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『ガリラヤは希望の地』 2023年11月19日

説教題: 『ガリラヤは希望の地』

聖書箇所: マルコによる福音書 16章1〜8節

説教日: 2023年11月19日・降誕前第6主日

説教: 大石 茉莉 伝道師


■はじめに

とうとうマルコによる福音書の最終章に入りました。この16章では、主イエスのご復活について記されている箇所でありますから、本来でしたら、イースターに向けてというのがタイミングとしては良いのでありましょう。今、教会の暦ではもうすぐ待降節を迎えようとしております。主イエスのご降誕を祝うためのアドヴェントが2週間後なのです。しかし、主イエスのご降誕は何のためであったか、神の子である主イエスがなぜ人としてお生まれくださったのか、そのことを考えます時、復活と切り離すことはできません。むしろ、究極的には、復活するために、復活を前提とした主イエスの人としての生であります。アドヴェントを迎える前に、この復活の主イエスに触れること、それはとても恵み深いことなのではないかと感じております。

■墓に納められた主イエス

前回ともに聴きました15章の最後では、死を迎えられた主イエスがアリマタヤのヨセフの勇気ある行動によって、墓に葬られたということが記されておりました。犯罪人は本来、身内が申し出ない限り、遺体を取り下ろすことはできず、ましてやきちんとした墓に葬られるということはありませんでした。十字架刑の執行されたゴルゴダの丘、つまり、されこうべの丘、であり、犯罪人の遺体はその丘から周りに捨てられたと言われているのです。それゆえに「されこうべの丘」であります。

申命記21章23節には「木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。」と記されています。ユダヤ教では、これを十字架にかけられた者にもあてはめました。ですから、主イエスの十字架は神に呪われたものとみなされるものでありましたから、ただ引きずりおろして打ち捨てる、そのような扱いを受けるものでありました。

しかし、主イエスはアリマタヤのヨセフによって、墓に葬られました。前回も申しましたけれども、このアリマタヤのヨセフはここだけに登場している人物であります。サンヘンドリン、最高法院の議員であったと記されるこのヨセフ、「勇気を出して」と43節にありましたように、遺体を引き渡してくれるよう申し出、それもローマ総督のピラトに申し出、そしてその結果生じるであろうすべての事を引き受ける、そこまでの覚悟をもっての行動でありました。彼の社会的立場からすれば、そのようなことを申し出ること自体が信じられないことであります。神の国を待ち望んでいたヨセフはそうせずにはいられなかったのです。そして彼は心の中で主イエスに従う者であったでしょうが、立場上は最高法院の者のひとりであります。主イエスを救い主と信じず、神のことを信じず、復活を信じない人々の集まり。そのような者たちの中にいるヨセフによって、きちんと墓に納められた。これも神様の救いのご計画の偉大さでありましょう。神の国の到来を待ち望む者をこのように動かしてくださいました。神はこのように働いておられるのです。さらには、墓というのは、死の象徴、死が現実であったということを明らかにしております。私たちの使徒信条に「十字架にかかり、死にて葬られ」とありますように、主イエスは復活したのではなく、実は死んでいなかったのだというような主張に対する証明として、こうしてアリマタヤのヨセフを用いられたのでありました。

■墓に向かう女性たち

さて、あわただしくもきちんと主イエスを墓にお納めして安息日を迎えて、土曜日の日没と同時に安息日が終わりました。マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは主イエスに油を塗りに行くために香料を買いました。十字架上の主イエスの死を確認し、そしてヨセフと共に埋葬を見届けた三人の女性たちは週の初めの日の朝早く、つまり、日曜日の早朝、墓に向かいました。本来であれば、安息日があけた土曜日に香料と香油を塗って差し上げたかったでありましょう、しかしながら、安息日があけたときには既に日が落ちておりました、買い物だけを済ませ、翌日、朝になるのを待ちわびていたのでありました。

主イエスのお体に油を塗りに行ったのです。しかし、思い出してください。14章3節以下でベタニアの女性が純粋で非常に高価なナルドの香油を主イエスの頭に注ぎました。その時、主イエスはこう言われました。「前もって、わたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」遺体に塗るべき油を、前もって、塗ってくれた、主イエスはこう言われています。主イエスのご遺体に塗るべき油は実はもう済んでいたのであります。

しかし、この三人の女性たちは、当然そんなことには思いが及びません。主イエスが実際に十字架上でなくなったのを目にした女性たちなのです。愛する主イエスの命が失われた、その後の肉体、死を迎えてしまった肉体にせめてして差し上げられるのは、香料、香油を塗ること、それがお仕えできるせめてものこと、そのように思っていたのです。とはいえ、実際問題としては、墓に向かいながら、あの大きな石をどうしたらよいかしら、彼女たちはそのことを話しあっていました。「ところが、目を上げてみると、石は既にわきへ転がしてあった。」石というよりも岩と言えるぐらいの大きさであったでありましょうに、それがすでにのけられていた、というのです。女性たちはひどく驚きました。そして墓に入りますと、さらに驚くべきことがありました。「白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えた。」のであります。驚きの連続であります。

■復活が告げられる

白い長い衣を着た若者、これは神からのみ使いでありましょう。若者は言います。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを探しているが、あの方は復活なさってここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」こうして主イエスが復活されたことが告げられました。そして告げられたのは、女性たちでありました。当時、女性は社会的に証人となることもできない弱い立場にありました。しかし、マルコはこの主イエスの死に際して、十字架で息を引き取られる時も、埋葬の時も、見守っていたのは女性たちであったと記しています。主イエスに従ってきた弟子たちは、14章50節、主イエスが逮捕された時、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げ去った。」のであり、大祭司の庭まで顔を隠すようにしてついてきたペトロも、人々から仲間だったと言われた時、呪いの言葉さえ口にして逃げ去ったのでありました。こうして現実から目を背け、主イエスの受難の出来事を否定した男の弟子たちと対照的に、主イエスの納められた墓を見つめ、主イエスの遺体に油を塗ろうとやってきたのも女性たちでした。ガリラヤからずっと主イエスに従ってきた女性たちは、主イエスの食事を作りお仕えしてきた者たちでありました。主イエスは子供や女性、弱い者、苦しんでいる者と共に歩まれました。復活がこうして、人として重んじられていなかった女性たちに告げられたというのも、常に弱い者たちと共に歩まれた主イエスにふさわしいことであるように思います。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。」と若者は言います。今も申しました通り、女性は裁判などにおいても証人と認められなかったのです。それにもかかわらず、この主イエスのご復活という大きな出来事は女性たちに託されたのでありました。

■ガリラヤへ行かれる

神の使いの言葉は女性たちに託されました。そして「弟子たちとペトロに告げなさい。」と言われたのでありました。ペトロも弟子のひとりでありますから、弟子たちに告げなさい、だけでも、既にペトロを含むわけですけれども、ここでわざわざペトロが名指しで挙げられているのは、ペトロに対する特別な配慮であります。彼は「たとえご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないとは決して申しません」と力強い決意表明をしたにもかかわらず、主イエスが捕らえられた時、主イエスを三度も否認し、見捨てて逃げたのでありました。主イエスの十字架の時、ペトロを含む弟子たちは同じように捕らえられることを恐れ、隠れる中で、主イエスを、自分たちの師を裏切り、見捨てて、見殺しにしてしまったという罪におののいていたのであります。彼らはもはや何もかも信じられなくなり、そしてもしも主イエスが復活したならば、彼らの裏切りが指摘されて、彼らの罪が裁かれる、そのようにさえ思っていたかもしれないのです。彼らは家の中に閉じこもり、そして罪の世界に閉じこもっていました。そんな時に、女性たちに告げられた言葉は、主のご復活を弟子たち、ペトロに告げなさい。そして、かねて約束した通り、ガリラヤであなたがたを待っている。という言葉でありました。この約束は14章28節、「しかし、わたしは復活したのち、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」しかし、とありますのは、その直前にあります「あなたがたは皆わたしにつまずく。」を受けております。つまり、主イエスの受難、十字架において、あなたがた弟子たちは皆、わたしを裏切る、わたしを見捨てる。しかし、わたしは復活したら、あなたがたをガリラヤで待つ。あなたがたとガリラヤで再び会う。というお言葉です。主イエスの弟子たちへの変わらない愛が示されているのです。

■すべての原点ガリラヤ

ガリラヤは主イエスに従った弟子たちが主イエスと出会った場所であります。ガリラヤ湖で主イエスから招かれて、ただそのお言葉に従って弟子としての歩みが始まりました。ここで登場している女性たちもガリラヤの時代から主イエスのお世話をして、従ってきた者たちなのです。そして主イエスは弟子たち、女性たち、共にガリラヤで伝道を始め、そして遠いエルサレムまで一緒に旅をしてきたのです。そういう意味では、主イエス、弟子たち、全てのホームグラウンドであり、全ての始まりの地がガリラヤであります。しかし、「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われた通り、そこでお目にかかれる。」この言葉には始まりの地、それ以上の意味があります。

弟子たちは、主イエスが捕らえられる時、逃げ去った。それは弟子としての挫折であります。彼ら自身、自らの信仰の挫折を味わい、従うべき主を失い、途方に暮れているのです。彼らは元々漁師でありましたから、ガリラヤに戻って再び漁師をして暮らしていくしかあるまい、そのように考えていたのです。しかし、女性たちに示された神の言葉は「あなたがたより先に」であります。主イエスは弟子たちより先に、ガリラヤへ行かれて、そこで彼らを出迎えてくださるというのです。このシーンを思い描くとき、ルカによる福音書の放蕩息子のシーンと重なります。「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」うなだれて帰って来た息子、弟子たちを主イエスが両手を広げて待っていてくださり、抱き寄せてくださる、まさにそのような姿が見えるのです。主イエスはそのようにして、ガリラヤで弟子たちと新たに出会ってくださるのであります。さらに申しますと、「お目にかかれる」という言葉は、原文では「あなたがたはそこで彼を見るであろう」であります。弟子たちはガリラヤで主イエスを「見る」。つまり、そこまでの弟子としての歩みは、本当の主イエスのお姿を側にいても見ていなかった、見えていなかったということです。マルコ福音書はこのように弟子たちの無理解を描き続けてきました。5千人、4千人に食事を用意された後でも弟子たちに、「心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。」と主イエスは弟子たちに言われました。そうして肝心なことは何一つ見えていなかった弟子たちが、ガリラヤで再び弟子として立てられ、信仰者としての目が開かれる、主イエスの本当のお姿を見るということなのです。

■結び

このマルコによる福音書は、本来は今日のこの8節で閉じられております。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」これだけでも唐突な終わり方でありますが、原文のギリシア語を見ますと、英語でいうところのBecause、つまり「なぜならば」という接続詞で終わっています。ですから、この後に続いていたものが失われた、もしくは、マルコがこの後に書き足すつもりでいた、などと長く論争されてきました。しかし現在は、マルコによる福音書はこの8節で閉じている、と考えられています。結びとして9節以降にありますのは、少し時代を経てから、別の者によって書き足されたと考えられています。そうしますと完結しないようにも見える福音書でありますけれども、最後にあります婦人たちの沈黙、恐れは、「主イエスは甦られたのだ」という福音の響きを際立たせるものでありましょう。そしてこの完結しない物語は、私たちに問いかけているのです。物語の結果を自分たちで決断していかなくてはならないからであります。

「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われた通り、そこでお目にかかれる。」私たちはどこで主イエスと出会うでしょうか。この可能性と約束は私たちへも投げかけられた希望の言葉であります。ガ

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