説教題:『ゆるがぬ信頼』
聖書箇所:詩編 46編1節~12節
説教日:2022年4月24日・復活節第二主日
説教:大石茉莉 伝道師
■はじめに
今日の礼拝の説教後の讃美歌は267番です。この267番は宗教改革者のマルティン・ルターが作りました。ルターが「神はわがやぐら」と歌いましたのは、この詩編46編をもとにしています。ルターは、私たちが自分たちの力に従うならば、悪の力に打ち勝つことはできないが、ただキリストの恵みに依り頼むとき、悪に打ち勝つことができるのだ、と歌いました。そしてその信仰に多くの人が続いたのです。ですから、この讃美歌267番、そして詩編46編は宗教改革の象徴であり、私たちプロテスタント教会の原点ともいえるものなのです。
■神は我らの避けどころ
「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けて下さる。」2節の「避けどころ」という言葉は、詩編の始まりの第2編12節に出てまいります。
そこには「いかに幸いなことか/主を避けどころとするひとはすべて。」とあります。神へと逃れる事の幸いに改めて目を向けるよう私たちを促しています。そしてそのような「ひとはすべて」と記されているように、個々人の祈りではなく、教会という共同体としての幸いであると語りかけているのです。
■イザヤの信仰
詩編は「詩」でありますから、それが書かれた背景があります。この詩編46編の2節「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難の時、必ずそこにいまして助け出してくださる。」8節には「ヤコブの神は私たちの砦の塔。」そして12節にも同じ言葉が繰り返されています。「神は私たちにとっての避難所であり、力。苦境の時の確かな助け。」この簡潔で力強い詩が生まれた背景にはイザヤの信仰があります。
少し歴史的なことをお話しいたしますと、紀元前701年、ユダ王国の首都エルサレムの北方から、アッシリアの大軍が侵略してきました。そしてエルサレムは包囲されました。侵略してきたアッシリアのセンナケリブ王は自ら全軍隊を率い、ユダの各都市を陥落させてきました。そして首都エルサレムが取り囲まれた時、時の預言者イザヤはこのように申しました。イザヤ書30章15節です。「まことに、イスラエルの聖なる方/わが主なる神は、こう言われた。/「お前たちは、立ち帰って/静かにしているならば救われる。/安らかに信頼していることにこそ/力がある」と。」預言者イザヤは、この敵や大軍は必ずや引き上げるはずである、と国王や民を激励したのです。事実、この時はアッシリアの大軍にペストが流行し、大軍は撤退せざるを得なくなりました。さらには、アッシリアの国内にクーデターが起こり、センナケリブ王は暗殺されてしまったのです。イザヤは神への揺るぎない信頼を語りました。危機に際しても、神に立ち帰り、静かに黙し、安らかに信頼すること、このことが大いなる力である、と語ったのです。このようなイザヤの信仰が、この詩編46編が生まれた背景にあるのです。
■危機の中で
当時のユダ王国の人々が迫ってきた危機に右往左往したように、私たちも危機に直面した時、慌て、うろたえ、動揺します。しかし、この詩編は何を教えているかと言いますと、「ほかの何ものでもない、神ご自身を信頼して、その御手に一切を委ね、その導きに従うこと、ひたすら神ご自身に委ねる。」これがこの詩編のメッセージです。
3節、4節では「地が揺らいで海の中に移り、海の水が沸き返り、その高ぶるさまに山々が震える」と書かれています。地震、洪水のイメージです。私たちに未だ傷跡を残している東日本大震災を思い起こさせます。地が根底から揺さぶられ、津波という何度見ても信じられないような濁流が押し寄せる恐怖を私たちは経験しました。友人、家族、教会・・・多くの命が失われ、悲しみのどん底のあの光景を今でも私たちは忘れることはないでしょう。そのような危機的な状況は自然災害だけではなく、信仰的試練として、私たちの現実生活、信仰生活、教会にも迫りくるのです。
実際、この2年以上というもの、コロナウイルスという感染症の恐怖に私たちはさらされてきました。留まるところを知らないコロナウイルスは新たな変異種を生み出して日本だけでなく、世界中を覆っています。現在、コロナウイルスの感染者は日本で750万人、亡くなった方は3万人、世界の感染者は5億人、亡くなった方は620万人です。コロナという突然に現れた感染症に対する恐怖、不安から始まり、生活の大きな変化、環境の変化は私たちに大きなストレスとなっています。電車に乗る、外で食事をする、友達とあっておしゃべりをする、今まで当たり前であった事は、当たり前ではなくなりました。様々な産業が制約を受けて、収入に不安を覚える方もいるでしょう、医療に直接に携わっておられる方々はその最前線で緊張を強いられる日々がずっと続いているのです。7節の聖句のように「すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。」まさに世界中が揺らいでいるのです。私たち教会も大きな制約を受けています。この2年間、オンラインで配信される説教に力を頂きながらも、この落ち着く空間、礼拝堂に足を運ぶことができなくなった兄弟姉妹は少しずつ少しずつ弱さを覚えているというのが正直なお気持ちではないでしょうか。この礼拝堂に身を置いて、静かな礼拝の時をもち、そして兄弟姉妹との楽しい交わりの時を持つ。そんな当たり前の主の日が変わってしまったのです。このような途方に暮れてしまうような難局、悩みの時が続いてきたのです。
■仰ぎ見よう
そのような時、私たちは何をなすべきでしょうか。11節を見ましょう、新共同訳では、「力を捨てよ、知れ/わたしは神。」となっていますが、口語訳、また、新しい協会共同訳ではこのように書かれています。「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」原文を直訳しますと、「やめなさい。知りなさい、わたしが主である、わたしが神であることを」となります。神以外のもの、つまり、自分の力や、知恵、人間の力に依り頼むことを止めなさい、神様以外のものに依存するという空しい努力をやめなさい、と言うのです。この「知りなさい」という言葉は、「信じなさい」とも訳せる言葉です。「やめなさい、信じなさい、わたしが神である。」主に立ち帰り、主の前に静まり、神様がゆるぎない砦であることを知りなさい、というのです。そうです、神様ご自身こそが砦、陥落することのない要塞なのです。そして神が私たちと共にいてくださる、と詩編の詩人は8節、12節で力強く繰り返しています。「万軍の主は私たちと共に、ヤコブの神は私たちの砦の塔。」イスラエルの民の信仰告白です。万軍の主であり、ヤコブの神であられる方が私たちと永遠に共にいて下さるという約束を信じるという信仰告白のことばです。
この46編には「セラ」という言葉が4節、8節、12節に付け足すように記されています。この「セラ」とは休止、休息という意味です。「主は永遠に私たちと共に!」という信仰告白を思い巡らし、立ち止まり、振り返り、神の恵みをじっくり味わう時であり、次への力を頂くのです。預言者イザヤがユダの王や民に「落ち着いて主に信頼せよ」と語ったメッセージが反映されています。
今、この詩編46編を現代の私たちに語られたものとして受け取りたいのです。
■神は我々と共に
マタイによる福音書1章23節以下にはこのように書かれています。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じた通り、妻を迎え入れた。そして、その子をイエスと名付けた。
生まれたときから、「神は我々と共に」という意味を持つ主イエスが、私たちには与えられていることを思い起こしてください。神は私たちと共におられることの約束の実現として主イエスをこの世に送ってくださいました。私たちは主イエス・キリストがおられることによって詩編の詩人と同じように、イスラエルの民と同じように、「主は私たちと共にいてくださる」と告白することができるのです。主イエスはそのお生まれから私たちと共におられ、十字架の死から復活されたとき、このように言われました。マタイ28:20です。「私は世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」私たちは主イエスの生と死、そして復活を信じています。主は今も生きておられ、神の右に座しておられ、「いつもあなたがたと共にいる。」と言ってくださるのです。このお言葉により、私たちはいつも神が共にいてくださる安心を得ることができるのです。
このような大きな揺るがぬ信頼を与えられているにもかかわらず、私たちは不安に押しつぶされそうになります。小さな舟に乗った私たちは、波をかぶって水浸しになると、その舟に主が乗っておられることを、いとも簡単に忘れてしまい、溺れて死んでしまいそうです、と言うのです。しかし、主は共にいて下さいます。神は風や湖をお造りになられた方、主は風や湖を従わせる権威を持っておられるのです。危機のただ中に立たれる主イエスを仰ぎ見ることができるように、主イエスを信頼して「主は私たちと共にいてくださる」と力強く告白することができるようにありたいと願うのです。コロナの危機はいつまで続くのか、私たちにはわかりません。どうなっていくのかを思うと、様々な不安に心が折れそうになることもあります。礼拝に集うことのできないもどかしさ、讃美歌を力強く歌うことの叶わない悲しさ、兄弟姉妹と共に食卓を囲むことのできない淋しさ、それらは私たちの心に影を落とします。しかし、そのような時だからこそ、落ち着いて主に信頼し、力強く「神は我らと共に」と告白したいのです。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難の時、必ずそこにいまして助けてくださる。」この聖句は今年度の教会標語です。日々心に刻み、信仰の養いを日々祈り願い、力強く歩んで参りましょう。
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