説教題: 『ゆるぎない真理』
聖書箇所: ガラテヤの信徒への手紙 2章11~14節
説教日: 2024年2月11日・降誕節第7主日
説教: 大石 茉莉 伝道師
■はじめに
今日与えられた箇所は11節から14節という短い箇所です。登場人物はケファつまりペトロ、それからバルナバ、そしてパウロです。場所はアンティオキアと記されています。そしてケファ、ペトロに非難すべきところがあったので、パウロが面と向かって反対した、とあります。さらにバルナバもペトロに引きずられてしまった、そのことも含めてパウロの怒りが露わにされている、それがこの箇所に記されている、そのことは文字からお分かりいただけると思います。さて、このようなパウロの怒り、衝突が起こったのは何が原因であったのでしょうか。短い文面だけでは計り知れない背景を知るところから始めましょう。
■異邦人=罪人との食事
場所はアンティオキアです。ここは聖書巻末の地図7、パウロの伝道旅行、シリアとキリキアの間にある地中海に面したキプロス島の近くのアンティオキアです。エルサレム教会はユダヤ人教会の中心地でありましたが、ここアンティオキア教会は異邦人伝道の拠点でもありました。異邦人というと、私たちにとって異なる国、それも見ず知らずの国の人たち、というようなイメージを描くかもしれませんが、聖書に記される異邦人とはユダヤ人以外のことを指します。毎回繰り返して言うようですが、パウロが異邦人伝道のために神から使命を与えられた、というのは、ユダヤ人以外、もっと詳しく言えば、割礼を受けているユダヤ人以外の人たちに救いが与えられている、割礼を受けて律法を守る、そのことにより救いが与えられると信じるユダヤ人以外に救いがある、ということを告げ知らせる、ということでありました。さて、このアンティオキア教会ではユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が混ざっていました。キプロス島が近くにあり、ユダヤ人ではない、つまりギリシア人キリスト者が生まれていた、それがパウロの伝道の成果であったわけです。ここではユダヤ人と異邦人が一つの教会を形成していました。パウロはユダヤ人であろうが、異邦人であろうが、救いは一つ、を標榜していたわけですから、そのパウロとバルナバが率いるアンティオキア教会においては両者に何の隔たりもありませんでした。彼らは共に食事をしていました。
私たちも教会では兄弟姉妹、共に集う者たちが一緒に食事をすることは何の躊躇いもありませんし、良き交わりの時として与えられているものであります。そしてたとえ宗教の異なる方と食事を共にすることがあったとしたら何か配慮するようなことを考えることはあっても禁じられていると言うようなことはありません。しかし、ユダヤ人にとって、異邦人は割礼を受けていない者、つまり救いの外にあるもの、従って罪人でありましたから、共に食事をすると言うことはユダヤ教において禁じられていたのです。福音書でも主イエスが、聖書に記されているところの「罪人」との食事を共にすることに対して、ファリサイ派の律法学者がそれを問題にすると言うところがありました。振り返ってご覧になりたい方はマルコ2章13節以下をお読みください。主イエスがいわゆる「罪人」と呼ばれる人たちにも同様の救いをお示しになったように、パウロの告げる福音、救いはユダヤ人、異邦人を隔てるものはないのだ、と言うものでありましたから、このアンティオキア教会ではユダヤ教の戒めを乗り越えて、ユダヤ人と異邦人が共に食事をしていたのでした。
■パウロのケファへの抗議
さて、そのようなアンティオキア教会にケファつまりペトロがやってきたのであります。来た理由は書かれていません。そして12節にあるように、ケファは異邦人と共に食事をしていました。使徒言行録15章においてペトロは、神は異邦人にも同じ救い、聖霊をお与えになっている、つまりユダヤ人と異邦人に何の差別もないのだと人々に向かって断言しています。ペトロもキリスト者となること、キリスト教会の信徒となることにおいて、ユダヤ教の戒めによるのではない、と言うパウロの主張に同意することを表明しています。さてそうしてこの混在するアンティオキア教会において、その主張がそのままに実行されたかというと、実は異なった振る舞いがあったのでありました。12節です。ヤコブのもとからある人々が来たら、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みして、ケファ、つまりペトロが身を引こうとした、とあります。ヤコブはエルサレム教会の指導者でありました。彼はキリスト者も伝統的なユダヤ教の戒めを守るべきであるという立場をとっていました。つまり割礼を大切にし、異邦人と席を同じくせず、という考え方です。このヤコブのところのある人々がアンティオキア教会にやってきたのです。実情視察という意味なのか、それともたまたまやってきたのか、そのあたりのことは何も書かれていません。しかし、ペトロにとっては気になる人たちであります。そのような人々を見たペトロは、「しり込みし、身を引こうとした」のです。「次第に身を引いて、離れていった」と訳すことができます。つまり、ペトロは異邦人たちとの食事の場面をヤコブのところの人たちに見られたくなかった。そしてそのことを非難されたくなかったのです。「次第に」とありますように、さりげなさを装いつつも、明らかにその場から離れました。この表現からわかりますペトロの行動は、きちんと説明して席を離れるということではなく、何の説明もせずに、少しずつ身を遠ざけるという様子であります。続く13節にはそのようなペトロの行動がアンティオキア教会に混乱を引き起こしたことが書かれています。バルナバは前回ともに読みましたように、パウロと共にエルサレム会議に共に臨んだ人物であり、パウロの良き協力者であり、このアンティオキア教会の代表的な人物でありました。そのバルナバまでもが食事の席から身を引くような行動を取ったのです。パウロはペトロに向かって「面と向かって反対した」と11節にあります。この面と向かって、とは、まさに間近で向き合ってはっきり強く抗議する、というとても強い意味の言葉です。ペトロは口ではユダヤ人と異邦人に何の差別もないと言ったにも関わらず、実際に自分が異邦人と食事をしているところをエルサレム教会の人たちに見られたら、後で何を言われるかわからない、という心理が働き、食事の席から身を引くという行動を取ったのでした。つまり、神を畏れず、人を恐れたのでありました。神の眼差しよりも人の目を気にしたのです。
■偽りの行動
そのペトロの様子に他のユダヤ人たちも同調するような行動を取りました。さらにはパウロの一番の理解者であるバルナバまでもが引きずり込まれた、というのです。パウロは、神がどう見ておられるか、神の御心は何か、ということだけに目が向いており、他の人、人間がどう思うかなどということは瑣末なことでありました。しかし、ペトロは人がどう見るか、ということに心が向いている。このことは単なるその場の行動のことではなく、信仰の根幹に関わることでありました。さらにペトロが席を離れることによって、残された異邦人キリスト者たちはどう感じたでありましょうか。結局、自分たちは差別される存在なのだ、やはり割礼が必要なことなのか、と悲しみと共に動揺すら与えたのでした。パウロはそのことを問題にし、それゆえに、パウロは激しく非難したのです。
この「心にもないこと」「見せかけの行い」と訳されている言葉は繰り返し同じ単語が使われているのですが、これは、元々は演劇の用語でありました。演技、つまり、本来の自分とは違うという意味において、神の前においては仮面をはがされるのであり、神の前では通用しないというものです。そこから「偽りの」という意味を持つことになります。そしてこの箇所において、パウロがこの言葉を使っているのは、単に偽善、欺きということではなく、福音に対する反逆という強いものであり、それはいわば不信仰の表れとしてとらえているのです。言っていることとやっていることが違うじゃないの、しょうがないなぁ、というようなことではなく、このペトロの振る舞いは福音伝道者として神から与えられた使命に対して、偽りとなるかどうか、というような大きな問題なのです。パウロはそのことを「福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていない」と言っています。
■福音の真理にのっとって歩く
この「福音の真理にのっとって歩く」とはどう言うことであるのか。そのことは次回、ともにお読みする箇所に明確に示されています。それはこのガラテヤ書の核心でもありますので、何度も繰り返し確認いたしましょう。先取りですが、16節にこのようにあります。「人は律法の実行ではなく、ただ、イエス・キリストへの信仰によって義とされる」これが信仰の中核であり、宣教の中心であります。パウロはそのことを主イエスから直接に示され、それに則って生きること、人々に宣べ伝えることだけを考えているのです。異邦人とともに食事をするということは、律法の束縛から解放された姿であり、それは主イエスを救い主と告白するというそのことを信じることによって与えられる恵みであります。しかし、ペトロはそのキリスト者の恵みを無にしたのです。そしてパウロはそのことが彼一人の問題ではなく、教会全体にもたらす影響のことを問題にしているのです。教会全体を再びユダヤ教主義へ、律法主義へと逆戻りさせるものであり、そしてまた、異邦人への救いを排除するものとなるからです。パウロがここでペトロをこのように厳しく糾弾したこと、このことは単に2千年前の歴史の一コマではありません。この出来事は、キリスト教がユダヤ教という民族宗教から、イスラエルという限定された人々から、すべての人々、万人のための救いへと開かれた宗教である、ということを問うものであり、この出来事が明らかにされたことによって、キリスト教が世界へと開かれていったと言っても過言ではないのです。それほどに大きな出来事であります。だからパウロは、ペトロに「ユダヤ人でありながらも異邦人のように生活しているのに、異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのか」と強く抗議したのです。ペトロは直接に、異邦人の人々に向かって、「あなた方は割礼を受けていないから一緒に食事はできません」と言っているわけではありません。また、「割礼を受けた方がユダヤ人と心置きなく食事ができるから、割礼を受けなさい」と言ったわけでもありません。しかし彼の行動は結果として、そう言っているのと同じことになります。それをパウロは異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのか、と非難したのであります。パウロはペトロの行動が神の恵みを否定し、人間の業によることを示していることが許せなかったのです。それは福音の真理にのっとっていない、福音の真理に従っていないということを明らかに示したかったのです。そのことをパウロはわざわざガラテヤの人々への手紙に記しました。その目的は、このアンティオキアの教会で起こったことがガラテヤの教会においても起こっているからであり、そのことに対して忠告を与えることができると思ったからです。決してペトロをおとしめようとか、ペトロの人格を否定したわけではないのです。ここで取り上げられたことは、極めて神学的、信仰的な事柄でありました。ガラテヤの教会の人々は、このことを知ることによって、歪んだ福音を正すことができるとパウロは考えているのです。誤った道に踏み外してしまいそうなガラテヤの人々が踏みとどまってくれるように、その軌道修正ができるように、パウロはそのような思いでこの出来事を報告しているのです。
■結び
パウロはこのガラテヤの信徒への手紙の中で、主イエスを信じる者には「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もない」と述べます。キリストの教会は、ただキリストの恵みによって誰もが同じであり、一つの救いに与っているのであります。私たちも時に、古い習慣や、自分の物差しで人を判断したり、成果や業績を求めたりすることがありますが、それは福音の真理を狭めることになってしまうのです。揺るぎない真理に立った信仰生活はすべての人を自由へと向かわせ、神の救いの喜びを共に分かち合う生き方であります。そのことが求められていることをこの出来事から受け止めたいと思います。
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