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『ほむべき方の子、キリスト』 2023年10月8日

説教題: 『ほむべき方の子、キリスト』 聖書箇所: マルコによる福音書 14章53~65節 説教日:2023年10月8日・聖霊降臨節第二十主日 説教: 大石 茉莉 伝道師

■はじめに

主イエスは真夜中にゲッセマネの園において、ユダの接吻を合図に祭司長、律法学者、長老たち一行に捕らえられました。そして彼らは主イエスを大祭司の家に連れて行ったのでありました。今日の53節~65節はほとんどが大祭司を始めとする宗教裁判のための議員たちのことが記されておりますけれども、54節にはペトロの様子が記されております。ペトロは離れた所から主イエスの様子を知るために、大祭司の屋敷の中庭に来ており、下役たちと一緒に座って火に当たっていたと記されています。いつでも弟子たちの先頭に立ち、我こそ、主イエスの一番弟子と自認し、堂々とした態度でいたペトロとは同一人物と思えないほど、下を向いて、時折上目遣いで主イエスの様子をうかがう、背中を丸めて、なるべく目立たないようにしながらこっそりとたたずむ様子が目に浮かんでまいります。しかし、ここで大切な表現がされております。54節、「ペトロは遠く離れてイエスに従い」、この「従い」という言葉は、弟子として主イエスに従う、という時に使われる言葉であります。次週66節以降はペトロがイエスを知らないと言う、と言う箇所になります。今日のところは、そのことだけを覚えておきたいと思います。


■不当な裁判

聖書の小見出しには「最高法院で裁判を受ける」と書かれておりますけれども、まず、この「最高法院」とは、ローマ帝国支配下における最高裁判権をもった宗教的・政治的組織、いわゆる最高裁判所のことです。71人の長老によって構成され、議長として1名、副議長として1名、そして69人が議員でありました。彼らは祭司、法学者、ファリサイ派などによって構成されていました。この夜ここで行われたものは、ユダヤにおける伝統的な裁判の手続きを踏んでいるとは言えません。まず、正式な裁判はエルサレム神殿で行われるものであります。そして、通常は日中に裁判が開かれます。さらに申しませば、祭りの間は開かれないということになっておりました。それにもかかわらず、主イエスの裁判は、ここに記されております通り、場所は大祭司カイアファの屋敷、そして時刻はまだ夜の明けない真夜中、祭りのただ中に開かれたのであります。通常、裁判は議員71名のうち、23名の出席で成立します。53節には、祭司長、長老、律法学者たちが「皆」、集まってきた。と書かれておりますけれども、この「皆」はもちろん全員という意味ではないでしょう。主イエスを亡き者にしようとする闇の力に賛同する人々が「皆」という意味であり、そういう意味では、すでに同じ結論を持った者たちが呼び集められていたと思われます。主イエスの罪状を確定して、当時ユダヤを支配していたローマ帝国の総督ピラトに引き渡す、これが彼らの目的でありました。彼らがいかに画策したかということが、55節に示されています。「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。」彼らは自分たちがしようとしている事の正当性をまとめたかったが、辻褄が合わなかったのです。56節にあるように、「多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていたからである。」ユダヤの裁判においては、その証言は一人の証人によって立証されることはなく、二人ないし三人の証言によらなければならないと律法において定められています。そもそも偽証してはならないという神の戒めを破りながら、形式上の細かな手続きを守ろうとするという彼らのやり方は律法主義者らしいと言えるのかもしれません。

なんとしてでも主イエスの罪状を確定したい彼らは、次なる作戦に出ました。数人の者が立ち上がって、新たなる不利な偽証をしたのです。「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建てて見せる』というのを、私たちは聞きました。」主イエスがこういってエルサレム神殿を冒瀆した、これが、彼らが主イエスを有罪とするために用意していたシナリオであったようです。実際に主イエスがこのように言われたのでしょうか。たしかにすでに読んでまいりました13章1節以下で、主イエスは神殿の崩壊を予告して、「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」と言われました。また、ヨハネによる福音書の2章19節には、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」という主イエスのお言葉がありますが、その後の21節に「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。」と記されており、人の手による建造物であるエルサレム神殿はいつか壊される日が来るが、主イエスが十字架にかかり、三日目に復活することによって、主イエス・キリストの体である新しい神殿、新しい教会が建てられる、主イエスはそのことをお語りになったのです。ヘブライ人への手紙9章11節に「人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋」という表現があります。私たちはこのように、主イエスが手で造られたものでない神殿であることを知っております。しかし、表面的に言葉を捉え、また言葉尻を捕らえたいと思っている彼らにとっては表向きの理屈としては十分だったかもしれません。

ソロモン王はエルサレム神殿を造った時、贅を究めて造ったその神殿を誇ることなく、神にこのように祈りました。列王記上8章27節です。「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。」神の偉大さの前には人が造ったものなどはかないものであるということをへりくだって申し上げたのでありました。祭司長や律法学者たちにこのような気持ちはみじんもなく、神殿にしがみついています。それは神への絶対性ではなく、神殿における自分たちの地位、プライドにしがみついているものであって、大切なのは神ではなく、自分たちのポジションでありました。


■「ほむべき方の子、キリスト」

そのような偽証を重ねて、主イエスの罪を確定したかった祭司たちでありましたが、それでも彼らの証言は食い違ってしまいました。そこで大祭司は主イエスに「何も答えないのか。不利な証言をしているが、何か言うことはないか。」と問うたのです。しかし、主イエスは何もお答えになりませんでした。そこで大祭司はたたみかけるように「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と問いました。メシアと訳されている言葉はギリシア語でキリスト、救い主。口語訳聖書では「あなたは、ほむべき方の子、キリストであるか。」でありました。このほうが良い訳であると思います。大祭司は「お前は神の子である救い主か」と聞いたということです。これは主イエスの本質に迫る質問です。おそらく大祭司は、この決定的な質問に対して、主イエスがはっきりと答えると思っていなかったのであろうと思われます。もし、そうであると言えば、それは明らかに自分を神とする神への冒涜であり、もし、そうではないと言えば、主イエスの今まで行ってこられたことや、話してこられたことを否定することになるからです。ですから、はっきりとした答えが得られるとは思っていなかったのです。しかし、今まで黙っておられた主イエスは答えます。「そうです。」日本語では単に「そうです」と訳されておりますけれども、原文を正しく訳しますと、「わたしがそれである。」となります。つまり、「わたしがほむべき方の子、キリストである。」ということです。ほむべき方とはほめたたえられるべき方、つまり、神のことであります。ですから神の子、救い主である、とはっきりと言われたのです。決定的な問いに対しては、決定的に宣言されました。

続いて主イエスはこう言われました。「あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」主イエスはご自分が全能の父なる神から権威と力を与えられ、再び来るということを、旧約聖書を引用してお話になられました。「全能の神の右に座り」とは、詩編110編1節において神が言われたお言葉「わたしの右の座に就くがよい。」から来ています。また、「雲に囲まれて来る」というのは、ダニエル書7章13節「見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り」という言葉であります。ダニエル書はさらに救い主の栄光を次のように語っています。14節です。「権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。」そのことをあなたがたは見るようになる、知るのである。と言われたのです。こうして大いなる力を持つメシアである、わたしがそうである、とはっきりと宣言されたのでありました。

このマルコ福音書を共に読み続けてまいりまして、「メシアの秘密」というキーワードが何度か出てまいりました。つまり、主イエスがメシアである、救い主である、というそのことに対して、黙っているようにお命じになり、その姿は隠されてきたということです。

悪霊の追放や病気の癒し、様々な御業をなさってこられた時、主イエスは「このことを誰にも言ってはいけない」とお命じになってきました。また、8章のペトロが信仰を告白したとき、「あなたはメシアです」と告白したときも、「ご自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。」と30節にありました。これまではこのように、主イエスはご自分がメシア、救い主であることを隠してこられたのでありました。

しかし、今、この場において、主イエスはご自身で「私がメシア、救い主である」と宣言されたのです。

主イエスはご自身のことを、この引用にもある通り、「人の子」と言っておられます。この「人の子」という言葉は「神の子」と「キリスト」を説明する言葉としてマルコ福音書で用いられてきました。主イエスは私たちと同じ人間となってくださった、その人間が神の子である、これが私たちの信仰の中心であります。人となってくださって、私たちの歴史の中に共にいて下さり、そして罪を犯していないにもかかわらず、罪人として裁かれるのであります。


■主イエスの救いとは

主イエスの言葉を聞いた大祭司は、「これでもまだ証人が必要だろうか。」と申しました。この主イエスの宣言によって、一同は死刑にすべきだと決議したのです。主イエスが有罪となり、十字架にかかる、そのことは主イエスご自身が宣言された言葉によって動き出したのです。それは何を意味しているかと言いますと、主イエスがこの世に来られたのは、人々を驚嘆させ、惹きつける、賞賛を得るためではなく、弟子たちからも裏切られ、人々から侮辱されて十字架につけられる、それが真の救い主としての目的であったからです。人々が「すばらしいお方だ」とその御業にほれぼれするような場面では、主イエスはご自分がほむべき方の子、神の子であられることは隠しておられました。そしていま、死刑に値すると定められる場面において、自らお語りになったのです。罪人として死に定められ、人々から唾を吐きかけられ、こぶしで殴りつけられ、平手打ちにされる、そのような扱いを受けて十字架につけられる、そのお方が私たちの救い主であります、それが私たちの救い主、主イエス・キリストであります。主イエスの道、その最終目的地は十字架である、それが神のお決めになったご計画であったのです。


■結び

当時のユダヤの人々は、神を信じ、神が与えてくださる救い主を待望していました。しかし、彼らは、「わたしがその救い主である」と言われた主イエスを死刑に定めました。彼らは主イエスが自分たちが考える救い主に合わず、そして主イエスの恵み、神の恵みがあまりに大きいゆえに、自分たちを超える存在を受け入れることができなかったのです。それは自分たちの生活、自分たちの規範、自分たちを脅かすものとしか捉えることができなかったからです。それは神の恵みを小さくするということです。それは私たちにも起こりうることです。自分の尺度、自分の基準に捕らわれているからです。恵みは神様さまから尽きることなく与えられるものです。しかし、そのただ与えられる恵みを、ただ受け取る、実はそれは難しいことです。自分たちの尺度、先入観念でそれに合った者だけを受け入れ、それ以外は捨てるのです。私たちの尺度の小ささが主イエスを十字架へと定めることとなりました。それは祭司長、律法学者、長老たちだけでなく、今の私たちにも当てはまることなのです。神の愛、神の恵みは私たちの尺度でははかることはできません。そこに当てはめようとすることはできないのです。すべての束縛から自由に、神の愛を受け取る、そのような生き方が私たちには求められています。それは思いのほか、難しいことであるかもしれませんが、それが私たちの信仰における戦いでありましょう。神の御業、神の救いを小さくすることのないように。そのために主イエスは十字架にお架かりになったのであります。

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