です。このような文章を修辞疑問文と言います。修辞疑問文とは、相手に対する質問ではなく、疑問文の形を使って、自分の言いたいことを強調する文のことであります。パウロは多くの手紙の中で、強く主張したい時、力を込めて表現したいときに、この形を使っているのです。少々、日本語訳が難しいので、別の言い方をしましょう。つまり、「キリストに従って生きること、そのように生きる人が罪人とみなされるなら、キリストは罪人を造り出す者であるというのか、断じてそんなことはない。」これが17節でパウロが言いたいことです。
もう一度繰り返せば、「私たちがキリストを信じることで救われるのではなく、罪人とみなされるなら、キリストは救われる者を造るのではなく、罪人を造ることになる。そんなことは断じてない。」というのがこの17節の意味するところです。
続く18節も難しい表現が語られます。「もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。」この言葉の理解には11節以降に記されているペトロの行動を当てはめてみるとわかりやすくなるでしょう。つまり、ペトロはイエス・キリストへの信仰によって、律法の教えを乗り越えて、信仰による自由な生き方を始めました。具体的には異邦人と食事をともにするという律法違反から自由にされ、キリストを信じる者の間には何の差別も区別もない、とする生き方です。それが「自分で打ち壊したもの」ということです。しかし、ペトロは律法の規定に逆戻りして、異邦人との食事から身を引いたのでありました。それは人々の目を恐れての行動でした。それがここで「再び建てる」と表現されていることに当てはまります。ペトロは再び律法に基づく生き方を打ち建てようとした、それは大きな矛盾ではないか、とパウロはそのことを指摘しているのです。
何に依り頼むのか、どちらが大事なのか、律法か、キリストか、という二者択一であります。パウロは決して律法を否定しているわけではありません。律法を積み重ねる生き方に赦しがあるのではなく、律法規定を守れなくとも赦される、それが神の一方的な恵みなのだと知った者の生き方は再び律法を根拠とする生き方には戻れないのであり、そのような揺れ動く立ち位置の問題を指摘しています。
■揺れ動く狭間で
しかし、このパウロの指摘は決してペトロの問題、また当時のユダヤ人の問題ではありません。現代の私たちにもすっかりそのまま当てはまることです。キリストに従って生きる、キリストに委ねて生きる、私たちが洗礼を受けたのは、そのように決意したからでありますけれども、私たちそれぞれの歩みはなんとおぼつかないものでありましょうか。その決意はどこへやら、神の御心を尋ね求めるよりも自分の願いが叶うことを望み、神が何を望んでおられるかよりも、人間事に合わせようとすることすらあるのです。パウロは潔癖なほどにキリストか律法か、神か人か、という二者択一を迫ってきます。パウロのような生き方、考え方は窮屈と思われるかもしれません。何もそこまでしなくてもと思われるかもしれません。私にはできないと思うかもしれません。確かにそのような面もあるでありましょう。しかしパウロはストイックな程に福音に対して厳格なのです。神から託された使命のためには、自分自身を変えてでも従うという信念に支えられています。パウロについて書かれた書物を読みますと、彼自身がとても几帳面で、厳格で人に対しても自分に対しても厳しかったということがわかります。しかし、彼自身の性格よりも彼は主から委ねられた、彼の使命を全うすること、そのことに忠実であろうとする、それが使徒としての生き方であると考える徹底ぶりを感じずにはいられません。
そして、考えてもみてください。2000年前、パウロは異邦人への伝道を委ねられました。それは今までのユダヤ教の律法に生きる生き方を覆すものであったのです。キリストか律法か、その妥協点を見出すならば、それは新たな律法、新たなルールを生み出すことであり、パウロにとって福音の真理を歪めることにほかなりません。パウロがもしユダヤ教と迎合していたら、ユダヤ教と妥協点を見出して、それを良しとしていたら、今のキリスト教の形になっていなかったと言っても過言ではないでしょう。
私たちの今生きている時代は多様性の時代といわれます。確かにそうでありましょう。様々な考え方や価値基準があって当たり前であり、それを尊重し合う、認め合う、それが多様性であり、今の時代にあった良さでありましょう。ただ、その中でも決して譲れないもの、それは何か?私たちはその決して譲れないものを神のこととしているかどうか、その点は私たち一人一人が厳しく自らに問うていかねばならないことではないでしょうか。神を中心とした生き方はたとえ困難があったとしても、神が共にいてくださる、そのことを信じて歩み続ける、それがパウロのいう違犯者とならない道であり、神の御心に適った道なのです。
■律法に死ぬ
さて、そのことをパウロは19節・20節で語ります。この部分はいわゆるパウロ神学の中心とも言われるところです。「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしはキリストと共に十字架につけられています。」とても有名な箇所であります。神に対して生きるとは、神を中心とする神との関係の中で生きる、神の支配の中で生きる、ということであります。そしてそれはイコール、律法に対しては死んだものとなるということです。「律法に死ぬ」というのはなんだか不思議な表現に聞こえるかもしれませんが、つまりは、律法に左右されない、律法とは関係のない世界に生きるということです。これは律法を守らない、ということではありません。律法の否定ではありません。ただ、律法を積み重ねること、その功績によって救いが得られると考える今までの律法をその中心においた生き方を否定しているのです。律法が中心にあるのではなく、神の恵みが中心にある。律法を中心とした、律法の遵守によって救いがあると言うことは、その良し悪し、十分か不十分かなどを決めるのは人間でありますから、救いが人間によるものということになります。救いは律法から来るのではない。人間によっては人間は救えない。救いは神の恵みとして与えられるのです。
主イエスはこう言われました。マタイによる福音書5章17節です。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。人間による行いに完全はありません。ですから、誰一人として律法を完全に守り、完成させることはできません。しかし、主イエスは完成することのできるお方、完全なるお方、神の子であられるのです。主イエスは決して律法を否定しておられません。律法の中で最も重要なものはどれですか、と問われた主イエスはこう言われました。マタイ22章37節「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」主イエスは神を愛すること、これが一番重要な戒めであると言われました。神が求めておられるのは、神を愛することであって、規則を守ることではありません。規則を守ることによって愛しているのは、神ではなく私、律法や規則を守ることで誇ったのは神ではなく、自分であります。そのような律法生活の虚しさをパウロは知り、神を愛し、神に生きる、そのことを告げるために、自分自身を引き合いに出して、ガラテヤの人々へ言うのです。
◾️生きているのはキリスト
「キリストと共に十字架につけられている」とパウロは言います。「生きているのは、もはやわたしではない。」とも続けています。とてもキッパリとした断言であります。しかし、これはパウロだけのことではありません。ここで語られているのは、わたしたちが受けた洗礼のことを言っています。洗礼は水に浸され、一度死ぬことを意味しています。わたしたちは洗礼によって、十字架につけられたキリストの死に与りました。洗礼によってキリストと共に生きる者とされているのです。ですから、わたしたちの内にはキリストが生きておられるのであります。それは律法の支配からの解放であり、さらには罪からの解放であります。ですから実はわたしたちもパウロと同じように、言うことができるのです。
主イエスは律法に違反したという罪に問われました。そして十字架へと定められ、死を迎えられたのです。その主イエスに自分自身を委ねると言うことは、私自身も十字架に死ぬと言うことであります。主イエスの十字架は神に背く人間の罪を主イエスがお一人で背負い、神の裁きを受けてくださったと言うことであります。その「人間の罪」とは、「私の罪」であると言うことに気づく時、私たちはそれぞれが「主よ、お赦しください」と言うことができるのです。キリストの十字架は神の裁きであり、それは私たちへの、私への裁きである。私たちの十字架はそのような意味を持つものであります。だからこそ、私たちはキリストと共に十字架にかけられている、と言うことができるのであり、そしてキリストの死に自分の死を重ねるのです。十字架の主に従って生きる生き方は、古い自分は死んだと言えるのです。
■結び
洗礼を受けた時、わたしたちはそのように実感し、そしてキリストと共に死んだ者には次の言葉が約束として与えられています。ローマの信徒への手紙6章8節「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」さらにこうもあります。テサロニケの信徒への手紙Ⅰ5章10節「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」キリストと共に死ぬということは、キリストと共に生きる、それは新しい命の希望を与えられていると言うことです。わたしたちがいつか必ず迎える死はそのようなキリストと共に生きる希望に裏打ちされているのです。それは驚きであり、全知全能の神への畏れであり、そして限りない感謝であります。パウロが言うように「神の恵みを無にしない」生き方とは、この新しい生への感謝と共に、キリストの愛、そしてキリストを証ししていくことであります。わたしたち一人一人がキリストに全てを捧げて歩むその道に神は大いなる祝福を与えてくださいます。そのことを覚えて歩んでいきたいと願うのであります。
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