説教題: 『そばにいてくださる方』
聖書箇所: ヨハネによる福音書 16章5~15節
説教日: 2023年5月28日・聖霊降臨日(ペンテコステ礼拝)
説教: 大石 茉莉 伝道師
■はじめに
今日はペンテコステ、聖霊降臨日です。教会における三つの大きな祝祭日のひとつであります。英語で五角形をペンタゴンといいますように、ペンテコステは「5」に類する言葉でありまして、ギリシア語で「五十番目、五十日目」ということです。復活された主イエスは、40日間神の国について弟子たちに語られ、「まもなく聖霊が降る」と弟子たちに約束して天に昇られました。主イエスのご復活から五十日目、春の収穫感謝の祝いの五旬祭の日、集まって祈っていた弟子たちの上に主イエスの約束通り、神からの聖霊が降りました。使徒言行録1章8節「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」主イエスは天に昇られる時、そのように言われたのでありました。そして彼らは聖霊に満たされ、力を得て、色々な国の言葉を話すようになり、弟子たちは宣教のために世界中に広がっていき、各地に教会ができることとなり、それがこうして2千年続いているのです。それゆえに、その原点である聖霊降臨の日は教会の誕生日と言われているのです。
■主イエスの告別説教
今日のこのペンテコステ記念礼拝は、ヨハネによる福音書16章5節から読んでいただきました。このヨハネによる福音書14章から17章までは主イエスの告別説教、つまり別れの説教と呼ばれております。13章において、主イエスは最後の晩餐を共にされ、弟子たち一人一人の足を洗われ、そしてユダの裏切りも予告されたのでした。そして14章からは自分はまもなくあなたがたの前からいなくなるが、心を騒がせず、神を信じなさい、と言われます。わたしは父の家に行く。そして、父に別の弁護者を遣わしてくださるようお願いする、と主イエスは約束されたのです。その弁護者はあなたがたと永遠に一緒にいる。その方は真理の霊である、と14章15節以下に初めて、「その方」つまり「弁護者」のことが弟子たちに語られます。18節には「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。」と主イエスは言われます。それは父なる神の遣わしてくださる弁護者、真理の霊、この霊があなたがたと一緒にいることによってそれは実現すると言われるのです。26節にはこのようにも書かれています。「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」ここで、弁護者、真理の霊、は、すなわち「聖霊」である、ことがわかりました。そして15章26節に「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」とも記されております。主イエスの別れの説教と言われる14章から17章において、主イエスは聖霊のことを弁護者、真理の霊、と言っておられます。そして、そのお方、聖霊は、主イエスが父なる神にお願いし、あなたがた、つまり弟子たちに遣わされる。そして聖霊は永遠に一緒にいる。真理であり、すべての事を教え、主イエスがお話になられたことをことごとく思い起こさせてくれる存在である、と言うのです。
■悲しみに満たされている弟子たち
主イエスはこうして聖霊の存在、そして聖霊がどのようなお方であるか、を弟子たちにお話になってこられました。しかし、それを聞いた弟子たちの様子はどんなであったかと言いますと、今日の御言葉の6節に示されています。「心は悲しみで満たされている」というのです。聖霊がどのようなお方であり、どのような働きをしてくださるか、ということよりも、主イエスが14章から話してこられた別れのこと、主イエスご自身がいなくなられるということで悲しみに満たされているのです。主イエスが父なる神のもとに行かれること、もうこの地上においてはそのお姿を見ることができなくなるということ、そのことを繰り返し主イエスがお語りになるのを聞いて、彼らはもはや、どこに行くのかも聞くことができないほど、恐れと不安と悲しみに満たされていました。弟子たちは主イエスの人としての公生涯の数年間を共に過ごしてきました。正確な年月はわかりませんけれども、まさに寝食を共にして、恵みの奇跡を目の当たりにして、語られる魅力あるお言葉に惹かれ、そのお優しいお姿がいつも共にあったのです。満ち足りた日々でありました。ですから、主イエスが、あなたがたから離れる時が来ている、別れの時を迎える、と言われたそのことは、弟子たちにとってとても信じがたく、受け入れがたいことでありました。
■しかし、実をいうと
しかし、実をいうと、と主イエスは7節で言われます。「わたしが去っていくのはあなたがたのためになる」。私がこの地上を去って、父のもとにいくことは、悲しむべきことではなく、良いこと、喜ぶべきことなのだ、と主イエスは言っておられます。この「実をいうと」という言葉は、原文に忠実に訳しますと、「わたしはあなたがたに真理を語る。」であります。ですから、実をいうとの「実」は事実ではなく、真実、神の真理なのです。主イエスは神の真理を弟子たちに語られる。それは「私が去っていかないと、聖霊があなたがたのところにこないのだ。」ということであります。
弟子たちの時代から現代のわたしたちまで2千年の時が経っております。主イエスは天の父のところに行かれ、それ以降の者たちは誰一人として主イエスのお姿を直接に見た人はありません。わたしたちは天地を創造された父なる神が、独り子である主イエスを救い主としてこの世に遣わして下さり、十字架と死、そして復活によって救いを実現してくださったことを信じております。そして、その主イエスを信じる、そのことによって私たちの罪が赦され、義とされて、永遠の命の約束を与えられていると信じております。その救いに感謝して生きることが私たちの信仰です。しかし、そのように信じる私たちは主イエスのお姿を見ることはできず、毎週、使徒信条で「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」と告白する、けれども、そのことを実際に見た人はいないのであります。それでも私たちが信仰を与えられ、目で見たわけでもない主イエスの存在、父なる神の存在、そして今も主イエスは父なる神の右に座しておられ、それでも私たちといつも、つねに、共にいる、とわたしたちが確信できるのは、それは聖霊が働いてくださっているからです。先ほど、主イエスは聖霊の働きを「永遠に一緒にいる。真理であり、すべての事を教え、主イエスがお話になられたことをことごとく思い起こさせてくれる存在である」と言われたことを聖書が記していることをお示ししました。まさに、このお言葉通りなのです。ペンテコステの日に聖霊が降って、弟子たちが力を得て、そして教会の歩みが始まりました。今のわたしたちはその時の、その力の延長上にいるのです。当時の弟子たちには目の前の主イエスが自分たちの目の前からいなくなってしまわれることが、納得できなかったでありましょう。辛くて仕方なかったでありましょう。しかし、その後、2千年、そしてこれから先のために、主イエスはあの時、目の前にいた彼らから離れることが彼らのためであったのです。今のわたしたちが目の前に主イエスがいらっしゃらなくとも、主イエスの存在を、父なる神の存在を、そしてその働きを信じ、確信することができるためなのです。
■聖霊が明らかにすること(罪・義・裁き)
さて、8節以下に、その聖霊が明らかにすることが何であるかが語られています。罪について、義について、裁きについて、であります。「罪については、彼らがわたしを信じないこと」とあります。聖霊は、主イエスこそが真の救い主であるということを明らかにされますが、それを信じないということです。主イエスを救い主と信じるならば、十字架にかけるということはありませんでした。しかし、主イエスを拒み、「十字架につけろ」と叫んだ人間の罪、そのことが明らかになるということです。神が主イエスをこの世に人として遣わされたのは、ヨハネ3章16節にありますように、「神は、その独り子をお与えになったほどにこの世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」でありました。しかし、それを拒み、受け入れなかった。そのことによる人間の罪が明らかになっています。2千年前のイスラエルで、犯罪者とみなされて十字架で死を迎えた一人の人の姿が、なぜ、ずっと、今も、人々の心に痛みを覚えさせるのでしょうか。そしてまた自らの罪と重なり、罪を悟るのでしょうか。それは聖霊が、その人の心に働きかけるからであります。
そして二番目には義についてです。義とは、本来、神によって人間が義とされる、よしとされる、正しい関係が取り戻されるということです。罪により失われた神様との正しい関係を取り戻してくださるのは主イエスの十字架の贖いです。その死により、私たちの罪を赦し、そして神との関係を取り戻して下さいました。主イエスは私たちの目の前におられなくとも、主イエスが取り戻して下さったその救いの恵みを信じる信仰に生きる。聖霊はそのための助け手として働いてくださるのです。主イエスの義を私たちが確信するのは聖霊の働きなのです。主イエスの十字架の前で、ローマの百卒長が「まことにこの人は神の子であった。」と告白したように、十字架の中に神の子の姿を認めさせるのは聖霊の働きなのです。十字架につけられた一人のユダヤ人の罪人を、人々が永遠に信頼し、神の子であると確信する、それは聖霊の働きによるのです。
三番目には裁きのことが示されています。裁きについては、この世の支配者が断罪されること、とあります。この世の支配者、支配者と聞きますと、政治的な支配者をまず思い浮かべると思いますが、本来の支配者は神であられますから、その神に敵対する力、神の支配から引き離すもの、つまりはサタンのことを指しています。サタンは人間を用い、支配して、主イエスを十字架につけ、サタンが勝利したように見えましたが、神は主イエスを復活させられ、そして死に勝利されました。ですから勝利はサタンのものではなく、神の勝利がこうして明らかにされました。主イエスの十字架と復活によって、悪は裁かれて破られました。神は裁きの御方でもある、そのことを確信させるのも聖霊の働きです。そしてわたしたちすべては神の裁きの前に立つという確信を人に与えさせるのも聖霊の働きなのです。聖霊は私たちに罪を悟らせ、そして救い主を確信させてくださるのです。パウロがコリントの信徒への手紙Ⅰ12章3節で「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」と述べているとおりです。
■結び
ヨハネは聖霊のことを弁護者と呼びました。この言葉の意味は「傍らに招く」、「そばに呼ぶ」という意味から成り立っている言葉です。裁判における弁護士を意味することもあります。まさに裁判において側にいて、一緒に戦ってくれる人、弁護人のことであります。他の聖書では、助け主、援助者と訳されているものもあります。慰め主、慰め手、と訳されたものもありました。つまり、支援のために呼び寄せられた者、援助者として招かれた者であります。主イエスは弟子たちと共にいた時、まさに弁護者としての役割を常に果たしておられました。主イエスは真理であるからです。そしてその主イエスが弟子たちのもとを離れられた時、別の弁護者が立てられたのです。主イエスの真理を思い起こさせ、傍らに立ち、そばにいてくださることが慰めとなり、励ましとなり、助けとなる。弁護人は私たちを真理に導き、悟らせてくれます。そして何よりも、主イエスの話されたことを思い出させ、それだけでなく、主イエスの愛をわたしたちに知らしめ、神の愛、その恵みに与らせてくれるのです。私たちの神はその旧約の時代から、「あなたと共にいる。見放すことも見捨てることもしない。」と約束してくださっている神なのです。聖霊は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」という約束を成就させるものなのです。
Comments