説教題: 『インマヌエルと呼ばれる主』
聖書箇所: マタイによる福音書 1章18~25節
説教日: 2022年12月24日・クリスマスイブ礼拝
説教: 大石 茉莉 伝道師
■はじめに
皆様、クリスマス、おめでとうございます。主イエスのご降誕をお祝いするこの時、長年、この根津教会ではクリスマスイブ賛美礼拝として多くの方々にご参列いただき、共に多くの讃美歌を歌い、共にお祝いしてきました。ここ数年はコロナ感染症により皆さんにお集まりいただくことの制限をせざるを得ない状況になり、そして現在でも通常の毎日曜日の礼拝でも讃美歌は声を出さずに心の中で賛美しております。ですから今日お越しいただいた方の中にも、以前の賛美礼拝をご存知の方は「せっかく讃美歌を歌いに来たのに・・・」と思われる方もあるかもしれません。しかし、まだコロナ感染症の脅威から解かれたわけではありませんから、私たちは声を出して歌うことは控えたいと考えております。しかし、今日は主のご降誕をお祝いする讃美歌をピアノ、オルガン、木琴などで教会奏楽者達による演奏でお届けいたします。こうしてクリスマスを教会で祝いたいと思われる方々をお迎えできたことはわたしたちのこの上ない喜びです。讃美歌を高らかに歌うことはできませんが、心の中で歌いつつ、演奏を聞きつつ、共に賛美の時を持ち、豊かなクリスマスの時となりますように。
疲れている者には安息が 悲しんでいる者には喜びが 悩んでいる者には平安が
畏れている者には勇気が 対立する者たちには平和が
すべての人々に主の恵みが豊かに与えらえますように。
■イエス・キリストの物語
今日、私たちに与えられたみ言葉は、マタイによる福音書1章18節から25節です。実はこの18節の前、つまりマタイによる福音書の1章1節から17節には系図が長々と記されております。その始まりはこのようであります。「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」つまり、今日、お生まれになったことをお祝いする主イエス・キリストはアブラハムの子、ダビデの子であるという主イエス・キリストの系図です。旧約聖書に登場いたしますアブラハムから始まります。アブラハムはおよそ紀元前2000年の人物です。そしてそのアブラハムに与えられた子供たち、孫たち、ひ孫たち、とカタカナの名前が次から次へと続きまして、アブラハムからダビデまでは14代の歴史が記されています。このダビデ、ダビデ王とはおよそ紀元前1000年の人物です。そしてこのダビデ王のあと、イスラエル王国は分裂し、バビロニアによってエルサレム神殿は破壊され、人々はバビロンに連れて行かれました。バビロン捕囚と言われる歴史の節目であります。そしてその後、そのバビロニアはペルシアによって征服され、イスラエルの人々は解放されますが、イスラエルはローマ帝国によって支配されるとなっていくわけです。そしてこのダビデから1000年、ヨセフがアブラハムの血筋を引く者であるということがこの系図には記されております。
つまり、紀元前2000年のアブラハム主イエスのお誕生までには2000年の時を要し、そしてそのお生まれから現在までは2000年、合計で4000年の歴史ということになります。
この系図について、もっと詳しくお話したいところですが、今日は時間も限られておりますので、ポイントだけお話しいたします。もし、ご自宅に聖書がおありでしたら、お帰りになられましてから、是非ともじっくりとご覧になっていただきたいのです。
ユダヤ人は血統というのは男性が作るものと思っていました、そして今以上に男性社会でありました。にもかかわらず、この系図には4人の女性の名前が記されています。名前はタマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻、の4人です。そしてこの女性たちは決して由緒正しいというわけではなく、むしろ、密やかに語られるような女性たちであるのです。
普通、系図といいますと、誇らしいものであります。わたくしたちでも自分の家の家系図がありますといえば、それは代々、それぞれにきちんと名を残しているというだけでも立派なという形容詞がつくのではないでしょうか。このマタイによる福音書の第1章1節、アブラハムの子ダビデの子、ダビデの子孫というだけで誇らしいように思うと思いますが、実は、主イエス・キリストはその名を隠しておきたいような女性の血を引く人間たちのただ中に、つまり、私たち人類の歴史と同じように、人として入ってきてくださったのです神の子である主イエスはヨセフに迎え入れられ、それによってまさにアブラハム以来の人間の歴史にはいってきてくださったのです。それがこの系図の意味することなのです。
■マリアとヨセフ
さて、マリアとヨセフの婚約中にマリアが聖霊によって身ごもっていることが分かりました。これはヨセフにとって大きな苦難でありました。マリアを愛するヨセフは深く傷つき、悩み、そしてマリアを愛するがゆえに憎しみさえ覚えたかもしれません。ヨセフはひそかに縁を切ろうと決心いたしました。当時の掟に従いますと、いいなずけの夫を裏切ったとしてマリアは石打ちの刑、つまり死刑に処せられるのでありました。聖霊によって身ごもったと言われても、それを信じることはなかなか難しいことです。ヨセフの中にマリアに対する疑いはあっても、マリアが殺されることは望んではいません。そこで密かに縁を切ろうと思ったのです。愛する者とのこれからの生活が根底から覆されることが起こり、ヨセフは深く傷つき、そして一緒に生きていくことはできないという思いの中で、ヨセフは誰にも話せず、神に問いかけ、ただ神の前にひざまずき祈ることしかできませんでした。
■夢によって
そんな悶々とするヨセフに、主の天使が夢に現れて言いました。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿されたのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」ヨセフは天使からそのように告げられました。ナザレという小さな村の一介の大工であるヨセフ、神様はそのような者をお選びになり、神の独り子である主イエスをお委ねになりました。そうしてヨセフは神様と共に働く者とされたのです。この人間の生きる歴史の中に主イエスはこうして来て下さったのです。
■インマヌエルと呼ばれる主
さて、この与えられる子供を「イエス」と名付けなさい、と天使はヨセフに申しました。その意味は、「わたしたちの救い」という意味であります。更に天使はこれは預言者イザヤの預言の成就であることを告げます。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」これはイザヤ書7章に記されております。イエスと名付けられたその子はわたしたちを救う者となり、そして「神は我々と共におられる」という意味である「インマヌエル」と呼ばれると告げたのであります。
主イエスはこうしてこの世に人としてお生まれになり、人として歩まれ、そして人として十字架にお架かりになり血を流して死を迎えられました。そして神はその独り子である主イエスを三日目に復活させられました。マタイによる福音書の最後、復活された主イエスが天の父のところに戻られる時、主イエスはこう言われました「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
神はわたしたちとともにいる、この約束は主イエスがお生まれになる前に預言され、お生まれになった時に成就して、そして十字架の死を迎えた後も、2千年の時を経た今も、私たちと共にいてくださるという約束は今も変わりません。
■結び
私たち人間は、本来、神の似姿として造られました。それにもかかわらず、神に背き、神から離れることとなった人間です。人間の歴史を見てもわかるように、妬み、憎しみ、裏切りが繰り返されてきました。「平和を望む」と誰もが口では言っていても、家族、隣人、社会、世界では争いが繰り返されているのです。それが人間の罪であります。
神はそのような人間を見捨てることなく、神に立ち帰り、神と共に生きることができるように、そのために愛する独り子、主イエスを人としてこの世にお送りくださいました。
そして十字架への道を歩み、神との和解を成し遂げて下さったのです。それは決して2千年前の人々のためではなく、今、生きる私たちのためでもあります。なぜなら、今も、神は私たちと共にいてくださるからです。主イエスがこの世にお生まれになってくださったこのクリスマスは、お生まれになった喜びだけではなく、私たちへの救いの約束、そして今も、いつも、一人一人と共にいてくださるという途方もなく壮大な約束の始まりなのです。主イエスのご降誕に心から感謝いたします。
ここに集うお一人お一人が神様からの恵みを受け取り、神様が共にいてくださる安心と喜びの中を生きていくことができますように、と心から願っております。
■祈り
恵みと憐れみに富み給う、私たちの創り主、全能の父なる神様。あなたの御名をこころから賛美いたします。
今宵、わたしたちは、まことの光、まことの希望である救い主、主イエス・キリストのお誕生を祝うためにここに集いました。感謝いたします。
主イエスはこの世にお生まれになり、そしてすべての人の隣人となり、悲しむ人、苦しむ人、不安と孤独の中にある人の隣り人となってくださいました。そして父なる神の計り知れない愛をお示しくださいました。
神様、今、この礼拝に集うわたしたちに、御子イエス・キリストの誕生とその生涯、十字架とそして復活の出来事を思い起こさせてください。
二千年前、ベツレヘムに輝いた星を思い、御子の誕生に立ち会った羊飼いや学者たち、そのほかの多くの人々のように、わたしたちを御子のもとに導いてください。互いに喜びを分かち合い、共にこのクリスマスを祝うことができますように。あなたがいつも共にいてくださることを私たち一人一人が感謝して受け取ることができますように。
主イエスキリストの御名によって感謝し、祈り願います。
アーメン
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